メディアアート特別座談会 畠中実×福原志保×吉田山 メディアアートをどう残し、どう評価するか——技術や表現を「消費」しないために[前編]

構成:坂本 のどか
写真:栗原 論

左から、畠中実氏、福原志保氏、吉田山氏

没後10年、三上晴子作品を一堂に

福原 三上晴子さんの作品は国内外で見ていましたが、国内で複数作品を一度に見られる機会はなかった気がします。「知覚の大霊廟をめざして——三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、2025年)で作品をまとめて見たことで、解釈がガラッと変わりました。今回展示された、監視カメラを用いた《欲望のコード》(2010/2011)や、視線をトラッキングする《Eye-Tracking Informatics》(2011/2019)、タイル状の床の上を鑑賞者が歩くとその関係性が可視化される《gravicells―重力と抵抗》(2004/2010/2025)は、15年から20年ほど前に制作された作品ながら、昨今のVRやARにもつながる作品です。3作品をまとめて見たことで、身体の消失と再構築というテーマを思い浮かべました。
「境界線」や「細胞膜」といったキーワードを三上さんはずっとおっしゃっています。私も《Membrane》(2021)や《切り離された細胞は誰のものか》(2025)といった作品を制作していて、三上さんに影響を受けている自覚は以前からあったのですが、今回の展示を通して、亡くなって10年経って気づいた部分があり、自分自身を振り返ることにもつながった。そんな展示をICCで見られたことが最高に嬉しかったです。

畠中 三上さんの作品には、何かと定義が求められるメディアアートという分野にあって、「これがメディアアートというものなんだ」と思わせるようなところがありますよね。《gravicells―重力と抵抗》なんて20年以上前の作品でありながら、いまだに最新のメディアアートに見えてしまう。メディアアートが変わっていないのか、いや、実際にそうなのだと思いますし、そのことに驚きを禁じ得ないのですが……対して、三上さん以降のメディアアートについて、私たちのメディアアート観が更新されていないということなのかもしれない、と思ってしまうところもあります。

福原氏

作品修復/再制作の機運と課題

福原 三上さんの没後の作品修復についても、ドキュメント映像などの展示があり興味深かったです。メディアアートほど残すのがとてつもなく難しい領域はないなかで、「そこまでして作品を残そうという意志を人に持たせる作家がいるのか」と。おもしろかったのは、壊れたモーターなど交換しなければならないというときに、当時を知る人たちを呼んでヒアリングをする場面です。オリジナルの部品が手に入れられないので、現在のものに交換すると、オリジナル作品より音が静かになってしまう。それを三上さんならどう判断するだろうか。三上さんのこだわりポイントを当時のやりとりから思い出そうとするのですが、年月が経ち過ぎていて皆覚えていない。

畠中 《欲望のコード》や《Eye-Tracking Informatics》の修復は、基本的には展示されたバージョンの制作に関わった人たちが行っています。もちろん三上さんメインで制作しているのですが、パートごとに担当者がいる場合もあり、そのメンバーによる修復やアップデートが可能という話になるわけです。ただ、修復したものや仕方がそれでいいのか、判断できる人がいない。先ほどの3作品ともう一つ《存在,皮膜,分断された身体》(オリジナル版:1997)という、無響室での展示を前提としたICCのコレクション作品があり、今回私もその再展示に関わりました。ICCの開館から1999年末まで展示し、それから海外で展示して、そのあと常設展示がなく、そのまま保管されていた状態だったので、25年前の記憶を頼りに、さすがに難航しましたね。元々は体験者が自身の心音を体験するというインタラクティブな作品で、当時の映像も残ってはいるのですが、実際どうだったのかを完全に判断できるものではありませんでした。映像で記録されている部分以外にどんなふうに動いていたかもうろ覚えです。ある程度再現できたとしても、これでいいのか確信がなかなか持てない。結局、あらかじめ録音された三上さんの心音で体験する「サウンド・インスタレーション版の再現展示」というかたちで公開し、当時公開された状態の完全な再現には至ってはいません。
近年、修復や再制作というのはメディアアートの一つのキーワードになっています。三上さんを筆頭に、近年では、シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT](以下CCBT)での岩井俊雄さんの再制作があり、メディアアートの修復を専門にやっていこうという人が出てくるなど、専門的な職能として意識されているような、機運の高まりがあります。
ただ、三上作品の場合はオリジナル制作に携わったメンバーが健在で、岩井さんは本人が健在。だからこそできることともいえます。関わった人が誰もいなくなってしまったら、究極的には修復や再制作は不可能でしょう。手がかりがなければ難しいし、修復する意義がなければいけない。ならばその意義とはなんなのか? アーカイブや修復、再制作などはすべての作品や作家にできるわけではない。結局のところ取捨選択しなければならず、そこが一番悩ましく気を遣うところです。

