聞き手:竹見 洋一郎(言問)
構成:並木 智子
写真:中川 周
主に2024年のマンガ分野の動向を振り返る座談会。批評ジャーナリズム、研究の立場からマンガに関わる有識者3名が挙げたトピックスについて議論していきます。後編では、国内マンガ市場の傾向、時代の鏡としてのマンガの立ち位置について論じられます。
――前半でマンガ産業の動向を広く見てきたところで、後半は国内マンガ市場の傾向に目を向けたいと思います。
岩下 前回の座談会でも言及しましたが、ここ数年でホラーの人気の高まりを感じています。とくに文芸ジャンルの盛り上がりが大きく、『小説新潮』(新潮社)、『MONKEY』(スイッチパブリシング)などの雑誌でもホラー小説の特集が組まれていますし、『このホラーがすごい!2024年版』のような年間ランキングのムック本も出ています。配信コンテンツやテレビ番組も新しい動きがある。『呪術廻戦』効果もあって「呪物」というコンセプトも広まっていますね。作品としてはホラーものではないですが『ダンダダン』(龍幸伸、2021年~)も都市伝説をネタにしていて、ホラー人気との親和性を感じます。
近年のホラーの目立った特徴としては、モキュメンタリー、フェイクドキュメンタリー形式が好まれているところでしょうか。大森時生が手掛ける『イシナガキクエを探しています』(2024年)などテレビ東京制作の一連の番組や、YouTubeチャンネル「フェイクドキュメンタリーQ」などが人気を集めています。怪異の存在や正体を明示的に描かず、思わせぶりで不気味なディテールが散りばめられている。受け手の考察を促す仕掛けになっています。小説では『近畿地方のある場所について』(背筋、2023年)がこうした潮流に沿った作品だと思います。
マンガ作品を見ていくと、『かわいそ笑』(イースト・プレス、2022年)などの小説を発表し、先に挙げた大森時生と組んで「行方不明展」というプロジェクトにも関わるなどこのジャンルの牽引者の一人であるホラー作家・梨が原作を手掛けた『コワい話は≠くだけで。』(作画:景山五月、2022年~)は、意識的にモキュメンタリーのテイストをマンガに持ち込むことを試みた作品です。マンガ家が実話怪談の取材、執筆に取り組むという枠物語の現実パート部分はエッセイマンガのスタイル、取材の中で語られる「実話怪談」は一般的なホラーマンガのスタイルで描かれます。しかし、こうしたスタイルの描きわけ、現実と虚構の境界は話が進むにつれて崩壊していく。表現面でも、後半ではコラージュ的手法が使われるなど、実験的なことを試みていて意欲的な作品だと思います。
飯田 ホラー小説では一昔前は角川ホラー文庫の『ホーンテッド・キャンパス』(櫛木理宇、2012年~)などキャラものが流行っている印象がありましたが、今は語りや構造に仕掛けがあるものが多いですよね。断片を積み重ねて、考察させる仕掛けを用意してある作品に人気があります。ただ、マンガでは、キャラクターが弱いと読んでもらえない。だから短編のオムニバスをつくるにしても、案内役を配置しなければならないわけです。そこで都合が良かったのが実話怪談のフォーマットとして、作家の平山夢明が開発した「平山メソッド」なのかな、と。語り手が怖い話を取材に行くところから始まり、怪談話に入り、また語り手の話に戻るという構造ですね。こわい話が好きな人にはなじみ深いものですし、マンガというメディアに人が求める「キャラクターが牽引する」というお作法にも合致している。加えてマンガ家自身の分身を登場させて(擬似)エッセイマンガスタイルを採用すれば『コワい話は≠くだけで。』のようにモキュメンタリーホラーもつくれる。
岩下 ショートショートのオムニバス『僕が死ぬだけの百物語』(的野アンジ、2020年~)も、各エピソードの最初と最後に枠物語として語り手視点の話が入りますが、実はそちらの方が思わせぶりな細部に満ちていて読者の興味を誘うものになっています。モキュメンタリー形式ではないですが、断片的な情報をもとに受け手が考察を行い、怖さを見出していくという仕掛けになっているわけです。
岩下 2ちゃんねるの怪談スレッドなどで培われた都市伝説的な要素を作品に積極的に取り入れる傾向も顕著です。『裏バイト:逃亡禁止』(田口翔太郎、2020年~)は、直接的にそうしたトピックを扱っているわけではないですが、そうしたテイストをうまく汲み取りつつ、スケールの大きなホラーを描いています。
