構成:坂本 のどか
写真:栗原 論
2025年から2026年春にかけてのメディアアート分野の動向を振り返る座談会。アーティスト、キュレーターなどの立場で分野に関わる有識者3名が挙げたトピックスについて議論していきます。後編は、前編に引き続き万博の話題から始まり、3者それぞれに印象に残った展覧会を取り上げます。締めくくりには、今やメディアアート分野に限らず、誰もが日常的に使用するようになったAIに抱く危機感を共有します。

吉田山 万博には行かなかったのですが、万博のパビリオン「null²(ヌルヌル)」を手掛けた落合陽一さんが、飛騨高山で開催していた「ヌルのテトラレンマ 記号に帰納する人間の物語」(日下部民藝館ほか、2025年)に、最終日にクロージングを兼ねたお祭りがあるというので行ってみたのです。万博の会場も含めて一連のシリーズ作品として提案されていて、そこで初めて万博のパビリオンにも興味が湧きました。
お祭りは100人ほどの規模のイベントで、集まったほとんどがおそらく地元の人たちのようでした。町もかなりコミットしていて、みんなで神輿を担いで町内を一周したりと、ちゃんとした神事として行われていました。土着の小さい祭りに集合した仲間みたいで、一体感がありましたね。そのあとには参加者と鮎を食べたりして。
飛騨高山という場所も素晴らしくて、近代化される前の日本がそのままアーカイブされているような街でした。新幹線も通っておらず、空港もない。移動のインフラがないからこそ、原風景というか、古い状態の街並みが開発されずにそのまま残っているのです。ここに落合さんは、何年にもわたってせっせと個展というかたちで作品を設置していくことで、自身の作家性を確立していくとともに、このおもしろい地に外から人が集まる動機づくりをしているような印象でした。
福原 「null」は共通しながらも、万博と飛騨高山、内容としてはかなり違う気がします。万博はデジタルツインをテーマにしていました。「あらかじめアプリで自分のデジタルツインをつくって行かないと体験が楽しめない」とアドバイスをもらって行ったのですが、会場に入ると壁面が全面ミラーになっていて、そこに自分のデジタルツインが映り、「null」について語るのです。そのあと移動すると、次の来場者たちがさっきまで自分たちがいた部屋で同じ体験をしているのを覗き見ることになります。さらに、落合さんやほかの人のデジタルツインが出てきて、NotebookLMのような音声がまとめて解説してくれるのですが、正直なところ、わからないんです。「何だったんだろう、結局は」と。
吉田山 僕は飛騨高山を見た限りですと、「null」を終活というか、人生の終わり以後の活動のようなことなのだろうと捉えているのですが。
畠中 null=ゼロだから、生きているものはみんな死ぬわけで。生命としての人間は死んでnullになるかもしれないけれど、デジタル化されて計算機上で第二の生として再生する。僕には、彼の作品はその考えを図解しているように見えてしまうところもあるのですが……。
ただ、落合さん自身のデジタルツインが登場して話し始めるという万博の作品は、まさに「計算機自然として、終わらない環境として生き続けることができる」という世界観の表現ですね。

畠中 計算機自然という言葉から派生して、先ほども名前が出た三原さんの展示の話をしたいと思います。3月に斉田一樹+むぎばやしひろこ+三原聡一郎によるモイズプロジェクトの展示「Exhibition: moids_project」(SHIBAURA HOUSE、2026年)が行われましたが、このプロジェクトで彼が言っているのは、「環境の中にずっといることで感じるものがある」ということです。例えば映像作品ばかりの芸術祭のような、1日いても全部見きれない展覧会があるのに対して、「(作品は)3秒でわからなかったら素通りされてしまう」という話もある。例えば、展覧会で1時間の映像作品を見るためには、あらかじめ計画して行かないといけないから、完全に見ることができないことの方が多いかもしれない。一方で、3秒見ただけで理解できるのか、という問題もある。作品としては、もちろんどちらの状況もありえると思いますが、モイズプロジェクトの場合、3秒で「すごい」となり、かつそこに1時間いたら、環境と自分が反応し合って、浸透してしまうようなことが起きる。浸透というのが僕にとっては結構重要だったりするのですが、それは、観客と作品が呼応し合って、一つの環境になるようなことです。作品は観客にとって見る対象というだけではなく、作品のなかに観客もいるという考え方です。
モイズプロジェクトの作品は、単純なインプットとアウトプットがある小さなユニットを、無数に空間に設置しています。同シリーズの作品が全部で3つありますが、基本的な考え方は同じです。音を拾うと音を鳴らす、一つひとつのユニットはそれだけのシンプルなシステムなのですが、一つが音を鳴らすと別のユニットが反応していきます。ユニットが全部で1,000個ぐらいあるので、一つが音に反応し始めると、連鎖するように空間に広がりが鳴り始める。一つの反応が拡散しながら、複雑な振る舞いを見せるわけです。