福原 あとは、作家が困っているのは保管場所ですよね。以前、現代美術家の椿昇さんが「若い頃はお金がなくて保管もできなかったから大きな作品は破棄していたけれど、あるとき展覧会が終わって『大き過ぎて保管できないから破棄します』と言ったら美術館がコレクションする方向で考えてくれるようになった」と教えてくれましたが。

畠中 それは、椿さんだからこそできること、でもあるでしょうね……今では、例え著名な作家でさえそれが通用するかわかりませんよね。コレクションの意義をいかに認めさせるか、そして、そこにも残るものと残らないものがどうしても存在してしまう。コレクションとはそういうものなのだとは思いますが。

畠中氏

いまだ未完成なXRの魅力

吉田山 僕は毎年、個人的にその年度の展覧会トップ5を考えたりするのですが、そのなかの一つに「布施琳太郎 市外劇=ツアー型展覧会『パビリオン・ゼロ:空の水族園』」(葛西臨海公園、2025年)を挙げました。この作品もヘッドマウントディスプレイ(以下HMD)を装着して体験するMR(複合現実)作品です。CCBTのアーティスト・フェロー制度「アート・インキュベーション」の採択を受け実施された企画で、僕は2日とも参加しました。HMDをつけた参加者30名ほどが外を長い時間歩くので天気が良くないと成立しないリスクを度外視した企画でしたが、2日間というわずかな開催期間が両日晴れて、彼は非常に運が強いアーティストだと思いました。
コロナ禍以降の僕の観察対象として、国内の祭事やフォークロアの再考があります。布施さん自身にそういった意識はなかったと思いますが、HMDを装着して歩いている集団が、僕には日本各地で行われている奇祭のように見えたりしました。あと、彼は情報を組み合わせて時代を反映する作品をつくることと、それを伝えるコミュニケーションがうまいのですが、見に行ってみると、おもしろいのですが、全面的に失敗している感じもあり、これがアートのよさだなと思いました。僕は、1日目はHMDをつけずに傍らで見て、2日目にHMDをつけてと、2つの視点で体験したのですが、参加アーティストがコントパフォーマンスをその場でしたり、弾き語りをしていたりしていて、HMDを装着していなくても楽しめてしまう。HMDをつけている方たちが歩いているのを見るだけでおもしろいですし、そもそも祝祭に参加する際はお面をつける側に回ることはあまりありませんし。登場するゲストアーティストの作品にはほとんど実体があって、MR上に出てくることとの接続はあまりないのですが、インキュベーションプログラムですし、とてもいいプロトタイプだと思いました。
コロナ禍以降のディスタンス世代なのだと思いますが、僕自身もHMDで何ができるかを考えています。XR(クロスリアリティ)の普及から10年ほど、そしてコロナ禍以降、いろいろな人がHMDを使って作品をつくっていますが、まだまだ試行錯誤し続けている、この完成しない状態がおもしろい。例えば絵画などはもう完成されたメディアで、これから自分が溶け込んでいく関係性があまり想像できないのです。その点では、三上さんの作品も完成度が高いので、これを見た方の精神的なアートへの参入障壁は高いと思いました。完成度の低さやばらつき、方程式の無さは、今のXR周辺のよさだと思っています。