飯田 2ちゃんねるのオカルト板スレッド「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」(洒落怖)などを通じて広まった「八尺様」や「くねくね」あるいは「SCP」などは、ある種の共有財産化していますね。「小説家になろう」などで煮詰められた異世界ものと同じで、ホラーも定番要素を組み合わせてアレンジ、派生させながら作家の妙を楽しむようなつくり方のものが少なくない。構造的にはウェブ小説と近い――まあウェブを中心に行われてきたので当然ですが。集団創作的というか、ネタを「知っている」「わかっている」好事家同士の遊びという感じがします。読者も「この話をこういうふうに解釈するのか」と素材の扱い方をおもしろがる視点があるのかなと。
岩下 同感です。そうなると、語りの構造や仕掛けに重心が置かれるので、考察するには、共有財産としてのリテラシーが求められます。
飯田 一方で、2024年には実写映画化されたこともあって『変な家』(雨穴、2020年~)が小学生にまで広がる大ヒットぶりを見せましたが、この作品には、そういう意味でのホラーや怪談に関するリテラシーは要求されません。異様な間取りの家を考察し、取材して謎に迫っていくわけですが、単行本の最初の帯には「ホラー」ではなく「不動産ミステリー」とあったくらいで、出版社は初期には明確にホラーとして売り出してすらいなかった。雨穴さん自身は近年のホラーの流れを非常に意識している作家だと思いますが、文脈をまったく知らない人も入ってきやすい間口の広いつくり、売り方になっています。2024年に実施された全国学校図書館協議会「第69回学校読書調査」を見ても、小中高生に流行のホラー作品のなかで圧倒的に読まれているモキュメンタリーものは『変な家』だけで、ほかは背筋『近畿地方のある場所について』が見られるのみです。子どもにホラー自体はたくさん読まれていますが、大人向け、あるいはホラーファンやメディアの注目とは傾向が異なります。
岩下 梨の作品や『近畿地方のある場所』などは、ホラーやネット怪談に親しんでいない読者がいきなり読んでもとっつきにくいでしょうね。ネットなどで培われた「これはなにかあるぞ……?」という恐怖へのアンテナが訓練されていないピンとこない気がします。
――解釈や考察を楽しむというシーンがあることで現代性が担保されるわけですね。
岩下 受け手が考察を楽しむという傾向は、ホラーに限った話ではありません。『呪術廻戦』は、高度に複雑化した能力バトルの考察を楽しむ層と、それはともかくキャラクターの関係性を軸にした情念をぶつかり合いとしての物語を楽しむ層とに、かなり二極化しているのではないかという気ます。『呪術廻戦』で描かれる戦いは、能力バトルものについての特殊なリテラシーが鍛えられていないと、到底ついていけない。正直、僕も途中からよくわかっていません(笑)。もっとも、そこがとくわからなくても十分楽しめるわけで、これは魅力的なキャラクターの描写があってこそですね。
――そんなに難しいんですか。
飯田 担当編集者も完全に理解して校了しているのだろうか、と(笑)。
――海外から初の「少年ジャンプ+」デビュー作家が誕生したことも話題になりました。
飯田 原作をポーランド在住のRafal Jakiが、作画をヨーロッパ在住ですが居住国は非公開のMACHINE GAMUが手掛けた『NO\NAME』(2024年)という作品です。「少年ジャンプ+」の海外向けマンガ公開プラットフォーム「MANGA Plus creators by SHUEISHA」に日本式マンガの投稿コーナーがあり、そこで人気になりデビューしたという経緯です。
2000年代から韓国や台湾などから持ち込みに来る作家は目立っていましたが、近年さらにマンガ編集部に海外からの持ち込みが増えているという話は聞いています。ただ、やはり言語と文化の問題が壁になります。『モーニング』連載の『マタギガンナー』(原作者:藤本正二、2022年~)の作画フアン・アルバラン氏はAI翻訳で原作者のネームや編集者からのメッセージを乗り切っているそうですが、日本在住ですから日本人の感覚、気質はおそらく理解があると思うんですね。くわえて日本のマンガ編集はかなり独特なシステムです。ほかの国のコミック産業には日本式のマンガ編集者のような存在はほぼいません。ですから、担当編集はどのような存在かをまずちゃんと理解するリテラシーがないと始まらないところがあります。