福原 20年かけてつくられている作品なんですよね。展示室に一晩泊まることができるプランがあって、私は宿泊して体験したのですが、畠中さんがおっしゃるとおりの体験をしました。
SHIBAURA HOUSEはほぼ全面ガラス張りなので、夜は見え方が変わって、昼間気づかなかったことに気づくのです。シリーズの一つ、《moids ver.∞》(2018)はアウトプットにマイクロ放電ユニットを用いていて、向かい合った針の先に電気が流れることでバチっと音がするのですが、夜になると昼間は見えなかった火花が見えて、匂いもします。それがホタルのようにパーっと光る。「本当に空気が燃えているんだ」という怖さというか、生々しさがありました。
人が出す微かな音にも作品が敏感に反応するのです。「見る」というより、そこにいる自分が作品に影響を及ぼして「体験する」という感覚。これは3秒では絶対に味わえません。
畠中 一見すると、あたかもプログラムで動いているような振る舞いにも見えるのですが、そうではない。テクノロジカルにアルゴリズムではないことをやっているというのがこの作品の重要なところです。
畠中 やんツーの個展「浮遊する器官」(BUG、2026年)は 、規模としてもテーマとしても、これまでの彼の作品のなかでも大変秀逸なものでした。展示された作品は、ドローンと投石器という、最新兵器と原初的な兵器との、AIによる20分ほどの対話です。「どちらも兵器なのだから同じだろう」と投石器が言うと、ドローンは「今兵器として使われているだけで、本来はそういう目的で発明されたわけじゃない」と返すように、兵器としてというよりは、技術としての出自を主張し合い、どちらがクリーンであるかを言い争うのです。
最後に、対話が決裂して、投石器が一度だけ石を投げる。それで終わりです。最も原始的な投石が唯一の、最後の一撃になる。つまり、今ドナルド・トランプが「48時間以内にイランが石器時代に戻る」と言ってみたりする、最後の一撃をほのめかして相手に判断を迫るやり方ですね。それに至る、兵器として使用されることになったテクノロジー同士が、20分にわたって論戦を繰り広げるのです。最もシンプルに、現代の戦争というものの一面を戯画化していると思いました。
ただもちろん、現実の戦争では、その対話の間にも一般市民も兵士も何万人も死んでいる。しかし、「このボタンを押せばすべてが終わる」ということはいまだにあります。それがいわゆる核抑止力です。ただその一発までの間ずっとやりあって、その一発はないことがもちろん望ましいですが、その間に何万人もが犠牲になる。その状況が、プロンプトによる対話と全く変わりがないということにおいて、この作品はAIが台頭する今の世の中のカリカチュアライズにもなっています。
これは戦争だけではなく、AI批判でもあるのです。対話のプロンプトは会場に全て貼り出されていました。例えばメディア芸術クリエイター育成支援事業の成果発表イベントで、岸裕真さんがAIに操られて踊っていましたが、結局のところ、本当にAIによる動きなのかどうかは判然としないし、そこを問われてはいない。ただ、つくり手としては単なる演出だと思われたくないために、プロンプトを公開したりするのです。それはブラックボックス化するAIに対する一つのリアクションですね。
ドローンは今まさに戦場で兵器として使われているものでもあり、その犠牲者が出ているなか「こういう表現をするのはいかがなものか」という意見もありました。もちろん見る人への配慮は必要だと思います。でも、戦時に戦争や兵器について考えたり、表明したりすることは間違ってはいないし、だからこその思考もありえる。僕は非常に秀逸な作品だと思いました。

福原 梅田哲也さんと呉夏枝さんによる「Tokyo Contemporary Art Award 2024-2026 受賞記念展『湿地』」(東京都現代美術館、2025~26年)(以下「湿地」)は、自分が最近見たなかで一番圧倒された展覧会でした。2組の作家が一緒に展示をするとなると、それぞれがいい場所を取り合ってしまいそうなものですが、この展示はコラボレーションがとてもうまくいっていて、互いが互いの作品のことを深く理解し合っていることが伝わってきました。