畠中 昨今、VRや「イマーシブ」など、没入型作品の盛り上がりがあり、そういったコンテンツを手掛けるクリエイターや会社も増えていますが、既存の絵画をモチーフにしたものなど、良し悪しはともかく、独立した作品としての表現で突出した作品を挙げるとなると限られる気がしています。VRであることの必然性や意味が表現の中に含まれているかというと、そうでもなかったりする。
VRやARを表現に用いる動きが加速したのはやはりコロナ禍ですよね。コロナ禍の行動規制によって舞台芸術が公演を打てなくなり、ある意味で致し方なくVRに向かった。アートもその影響を受けて、というか、そうした舞台芸術のコンテクストの中で発表された小泉明朗さんによるプロメテウス三部作や、ほかにも雨宮庸介さんのVRシリーズ、池上高志さんを始めとするオルタナティヴ・マシンによる荒川修作+マドリン・ギンズのアンビルト作品のVR化など、色々なアーティストがVRを取り入れるようになりました。「イマーシブ」コンテンツに対する批評性も含めて、アートとしてのVR作品が成立するようになっていると感じています。

吉田山氏

体験の限定性と作品評価

畠中 HMDを装着しなければいけない作品は、一度に体験できる人数が限られるので回収率という点では効率が悪い。装着していない人にも、装着した人が何を見ているか体験できるような展示にするなど、アーティストが目指す作品とより多くの人が体験可能な見せ方の折り合いをどうつけるかが、現実的には重要だと思います。
今話題になっている博物館の問題は、つまるところ、入館者数や入館料といった数値目標が提示されたこと(と、その達成度に対する処置案)が疑問視されているわけですが、コロナ禍で一番困ったのは、入場者数を制限しながら入場者数を増やさないといけないという矛盾だったと思います。その解決策は展覧会の会期を延ばすことで、1日あたりの入場者数を制限しながら、展覧会期間を長くして入場者数を維持すればいい。今、展覧会の会期はコロナ前に比べると倍以上になり、その分年間の展覧会開催回数は減っています。しかし、HMD等を装着する体験作品は、会期が長くなった分実施しやすくなっているといえるかもしれません。
そんななかで、布施さんのイベントが2日間限定で限られた参加者によって実施されたことは、良し悪しだと思いました。条件や制約があってのことなのだとは思うのですが、果たしてその作品が本当によかったか悪かったか、その2日間のわずかな参加者だけでは、判断し難いじゃないですか。もちろん、それは参加者にとってはそれゆえに貴重な体験になるわけですが。

福原 それには異論があるのですが、布施さんはCCBTアーティスト・フェローシップの進捗報告会で、会期を2日間だけにする理由をはっきりおっしゃっていました。また、寺山修司からインスピレーションを得ていて、HMDを装着した奇妙な人たちが練り歩いている状態もパフォーマンスの一部であり、風景の一部であるとも。
私も前年度に同じプログラムにHUMAN AWESOME ERRORで採択されたので実情がわかるのですが、2日間というわずかな会期は、予算が理由なのではないかと思います。プログラムは、アーティスト1組につき1,000万円という大きな予算がつくのですが、この金額が全て制作費に回せるわけではないのです。CCBTは美術館やギャラリーのような施設とは異なり、フルタイムでマネジメントしてくれる人がいるわけでもなければ、展示に必要な什器やHMDなどの機器が揃っているわけでもない。そこに加えて予算に大きく影響する人件費や機材のレンタル費、広報物の印刷費やデザイン費など、すべてその1,000万円から捻出します。提示されているのは大きな額ですが、実際に制作費に充てられたのはその半分以下という感覚でしたね。

吉田山 反面、CCBTのフェローシップは布施さんのプログラムのように完璧なものを出さなくてもいい。チャレンジ枠のようなものが用意されているのはとてもいいと思います。予算の部分でトラップがあったとしても、「じゃあどうしたらいいか?」と考えるトレーニングになります。僕も2022年度にグループで採択されて、いいことしか覚えてませんでしたが、思い返すと期間中は結構大変でした。緊張と解放が何度も繰り返されるような感覚で、これが本物のインキュベーションかと。