発表する前に編集者とマンガ家で綿密に打ち合わせをしますが、日本人同士でも非常に微妙なすり合わせをやっているわけですから、外国人相手では余計難しくなるでしょう。『黒神』(原作:林達永、作画:朴晟佑、脚本協力:川美我、2004~2012年)など、韓国人の作家が2000年代に日本のマンガシステムのなかで成功したのは、双方の言葉、マンガ文化をわかっている仲介者がいたからです。ただ作画がすばらしいだけでは日本でマンガ家として成功できるわけではありません。しかし双葉社にはフランス人のマンガ編集者がいるそうですが、例えばそういう人がいればフランス語圏の作家はやりやすくなるかもしれないですよね。
ただ『マタギガンナー』にしても双葉社にしても作家や編集者は日本に住んでいる。ところが「MANGA Plus」の作家たちは日本にいない。けれども日本式のマンガを描いた。そういう作品が果たして日本市場で受けいれられるかどうか。あるいは国際展開している「MANGA Plus」上でどれだけ支持されるのか。それらが難しいのだとしたら、何をクリアしていけばいいのか。非常に気になりますし、今後も海外から『NO\NAME』に続く作品が出てきてくれればと期待しています。
――日本にはジャーナリスティックなマンガ作品は少ないという話が出ましたが、グラデーションはあるにしても、社会の鏡としての役割を担っていると思います。
西原 最近の女性向けマンガには、女性の立場にリアルに寄り添う作品が多いと思います。瀧波ユカリの『私たちは無痛恋愛がしたい――鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん』(2021年~)は、モラハラなどのハラスメントやドメスティックバイオレンスを扱っています。関連する法律や、被害を受けた人がどこに助けを求めたらいいか、という実用的な情報も盛り込まれていますし、他者とのコミュニケーションであなたが思い悩んでいることは実はあなたが悪いわけではなく暴力なんだ、とストレートに言っています。
この作品はマンガとしての絵の力も大きくて、こちらが恐怖を感じてしまうような男の人は本当に気持ち悪い絵で描かれているんです。
岩下 気持ち悪いSNSアカウントなどの描写も絶妙で、インターネットが日常化した生活の解像度も高いですよね(笑)。
西原 マンガで描くことで、作品のテーマにより説得力を持たせられていると思います。おそらく文章だけの説明ではここまでリアルに感じられないでしょうし、ドラマで生身の俳優によって演じられると、今度は逆にリアルになりすぎて目を背けたい人も多いかもしれない。マンガであくまでもフィクションとして、しかも記号的な絵であえて露悪的に描いているからこそ、事の深刻さや救済のメッセージが伝わる内容だと思います。
岩下 『無痛恋愛』は「女子マンガ」と言える作品だと思いますが、若年層を主なターゲットにした少女マンガでも『四畳半のいばら姫』(原作:佐藤ざくり、作画:吉田夢美、2023年~)などでは、フェミニズム的な視線のもとに現代社会の問題が描かれています。母親からのネグレクトやアルバイト先でのセクシャルハラスメント、身体的接触における同意の必要性などです。「おもしれー女」としてのヒロインをハイスペ男子たちが取りまくという一見するとベタな構造ながら、実はけっこう重たい話になっている。主人公と恋人になるかもしれないイケメンであろうと、本人に同意なく触れようとすれば拒絶される。男の子がそのことを素直に受け止めて反省するところもよかったです。
西原 CLAMPの昔の作品『東京BABYLON』(1990~1993年)なども、外国人労働者や学校でのいじめといった社会問題を描いたほか、現実の苦しみをいつまでも我慢していては駄目で、現実を見て立ち向かっていかなければならない、と訴えていました。少女マンガは現実から離れられるファンタジーだから、という括りではいつまでもいられないと思います。