メディアアートというデジタル表現において、「湿地」や「湿度」は一見、接点がないように思える要素かもしれません。あえて表現の前面に引き出すことは少ないテーマですが、それこそが私が今、最も注視しているもののひとつです。この展覧会とちょうど重なる時期に見た「WAVE WEAVE ― 音と織物の融合」(HOSOO GALLERY、2025〜2026年)で、カールステン・ニコライも湿度を重要視した映像作品を発表していました。織物には湿度が重要で、湿度があるところで織物が発展している。それに気づいたニコライが、朝靄や雨をずっと撮影しているのです。織物を研究しているものとしては、ちゃんとわかってくれていて嬉しく思いました。呉さんの作品にも象徴されるように、織物は人類最古のテクノロジーです。しかし、それがメディアアートの文脈で、特に「湿度」という物理的な状況を伴うテーマとして重なり合う機会は、意外にもまだ少ないのです。
畠中 村山悟郎さんがセルオートマトンのパターンをジャカード織機で織ったりもしていますね。ニコライの映像は実写ですが、ジャカード織機が動く様子を捉えた映像は、池田亮司さんのコンピュータで作られた映像みたいに見えるのです。
福原さんの湿度の話はとても共感できます。展覧会ステートメントにもあったように、木場公園という場所がまさに「湿地」だと梅田さんは捉えています。東京都現代美術館の建設時はまず1階部分をつくって下の水を出してから地下をつくる工法で建てられたと、梅田さんのステートメントに書いてありました。美術館自体が水の上に浮いているようなものというところから、コンセプトを立ち上げたようです。
ただ、これまでの梅田さんの展示を見てきて、近年ではツアー型の演劇的な作品に秀逸なものがあったので、あの展示が少し物足りなく感じてしまいました。受賞作品展を受賞者それぞれではなく、コラボレーションとして実現したことは画期的だと思いました。実際に見た時に、建築的な構造物のインパクトは大きかったのですが、背景でもあるような、控えめに感じてしまったのです。
もう一つ、足場を組んでつくられた回遊構造は、スロープになってはいましたが、全部ではなく、バリアでもありました。天井高のある展示空間を高さの方向に移動する、天井を近くに感じるという、通常ではありえない視点の移動は、観客に美術館という制度の逸脱を感じさせるものでありながら、今の時代的な要請からいくと、美術館での実施の難しさもあっただろう、とも思ったりしました。
吉田山 そもそも美術館自体が美術品の収蔵保管をする施設なので、湿度や有機物に対してバリアを張らなければならない場所ですよね。バイオアートなんかはどこで展示したらいいだろうと考えたりもします。僕自身、現代の表現として有機物などさまざまなものを同時に扱うことを考えていきたいので、省きたくない要素です。
梅田さんは近年、球体に水を閉じ込める作品をつくられていて、今回それが美術館で展示できていたことはポジティブに捉えました。ただ僕も、梅田さんが屋内外問わず巨大なものをつくるようなランドアートやポストもの派などの作家ではないからこそ、もっと繊細なことができたのではないかと思いました。
仮設足場によって普段入れない場所に入れる、それは観光的な好奇心であり、一つのスペクタクルだと思うのですが、それ以上のものが取りこぼされているように感じました。梅田さんはもっと、「私が見つけたとても細かいナラティブ」を共有してくれるイメージなのですが、わりと大味というか。土木のダイナミックさを外から中に引き寄せてきた印象が強かったですね。
畠中さんがおっしゃるように、背景に回ったせいでそうなったのか……美術館のレギュレーション上やりたいことができなかったという可能性もあるでしょうか。個人的には、もっとみずみずしいプランがあったのではないかと想像してしまいます。もっと、美術館すべてがカビて腐ってしまうぐらいにウェッティな状態にしようとしていたのかもしれないという気配は感じました。

福原 今、アートに限らず業務やプライベートまで、世の中がAIを当たり前に使うようになっていて、少し前まではAIに警告を鳴らす声もあったはずなのに、今はその声が以前ほど聞こえにくくなっている気がして、私はこの状況にどこか怖さを感じています。
AIの持つ「誰がつくったか分からない無名性」を、柳宗悦が提唱した「無名の工人」による無銘の「民藝」に重ねて、1人の天才ではなく、みんなが新しいツールによるアウトプットをとりあえず出している今の状態を好意的に捉える見方もあります。でも、怒られるのを承知で私の実感を言うと、とりあえずAIにおもしろそうなものをつくらせて公開することは「公衆トイレの落書き」に近いんじゃないかと思うのです。
ただ、トイレの落書きを批判しているわけでもないのです。トイレの落書きは結構おもしろいメディアだと思います。誰かの愚痴や電話番号が書かれているような、ある意味では人間のダークネスを吐き出せる場所です。だけど、簡単にトレースやコピーができてしまうインターネット空間では、その「その場限りの匿名の秩序」は通用しません。無名ゆえの責任逃れや、著作権の侵害といった問題は、今後どんどん顕在化していくと思います。何より、電力や時間など、AIを走らせるために我々は膨大なリソースを失っています。そこには当然資本も絡んでくるでしょう。すでに多くの人がAIツールに課金していると思いますが、これからはAIを無料で使うことなんてできなくなって、すべてが「トークン」で管理されるようになっていく。今、AI業界はまさにその話をしているのです。データはもう「誰のものでもない自由なもの」ではなくなっていく。私たちが社会で働く対価としてお金をもらうように、AIを使う権利そのものが生きるためのコストになっていくのかもしれません。