万博のスペクタクルと消費されるメディアアート

福原 2025年の大阪・関西万博の関西パビリオン京都ゾーンで2回展示をしました。1回目は、私が京都に設立したPoiesis Labsとして、数年前からZOZO NEXTと一緒に行っていた新素材開発を掛け合わせて、ニットファブリックスピーカーを用いた「紋響」という展示を行いました。2回目は、HUMAN AWESOME ERRORとして急遽声がかかり、CCBTのプログラムでかたちになった「Super Cells Infinite」という展示を持っていきました。
万博展示はとにかく大変でした。京都ゾーンの展示は1週間ごとに替わり、休館日がないので展示替えは閉園から開園までの時間、つまり夜中です。朝の9時にはまたお客さんが入ってきますし、その前に7時頃にはスタッフに説明をして、8時にはメディア対応をして……寝られませんでしたね。さらに、開園中はとても狭い展示空間でずっと立っていないといけません。作品解説を外注のコンパニオンにお願いするにしても、京都ゾーンはすべて持ち出しです。2つ目の展示ではコンパニオンは雇わずにHUMAN AWESOME ERRORメンバー2人でローテーションを組み、朝から晩まで作品の横で立って説明していたのですが、徐々にモヤモヤし始めました。
というのも、万博は完全にスペクタクル寄りで、展示をちゃんと見る時間がないのです。それこそ「立ち止まらないでください」と言われて、ベルトコンベアに載せられているかのように歩きながら見ることになります。でも、お客さんのなかには、乳がんの話をすると聞き入ってくださったり、時には泣き出される方もいたり、あとから戻ってきて「実は……」と話し出す方もいらっしゃいました。
「未来」や「これからの命」をテーマにしながら、振り返ることもできないようなスピード感でものを見る。なんでこうなってしまったのだろうと、メディアアートが都合よく使われてしまったなと感じました。以前、アーティストの三原聡一郎さんが「(作品は)3秒でわからなくていいんだよ」と言っていましたが、万博は3秒でわからないと、何を見たか記憶にすら残らない。目で見る時間はないから、写真やビデオを撮ってあとで振り返るのです。

畠中 メディアアートがいいように使われたという話でいうと、今、メディアアートは「なんとなく進んだことをしているアイテム」と見なされているということでしょう。メディアアートは未来の何かを示してくれるということ、それと、メディアアートが日本発の文化的コンテンツになるという期待がかけられている。
先ほどの布施さんの話というのは、結局、見る人、つまりは評価する人が少ないという状況を続けるのが果たしていいのかという話で、2日間限定となると、限られた人にならざるをえないわけじゃないですか。そうすると、やったという事実しか残らない可能性もある。もちろん、残るということの本質は「あったという事実」、それしかないわけですが。
それは、万博も同じで、メディアアートはたくさん展示されたけど、何百万何千万といる来場者がちゃんと「見た」かどうかはわからないし、そもそもメディアアートを目的に来ている来場者はほとんどいないでしょう。結局、コンテンツとして消費されているわけで、成果としても「実施した」「人が来た」ということで終わりがちになってしまう。だから「何をやったのか」を、自分たちでちゃんと残していかないといけない。ここで話題が一周回って、アーカイブの問題に戻ってきます。なぜ今アーカイブの必要があるかというと、結局、現在において作品を見たり批評したりする時間がないのです。

[畠中実氏のトピック解題]

三上晴子展 アーカイヴ、再制作への関心
「知覚の大霊廟をめざして——三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」
2025年12月13日(土)〜2026年3月8日(日)
NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] 

「三上晴子の没後10年となる2025年に、1990年代後半以降のインタラクティヴ・インスタレーションを複数展示し、三上の活動をメディアアート的側面から」振り返るというテーマで、3作品の再展示とICC無響室のためのコミッションワークとして制作され、開館当初から公開されていた、《存在、皮膜、分断された身体》のサウンドインスタレーション版(インタラクティブ版ではない)の再現展示が行なわれた。1980年代から活動する三上だが、90年代以前の作品は多くが廃棄されており、発表当時の状態で残されたものは多くない。1990年代後半以降のインタラクティブ作品の再展示についても、多くの場合、同時代の技術的な作品のアップデートを伴うものであった。その意向を受け、作家の没後も、作品の委嘱元である山口情報芸術センター [YCAM]や関係者によって修復や再制作が行なわれているほか、作品だけでなく鑑賞者の作品体験データやその他の資料の保存に関する、メディアアートに特化した新しい方法論が検証・探究されている。