岩下 ただ、少女マンガのエンターテインメント構造では、家庭環境などに問題を抱えた主人公であっても、なかなか行政や福祉に助けを求めるというような方向には行かないわけです。『四畳半のいばら姫』も、それはもう高校生が友人同士で助け合ってどうなるものでもないだろう、とやきもきしてしまうことがあります。似たようなことは、ミユキ蜜蜂の『春の嵐とモンスター』(2022年~)などにも感じます。ネグレクトされてきたために、同居することになった主人公に過度に依存し過剰な独占欲で縛る男の子が登場するわけですが、引き取った主人公の両親があまりにも何もしない。日下あきの『どうせ泣くなら恋がいい』(2022年~)も同様で親との関係に問題を抱えた少年がメインキャラクターとして登場します。こうした作品を読んでいると、もう児童相談所かなにかに連絡しないとまずいだろうと思ってしまうわけですが、もちろんそうはならない。ちゃんとした大人が介入して問題解決に動くと話が終わってしまう。主人公たちは自分たちの世界で出口を探そうともがくことになるわけです。
西原 もしかすると、そうした自己解決が少女マンガが迎えている限界かもしれないと感じます。困難な状況で行動する少女主人公が魅力的でも、学校などで社会的な課題として学ぶ問題が社会的な解決に繋がらなければ、読者も疑問に思うのではないでしょうか。異性との恋愛によって解決するという形では、少女マンガというジャンルから離れてしまう読者が増えるかもしれません。
岩下 もっとも、こうした大人目線で読むこと自体がずれているかもしれないという気もします。解決の処方箋を示すよりも、思い悩む感情の動きを丁寧に描きだすところにこそ魅力がある。にもかかわらず問題が気がかりになるのは、リアリティをもって社会問題を描く作品が増えているということかもしれません。
――リアリティが上がっているから、気になるところも出てくるわけですね。
岩下 リアルな現代社会の問題を放っておいても掬い上げてしまうところが少女マンガにはあるのだと思います。
――アイドルの問題として性被害を描いた『さよならミニスカート』(牧野あおい、2018年~)は再開したこと自体が話題になりました。
岩下 もう再開しないのかなと思っていました。内容的にもしんどいですし。
西原 まさに現実で現在進行系であるアイドルとジェンダーの問題を正面から描いているので、物語が今、何かの正解を出すのは難しいのかもしれません。連載再開後も、正解が見つけられない問題を少女マンガとして丁寧に真摯に描いている作品です。
休載中だった5年の間に、我々のアイドルやジェンダーに関するリテラシーもずいぶん変わりました。ジャニーズ問題や韓国のアイドルの性被害報道もあり、性と消費、ビジネスが結びつくことを問題とみなす考え方が浸透してきています。アイドルを応援する人たちはアイドルに幸せになってほしいけれど、自分を幸せにもしてほしい。女性アイドルと男性アイドルとでジェンダーの二重基準もあります。アイドルたちはファンに夢を与えるけれど、それを実現するにはファンの応援と消費活動が不可欠。アイドル産業にはファンとアイドルとの関係だけではない、さまざまな立場の人たちが関わっています。そしてビジネスの要素が強いぶん、理解し合い交わり合うことは難しいかもしれない。『りぼん』という小学生向けの雑誌でこの問題を描こうとしていること自体が、本当に挑戦的なことだと思います。
――ほかにも社会的テーマになっている「多様性」についてをテーマに含む作品はありますか。
岩下 社会的マイノリティを取り上げた作品は充実しています。僕が最近読んでおもしろいと思ったのは、眞藤雅興の『ルリドラゴン』(2022年~)です。主人公の少女に、ある日、角がニョキッと生えてくる。実は主人公がドラゴンとのハーフだったというわけです。ファンタジックな設定ですが、人種的のマイノリティのメタファーとして読むことができます。もっとも、そういうことを考えなくても読めてしまう作品です。
もっと現実的なものだと、病気で子どもの頃のまま身体の成長が止まってしまった女性を主人公にした『133センチの景色』(ひるのつき子、2023年~)など、さまざまな作品が描かれています。社会的テーマを問題提起的に見えないように自然に取り入れている作品も多い。泥ノ田犬彦の『君と宇宙を歩くために』(2023年~)では、作者自身があとがきで、作品を読めば思い浮かぶであろう特定の属性を指す言葉を、作中では意図的に使わないようにしていること、その狙いについて語っています。特別な問題としてではなく、普通ごととして描こうする意思を感じます。