私たちがAIを使えば使うほどエネルギーがどんどん使われて、その裏で得をする人たちがいる。今、世界中でデータセンターの土地や電力の奪い合い、「データセンター祭り」が起きてますよね。そういったAIの泥臭い物理的な問題にあまり目を向けないまま、AIで便利に仕事をしたり生成したりしている状況は、「名もなき民藝」なんて言っている場合ではないのです。
畠中 それこそ、20年前は『不都合な真実』(2006)というドキュメンタリー映画が発表されるなど、地球温暖化への危機感や二酸化炭素排出量の削減が訴えられていましたが、あれはいったい何だったんだ? という話ですよね。それが嘘のように、今は誰もが平気でAIを使っている。結局、いろいろな時々に、それぞれの都合によって優先すべき課題が変わってしまうということなのです。「とりあえず環境問題は置いといて」ということなのかはわかりませんが、何を優先すべきかということで、見えにくくなってしまう問題があるわけです。
AIが物事を効率化して、それで人が生きやすくなるだとか、それが本当かどうかは知らないけれども、結局のところ、AIのアウトプットに対して、それを修正したり補足したりするのが人間の仕事みたいになってしまっていますよね。最後は自分で確認して判断してください、という。これはマズいぞと僕は思っています。
自発的に思考して、それを熟考したり、考え直したり、自分の発言に自分で責任を取れるのが人間であるはずで。そこが人間性を担保するための最後の砦であってほしい。今のままでは、誰も責任を取らない、あらゆる判断をAIに任せるディストピア社会になってしまいます。
福原 作品として何をどう表現するかはもちろん自由ですが、自由を得るには自分に責任を持つ必要があります。「AIが言ったから」と責任逃れをするのは度し難い話です。顔を出して、名前を出して表現するということ。これにつきますね。
[畠中実氏のトピック解題]
1 三原聡一郎 モイズプロジェクトと「3秒アート」
「Exhibition: moids_project」
2026年3月20日(金)〜23日(月)
SHIBAURA HOUSE
モイズプロジェクト(moids project)は、2004年に斉田一樹、むぎばやしひろこ、三原聡一郎を中心に大垣で開始された。2006年にサウンドインスタレーションとして作品化された最初のバージョンは、シンプルな入出力プログラムを内蔵した音響反応回路を連結することで、ソフトウェアによる合成波形音のパターンの不確定的な反応が継続される、自律的に創発する音響彫刻。2009年には電磁石スイッチングの物理音を、2018年には放電現象を出力するようにバージョンアップが行われている。
展覧会「Exhibition: moids_project」は、SHIBAURA HOUSEの協力により4日間限定で開催され、これまでに開発した3つのバージョンのmoidsが初めて同時展示されたインスタレーションと、その制作プロセスを総覧した。宿泊可能な会場の特性を生かし、インスタレーションの中に長時間滞留できる宿泊鑑賞パッケージや、期間中の入退場自由なパスポートチケットといった、展覧会という制度の中で、単に通り過ぎるように鑑賞するのではなく、作品環境の中に長時間滞留することで、より作品に深く没入し、作品と鑑賞者が相互に応答し合う環境が企図された。
2 やんツー個展「浮遊する器官」 AIと戦争と
やんツー個展「浮遊する器官」
2026年2月25日(水)〜4月5日(日)
BUG
金網によって包囲された空間内で、AI を搭載したドローンとカタパルト(投石器)が設定されたプロンプトに基づいて対話を行い、その内容に応じて自動的に演じられる演劇形式の作品である。対話劇は生成AIのGemini によって音声として出力され、毎回実行されるたびに対話の内容および照明や劇中の音楽は異なるものとなる。やんツーは、ドローンに代表されるテクノロジーについて、人間の身体に属していた器官が技術として外在化され、物理的な空間だけではなく情報空間にも拡張したものであることに着目した。その身体と切り離された「浮遊する器官」となり、最新の軍事技術を搭載した兵器となったドローンと、古代の兵器であるカタパルト(投石器)が、それぞれの技術的背景や自身の兵器としてのアイデンティティについて議論をかわす。両者は兵器としての人道主義的な立場から対立し、最後の解決手段をとる。使用されているドローンは、実際の戦場でも使用されているが、もともとは空撮などを目的として民生用に開発されたDJI社の「Mavic 3」であり、テクノロジーの二面性(デュアルユース)についても言及される。