畠中実(はたなか・みのる)
キュレーター、美術・音楽批評。1968年生まれ。1996年のNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]開館準備より同館に携わり、数多くの展覧会やイヴェントを企画した。主任学芸員、学芸課長をへて2025年3月末で同館を退任。主な展覧会に、「サウンド・アート」(2000年)、「サウンディング・スペース」(2003年)、「サイレント・ダイアローグ」(2007年)、「みえないちから」(2010年)、「坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2 IS YOUR TIME」(2017年)。そのほか、ダムタイプ、ローリー・アンダーソン、八谷和彦、ジョン・ウッド&ポール・ハリソンらの個展などを手掛ける。近年は、「多層世界とリアリティのよりどころ」(2022年)、「坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア」(2023年)、「ICCアニュアル2024 とても近い遠さ」(2024年)、「evala 現われる場 消滅する像」(2024年)などがある。ICC以外の展覧会では、「Ennova Art Biennale Vol.1」アーティスト選考委員(中国、2024年)、森美術館「マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート」アドヴァイザー(2025年)を務める。著書に、『現代アート10講』(共著、田中正之編、武蔵野美術大学出版局、2017年)、『メディア・アート原論』(久保田晃弘との共編著、フィルムアート社、2018年)。

福原志保(ふくはら・しほ)
アーティスト、デザイナー、多摩美術大学教授。ポイエーシスラボ主宰。情報の布置と物質の質量が重なり合う地点に立ち、形のないデータを手触りのある「生の質感」へと翻訳する。 新たな「生」を成り立たせるプロセスや、先端技術が社会の倫理や常識と交差する際に生じる「不協和」を抽出し、それらを可能に近づけるプロジェクトや具現化したインスタレーション作品などを通じて、現代における情報と生命の定義を問い続けている。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、金沢21世紀美術館、アルスエレクトロニカ、パレ・ド・トーキョーなど国内外での発表多数。

[吉田山氏のトピック解題]

「布施琳太郎 市外劇=ツアー型展覧会『パビリオン・ゼロ:空の水族園』」
2025年2月8日(土)〜9日(日)
葛西臨海公園

東京湾の埋立地であり谷口吉生設計の水族園等の建築群を擁する葛西臨海公園を舞台に、2日間(全4回)限定で開催された事前予約制のツアー型展覧会。本作は、参加者がHMDを装着して屋内外を回遊する形式をとり、XRによるデジタル表現と、実際の公園内のロケーション、現地に配置されたオブジェクトやパフォーマンスを複合させた公の空間におけるマルチモダリティな鑑賞体験の創出を試みた。先端テクノロジーの社会実装手法としてのプロトタイプ的な性質を持ち、体験可能人数がかなり限定されたなかでの実施となったが、従来の屋内型やスクリーンベースのメディアアートの枠組みを超え、都市や自然環境とデジタル表現が相互に干渉し合う関係性を提示した。

吉田山(よしだやま)
プロデュース、キュレーション、出版、マネジメントなどの実践を通じ、社会と芸術の新たな接点を構想・実装している。主なプロジェクトに、ユーラシア周辺を巡った「風の目たち」(2022〜2024年)とその出版『風の目たち / The Eyes of the Wind Pocket Tour Book 2022―2024』(FLOATING ALPS LLC.、2025年)がある。2026年はARTE TOKYO(東京国際文化芸術祭)プログラムディレクターを務め、「WAN: Art & Tech Creators Global Network」を通じて渡米。これまでにシビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]フェロー、文化庁メディア芸術クリエイター育成支援採択。

※インタビュー日:2026年4月6日

本記事は[後編]に続きます(2026年10月中旬頃公開予定)。

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