少女マンガでは自分を守ってくれる王子様であると同時に、乙女心も理解してくれる親友であるような、クイアな男性キャラクターが繰り返し描かれてきました。多田かおる『デボラがライバル』などですね。『りぼん』で連載されている柚原瑞香の『となりはふつうのニジカ(ちゃん)』(2024年~)もそうした系譜に連なる作品です。主人公が想いを寄せることになるニジカは、男性ですがスカートを履いたり化粧をしたりしています。気分によっては男性的な格好もしたりするわけですが、性別にとらわれずに好きな格好をするというキャラクターです。そういうライフスタイルをタイトルにも示されているように「ふつう」だとしているのが、こうしたキャラクターを登場させる作品としては風通しの良さを感じました。
飯田 あえて朝井リョウの小説『正欲』(2021年)を比較対象に出したいと思います。この小説は、世間の言っている多様性が当事者からするといかに上っ面で生っちょろく、理解されがたいものなのかという絶望を描いていて、読者に刃が向いてくる作品だと思うんです。今挙げていただいた個々の作品も読むとおもしろいですし、描かれる意味のあるものだと思いますが、読んでいる側が自らの振る舞いや思考を省みさせられるかというと、その方向性への尖りは比較的おとなしい印象です。読んでいて「私は本当は何もわかっていなかったかもしれない」という感覚にはさせられませんから。
岩下 その点については、おっしゃる通りかもしれません。ただ、おなじみのテーマの延長線上でクイアなキャラクターを登場させる作品であっても、以前よりは繊細な扱い方がされるようになっている、またそうすることが求められる状況になってきているのだと思います。はっきりと問題提起的な作品もあります。「トーチweb」で連載されている『半分姉弟』(2022年~)は、日本で生活するミックスルーツの人たちの受ける偏見や彼らの葛藤を描いています。作者の藤見よいこ自身もミックスルーツ当事者だそうです。一口にミックスルーツといっても、もちろん人種的、民族的な背景もさまざまでそれぞれに直面する問題が異なることが描きだされています。ミックスルーツ同士だからお互い分かり合えるかというと、なかなかそうもいかない。
ただし、小説との比較した場合、マンガははるかに拡散力が大きい。無料のアプリなども豊富で話題の作品を読むためのハードルも低いし、即時的なリアクションもしやすくなっています。それだけに社会問題などを扱うと、ネット上で対立するクラスタ間の論争のための格好の素材にされてしまいがちなところはあると思います。よくも悪くも話題になりやすく、すぐに炎上ネタとして消費されてしまう。最近の例だと、「ジャンプ+」で連載が始まった市川苦楽の『ドラマクイン』(2024年~)の炎上があります。宇宙人と共存することを拒み、暴力的に排除しようとする主人公たちの姿勢は、現実の日本社会でも広がる排外主義的な空気とシンクロしています。そのために、第1話発表後、強い批判、そしてそれに対する反発としての擁護が現れ、ネット上での論争となりました。物語が展開していくなかで、主人公たちの排外主義的なスタンスは相対化されていくのかもしれませんが、その頃には話題は別の作品に移っていることでしょう。つげ義春作品のパロディとしてトランスジェンダーへの不条理な差別を描いた岡田索雲『ある人』(2024年)なども挑戦的な作品だと思いますが、論争を呼ぶ「話題性」の面でばかり消費されている気がします。
西原 マンガは、読者それぞれの絵やジャンルの好みもありますし、同じメッセージでも描き方によって受け取られ方が変わると思います。小説のようにテキストだけで表現するわけではないので、絵をどう利用して描くか、ということが大事なのではないでしょうか。男の子に生まれた子のうち何割かが女の子になるという、御厨實の『大きくなったら女の子』(2023年~)は、まさに絵の力が発揮された作品だと思います。胸のふくらみや身長といったジェンダーの記号を逆転させたキャラクター造形で、私は読み手として混乱しましたし、一方でよく読んで理解しようとしました。この物語のテーマを文字で表現するのは、もしかしたらすごく難しいかもしれません。