畠中実(はたなか・みのる)
キュレーター、美術・音楽批評。1968年生まれ。1996年のNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]開館準備より同館に携わり、数多くの展覧会やイヴェントを企画した。主任学芸員、学芸課長をへて2025年3月末で同館を退任。主な展覧会に、「サウンド・アート」(2000年)、「サウンディング・スペース」(2003年)、「サイレント・ダイアローグ」(2007年)、「みえないちから」(2010年)、「坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2 IS YOUR TIME」(2017年)。そのほか、ダムタイプ、ローリー・アンダーソン、八谷和彦、ジョン・ウッド&ポール・ハリソンらの個展などを手掛ける。近年は、「多層世界とリアリティのよりどころ」(2022年)、「坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア」(2023年)、「ICCアニュアル2024 とても近い遠さ」(2024年)、「evala 現われる場 消滅する像」(2024年)などがある。ICC以外の展覧会では、「Ennova Art Biennale Vol.1」アーティスト選考委員(中国、2024年)、森美術館「マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート」アドヴァイザー(2025年)を務める。著書に、『現代アート10講』(共著、田中正之編、武蔵野美術大学出版局、2017年)、『メディア・アート原論』(久保田晃弘との共編著、フィルムアート社、2018年)。
福原志保(ふくはら・しほ)
アーティスト、デザイナー、多摩美術大学教授。ポイエーシスラボ主宰。情報の布置と物質の質量が重なり合う地点に立ち、形のないデータを手触りのある「生の質感」へと翻訳する。 新たな「生」を成り立たせるプロセスや、先端技術が社会の倫理や常識と交差する際に生じる「不協和」を抽出し、それらを可能に近づけるプロジェクトや具現化したインスタレーション作品などを通じて、現代における情報と生命の定義を問い続けている。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、金沢21世紀美術館、アルスエレクトロニカ、パレ・ド・トーキョーなど国内外での発表多数。
[吉田山氏のトピック解題]
落合陽一 個展 総集編「ヌルのテトラレンマ 記号に帰納する人間の物語」
2025年6月28日(土)〜9月15日(月祝)
日下部民藝館、吉島家住宅、ギャラリー&カフェ「おんど」
飛騨高山の3会場と大阪・関西万博のシグネチャーパビリオン「null²」を関連会場とした計4つの空間でテトラレンマ(四つの命題)に呼応する表現を構成する特別企画。2021年からの5年間にわたる飛騨高山でのリサーチと協働を網羅し、新作を含む160点以上の作品が展示される。伝統的な民家建築である重要文化財を舞台に、民藝思想や地域の神事、林業従事者や伝統職人の手仕事、先端テクノロジー企業との共創によるインスタレーションを展開。万博会場が計算機自然の思想を大規模なシステムで視覚化するのに対し、本作はnullの概念を起点に、物質と情報、コードと工芸の境界を融解させ、ポストヒューマン時代における人間や信仰のあり方を多元的に提示する土着的な展覧会となっていた。
吉田山(よしだやま)
プロデュース、キュレーション、出版、マネジメントなどの実践を通じ、社会と芸術の新たな接点を構想・実装している。主なプロジェクトに、ユーラシア周辺を巡った「風の目たち」(2022〜2024年)とその出版『風の目たち / The Eyes of the Wind Pocket Tour Book 2022―2024』(FLOATING ALPS LLC.、2025年)がある。2026年はARTE TOKYO(東京国際文化芸術祭)プログラムディレクターを務め、「WAN: Art & Tech Creators Global Network」を通じて渡米。これまでにシビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]フェロー、文化庁メディア芸術クリエイター育成支援採択。
※インタビュー日:2026年4月6日
>メディアアート特別座談会 畠中実×福原志保×吉田山 メディアアートをどう残し、どう評価するか——技術や表現を「消費」しないために[前編]