岩下 多様性へのアプローチがさまざまな形で出ていることについては、ポジティブな文脈で捉えたいと思います。ただ、そうした社会的問題を題材に取り上げることがやりやすくなり、評価を得られるようになった一方で、そうした観点から問題のある描写、表現がないかが厳しく問われるようになっている気がします。単に多様性の問題を描いていいない、触れていないのではなく、問題意識を欠いているとみなされて批判されることもある。同時に、こうしたトピックを「ポリコレ」として毛嫌いするする層もいるわけですが。
飯田 世間の社会的意識の高まりが、逆に表現を萎縮させてしまうドライブになる場合もありますね。1990年後半の『ヤングサンデー』では、『殺し屋1』(山本英夫、1998~2001年)、『バクネヤング』(松永豊和、1995~1997年)、『ザ・ワールド・イズ・マイン』(新井英樹、1997~2001年)が連載されていましたが、一時期は毎週のように編集者が日本雑誌協会に呼び出されて「おたくの雑誌がすべてのマンガ雑誌で一番人を殺してますよ」「子どもを理由もなく殺すような描写はダメでしょう」等々と抗議されていたと聞いています。今は一番あばれていた時代の『ヤングサンデー』のようなメディアは成立不可能でしょう。ソーシャルメディア上での批判がすぐに可視化されて火が付きやすいばかりでなく、激しい暴力描写、非倫理的な描写はAppleやGoogleなどの規制で弾かれ、性描写も一定以上の表現はクレジットカード会社にノーを突きつけられる。括弧付きの「多様性」は描かれるようになった反面、商業媒体で許容される表現の外堀はどんどん埋められてきています。
西原 ポリティカル・コレクトネスの認識も人によって違うだろうけれど、たしかに最近マンガを読んでいると、正しい表現であろうとする傾向がある気がします。そもそも私が、そういう作品をよく読んでいるからかもしれませんが。
飯田 最近のマンガ賞上位にある作品を読むと、そういう配慮をしているのかなと思うくらい、行儀がいい作品が並んでいます。でも、それによって逆に失われたマンガ表現、そしてマンガから疎外されている人はいないのか、気になるところです。
飯田 僕は高橋のぼるの『土竜の唄』(2005年~)が好きなのですが、それは「マンガって何やってもいいんだ」という自由さを感じさせてくれるからです。主人公は麻薬のおとり捜査でヤクザに潜入しますが、なぜか象や巨大エチゼンクラゲを乗り回したり、腹にパンチしたら腹筋に拳がめりこんで抜けなくなったり、リアリティレベルが振り切れている。今はヤクザ同士で次の組長を決めるためにプロレスのトーナメント戦を延々やっていて、まったく意味がわからない(笑)。
じゃあこういうタイプのマンガを今の若い作家や編集者が新作として描けるのか、ゴーを出せるのか。あるいは描きたいと思うか。整合性を気にしてできないと思うんですね。ある時代までは存在していた「マンガは読み捨てられるもの」「毎話その瞬間おもしろければそれでいい」という感覚・意見があったのを知っている世代と知らない世代ではマンガ観が変わってしまっている。今は「おもしろければ細かいところは気にしなくていい」というマンガ家や編集者はおそらく少数派でしょう。連載中はSNSの反応を見て読者のツッコミを気にしてしまいますし、「電子書籍だとのちのちまで参照されつづける」と思うと「ちゃんとつくろう」という方向に良くも悪くも傾きやすい。
岩下 マンガだけではなく、あらゆるコンテンツにおいて、辻褄をきちんと合わせることにコストをかけるようになっている印象はあります。IPとして展開していくことと連動しているのだと思いますが、世界観を緻密につくり、年代記的にタイムラインをすべて埋めていく。あらゆる気になる細部は伏線として回収され、物語世界のなかで位置づけられて「あれって結局なんだったのかな」というのがない。一読者としては、世界を書き尽くしていくものばかりでもなくてもいい、辻褄もあわない、余白だらけの無茶なマンガも存在してほしい、という気持ちがあります。ちょっと変な言い方かもしれませんが、もっとおもしろくないマンガ、ダメなマンガがいっぱいあっていいわけです。商業的なプロダクトとしてちゃんとしていない、いい加減なものがあふれていていい。玉石混交の量的な豊かさが日本のマンガを支えてきたのだし、新しい表現もそうしたなかから生まれてくるのではないかと思います。
[飯田一史氏のトピック解題]
1 小学館『コロコロコミック』:地方創生プロデュース事業を本格化
日本のコミック市場は2023年にはコミックス単行本1,610億円、紙のマンガ雑誌497億円、デジタル4,830億円の合計6,937億円と過去最高水準にある(出版科学研究所調べ。ただしインプレス総合研究所では電子コミックが5,647億円と推計)。一方で決済手段を持たない小中高生のマンガ読書率は、課金ありきの電子書籍に拠らないビジネスモデル構築を迫られている。そんななか『コロコロコミック』はタッチポイントを増やすべくYouTube展開に注力し、親子需要を見越して自治体と組んで体験型コンテンツ開発に乗り出しているのが興味深い。
2 『俺だけレベルアップな件』(原作:Chugong、作画:DUBU、2016~2018年):スタジオ制作型ウェブトゥーンIPのモデルケースに
2019年にピッコマ上で月1億円を売り上げたことで日本でも注目された本作がアニメ配信、スマホ向けゲームをリリースし、いずれもヒット。ドラマ化、実写映画化をアダプテーション先としてきたウェブトゥーンのなかで、アニメとゲームがともに売れた(ゲームは半年で推定売上1億3,900万ドル)、ほぼ初の事例となった。各国で単行本コミックスも好セールを収めており、「縦か、横か」は本質ではなく、IPとしてどう育てるかの問題だと示した。
3 日販がコンビニ流通から撤退を表明:流通構造の転換
日本の出版流通は雑誌と書籍の一体型を特徴とし、マンガも2000年代中盤までコミックス単行本よりも雑誌の方が売り上げが大きい時代が長く続いた。1990年代にはコンビニでのジャンプやマガジンの早売りが問題になったほど旺盛な需要があったが、それも今や昔。雑誌で稼いで赤字の書籍部門を補ってきた取次の事業も雑誌需要縮小で根幹が揺らいでいる。日本のマンガビジネス、マンガ表現の前提となってきた流通構造が歴史的な転換点にある。
飯田 一史(いいだ・いちし)
ライター、ジャーナリスト、独立研究者。グロービス経営大学院経営学修士課程修了(MBA)。著書に『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社、2023年)、『ウェブ小説30年史』(講談社、2022年)、『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩書房、2020年)、『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの?』(星海社、2018年)など。インプレス総合研究所『電子書籍ビジネス調査報告書2024』執筆陣。マンガ関係の共著に藤田和日郎『読者ハ読ムナ(笑)』(小学館、2016年)、週刊少年ジャンプ編集部『描きたい!!を信じる――少年ジャンプがどうしても伝えたいマンガの描き方』(2021年)など。共著論文にIida Ichishi and Scott Ma, “Japanese Web Novels: Media History, Platform, and Narrative,” Special issue on “Methodologies,” Jaqueline Berndt ed., Mechademia: Second Arc, 17 (2), 2025がある。
[岩下朋世氏のトピック解題]
1 スモールパブリッシングの活躍:オルタナティブなマンガのための場所
国内市場が豊かな反面、世界のコミック文化を意識する機会が少ない日本で、クラウドファンディングで世界各国の作品を翻訳しているのがサウザンブックス。また、イギリス発のBLコミック『ハートストッパー』(アリス・オズマン)なども刊行するトゥーヴァージンズは翻訳だけでなく、イラストレーター・サイトウユウスケのマンガ作品『チャック・アンド・ザ・ガール』など、オルタナティブな日本マンガの刊行にも意欲的だ。
2 ジャーナリスティックなマンガ:日本からの応答
マンガ家自身が登場する作品は、エッセイマンガを中心に日本でも数多い。しかし、ジョー・サッコに代表されるようなコミックジャーナリズムに相当するものは、『さんてつ――日本鉄道旅行地図帳 三陸鉄道 大震災の記録』(新潮社、2012年)などの吉本浩二がいるものの、多いとはいえない。そうしたなか、蔵本千夜『Battle Scar』(2024年)は注目すべき作品だ。こうした作品が必要とされる世界の状況は望ましいものではないが、描かれるべき事柄は山積みで、今後の発展が期待される。
3 ホラーブームのマンガでの展開:フェイクドキュメンタリーの活況
フェイクドキュメンタリーやファウンドフッテージもののホラーが活況を呈している。『コワい話は≠くだけで。』(原作:梨、作画:景山五月、2022年~)のような作品も生まれているものの、キャラクターが重視されるマンガでこのジャンルの成功はハードルが高い。一方で、映像におけるフェイクドキュメンタリーホラー人気の立役者、白石晃士「戦慄怪奇ファイル コワすぎ!」シリーズの羽生生純によるコミカライズもされており、ホラーの潮流が今後どのようにマンガにおいて展開していくか興味深い。
岩下 朋世(いわした・ほうせい)
マンガ研究者。1978年、鹿児島県生まれ。相模女子大学学芸学部メディア情報学科教授。主な関心領域は少女マンガの表現と歴史、キャラクター論。著書に『少女マンガの表現機構――ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』(NTT出版、2013年)、『キャラがリアルになるとき――2次元、2・5次元、そのさきのキャラクター論』(青土社、2020年)。
[西原麻里氏のトピック解題]
1 『呪術廻戦』(芥見下々、2018~2024年)、『【推しの子】』(原作:赤坂アカ、作画:横槍メンゴ、2020~2024年)の連載終了:マンガ本編を超える展開へ
2024年は少年マンガ誌やアプリ発のマンガ作品が相次いで連載終了した。いずれも高い人気を誇るが、その人気に応じて物語を継続するよりも区切りをつける形が選ばれた。現在のマンガ作品は、読み物としてのみ成立するのではなく、IP(知的財産)としてさまざまな他メディアに展開することで無限に続くことが当たり前になりつつある。なにをもって「マンガ」あるいは「マンガ文化」を捉えるのか、その枠組みが今後変わる可能性があるのではないだろうか。
2 「創刊50周年記念 花とゆめ展」(2024年5月24日(金)〜6月30日(日)、東京シティビュー)や「CLAMP展」(2024年7月3日(水)〜9月23日(月・休)、国立新美術館)が開催:展覧会としてのマンガをいかに楽しむか
現在、大規模会場で開催されるマンガの展覧会は、原画や作品関連の展示物を眺めるだけでなく、鑑賞後にグッズを購入することもフォーマット化している。では、額装された原画は、どのように「鑑賞する」、あるいは「読解する」ものなのか。あらかじめ作品に親しんでいるファンだけでなく、誰もが「ミュージアム」という場でマンガを楽しむために、マンガというメディアを鑑賞し読解するための知識の必要性を感じる。
3 『私たちは無痛恋愛がしたい――鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん』(瀧波ユカリ、2021年~):マンガならではの表現と性と社会の問題
現代日本に根深く存在する女らしさ・男らしさと性別役割を、正面から楽しく切り込む作品。登場人物たちの苦痛やそれへの対処の仕方が、読者に語りかける形式で表現される。しかも一方の視点だけでなく、相手を苦しめる側の思考や振る舞いの背景も描かれる。私たちはみな、ジェンダーにもとづく社会の規範や制度の被害者であると同時に、それを(うっかり)再生産してしまっていることにも気づかされる、明快・痛快なコメディ教養マンガである。
西原 麻里(にしはら・まり)
マンガ研究、メディア文化研究、ジェンダー・セクシュアリティ研究。跡見学園女子大学文学部現代文化表現学科准教授。同志社大学大学院社会学研究科メディア学専攻博士後期課程単位取得退学、博士(メディア学)。BL(ボーイズラブ)をはじめとする女性向けマンガとメディア文化を研究し、物語表現と文化の形成をメディアの特徴や仕組みから考えたり、メディア表現を通じてジェンダーや性の規範の問題にアプローチしたりしている。著書に『マンガ文化55のキーワード』(竹内オサムと共編著、ミネルヴァ書房、2016年)、『BLの教科書』(堀あきこ・守如子編著、有斐閣、2020年)など。単著として『BLマンガの表現史――少年愛からボーイズラブジャンルへ』(青弓社、2025年)刊行。
※インタビュー日:2024年12月6日
※URLは2025年2月27日にリンクを確認済み