中野 晴行
写真:中川 周
昭和の時代に手塚治虫や、藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐ、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが入居して創作活動にいそしんだアパート、トキワ荘。豊島区南長崎(旧椎名町)にあったその「聖地」を中心に、今、地域活性の活動が展開されています。トキワ荘商店街会長の小出幹雄氏に、各所にあるゆかりのスポットを紹介してもらいながら話を聞きました。
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東京都豊島区南長崎(旧椎名町)。かつてこのまちには多くのマンガ家が暮らすマンガ家アパート「トキワ荘」があった。1953年初め頃完成の木造2階建てで、1953年に手塚治虫が2階の四畳半を、その後、寺田ヒロオが手塚の向かいの部屋を借りた。手塚が退去した跡には藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐが入居。さらに石ノ森章太郎、赤塚不二夫らも住人に加わり、一時は水野英子も暮らした。住人だけでなく、東京在住のつのだじろう、永田竹丸らも足を運び「マンガの梁山泊」とまで呼ばれた。
トキワ荘は1982年に惜しまれながら解体されたが、「トキワ荘があった街」をテーマに地域活性化に取り組んでいるのが、トキワ荘商店街と目白通り二又商店会だ。今回はトキワ荘商店街会長の小出幹雄氏と街を歩きながらさまざまな取り組みについてうかがった。
西武鉄道池袋線池袋駅から普通列車に乗り一駅先の椎名町で下車。駅南口から10分ほど歩くとY字路の角に交番がある。二又交番だ。ここを起点に東西におよそ500mにわたるのが目白通り二又商店会、そして二又商店会の西に隣接して約300m続くのがトキワ荘商店街である。かつては200軒を超える商店があったが、現在は4分の1以下に減少しているという。
このあたりは昔から文化的でにぎわいのある街だったんですよ。西武鉄道池袋線をはさんだ北側の豊島区要町、長崎、千早は昭和初期から戦前まで若い画家たちが暮らすアトリエ付住宅が集まり『池袋モンパルナス』と呼ばれていました。手塚さんにトキワ荘を紹介した雑誌『漫画少年』の加藤謙一編集長は戦前、講談社の月刊誌『少年倶楽部』の編集長でしたから、仕事上このあたりの土地勘があったのかもしれませんね。戦後も、トキワ荘と同じような木造アパートがいくつもあって、銭湯は町内に5軒もありました。うちはスエヒロ堂という時計屋ですけど、同業の店が4軒。それで商売が成り立っていたのですね。椎名町や東長崎の駅前よりもこの通りのほうがにぎやかなくらいでした。今の南長崎6丁目交差点は豊島区と新宿区と中野区の区境になっていて、この3区のほかに練馬区からもお客さんが来ていました。
池袋まで電車で5分以内という便利な土地である。高度成長時代には大いに繁盛した。
ところが、高度成長が終わった1980年代になると少しずつ街の姿に変化が生まれた。戦後築の木造アパートが取り壊され、一戸建て住宅やファミリー向けアパートに建て替えられていったのだ。トキワ荘も1981年に取り壊しが決まった。商店街のにぎわいも次第に失われていった。
学生時代に商店街のイベントを手伝ったときには会場の公園に人が入り切らないくらいでした。それが80年代後半から目に見えて減ってしまった。地元ではみんなが何とかしないといけない、と思ってはいるのですが、なかなかいい案が浮かばない状態でした。
そんななか、浮かんだのがマンガの聖地「トキワ荘」を軸にしたまちおこしだった。
私は1958年生まれですから、物心ついたときにはトキワ荘の先生たちは他所に引っ越されていました。マンガは大好きでしたし、トキワ荘のことはもちろん知っていましたが、現実味がなかったのです。ところが、1981年5月26日にNHKのドキュメンタリー番組「NHK特集」が『わが青春のトキワ荘』を放送したのです。番組内で、藤子不二雄(当時)先生の呼びかけで手塚先生はじめ、かつてのトキワ荘住人が集まった様子を見て、改めてトキワ荘ってすごい存在だなあ、と感じました。
しかし、トキワ荘が取り壊されてしまった跡地にはモニュメントすらなかった。地元の若手有志は1999年にトキワ荘記念館の建設を呼びかける署名活動を始めた。
地元にはトキワ荘の記憶を伝えるものが何もない。そこでまず署名運動を始めたわけです。ところがマンガに興味がないと地元住民でもトキワ荘のことを知らないという壁にぶち当たってしまいました。
ようやく事態が動いたのは2007年だ。豊島区が東京メトロ有楽町線東池袋駅周辺の再開発事業としてライズシティ池袋が完成。そこに竣工したライズアリーナ4、5階に豊島区立中央図書館が開館。館内にトキワ荘コーナーが生まれたのだ。
地元の区会議員さんから「お膝元の南長崎で何もやらなくていいの?」ってはっぱをかけられました。いい文化資源が跡地とはいえあるのだから何とか活用したいという機運がようやく盛り上がってきました。ただ、商店街には予算がない。はじめはビニール製の捨て看板一つです。旧南長崎ニコニコ商店街(現トキワ荘商店街)と目白通り二又商店会の連名で『マンガの神様 手塚治虫・藤子不二雄・石ノ森章太郎・赤塚不二夫らが青春時代を過ごした『マンガの聖地』トキワ荘跡入り口』という立て看板をトキワ荘跡地の日本加除出版への路地に設置しました。するとラジオ番組のクイズコーナーで紹介されたり、地下鉄の広報誌が取り上げてくれたりで、マンガファンの人たちの注目を浴びて、看板の前で記念写真を撮るファンの人たちも増えて、「これはいけるぞ」となったわけです。
折しも豊島区は2005年に当時の高野之夫区長のもと文化創造都市宣言を発表した。こうした流れを受けて小出氏たちはトキワ荘のモニュメントならできるのではないか、と考えて活動を開始した。
今までの苦労が嘘みたいにトントン拍子でした。ただ、権利関係をまとめた区の課長さんは大変だったと思います。関わっているマンガ家さんが住人だけで10人いて、全員の許諾が必要です。図書館のトキワ荘コーナーをつくるときに協力してくれた鈴木伸一先生、水野英子先生、よこたとくお先生、そして、元講談社編集者の丸山昭さんに相談して、まず手塚プロダクションさんまで挨拶にうかがいました。区の課長と私、区と地元からそれぞれ3人が挨拶にうかがって、権利関係はすべて手塚プロさんと豊島区でまとめてくださいました。ありがたかったです。
2009年4月には商店街の西部分にある南長崎花咲公園で記念碑「トキワ荘のヒーローたち」が除幕した。これ以降5周年を迎えるまで毎年4月には水野英子、丸山昭らによるトークイベントやサイン会を開催している。記念館建設への期待も盛り上がっていった。
高野前区長の功績はたしかに大きいのですけど、やはり地元とマンガファン、そして協力してくださったマンガ家のみなさんのおかげですね。2011年には商店街と地元町会と区で『トキワ荘通り協働プロジェクト協会』という組織を発足させて、商店街の『トキワ荘通り』という通称を定着させていきました。
スタート地点の二又交番から少し歩くと「トキワ荘通りお休み処」というレトロな建物が見えた。2013年にもともと米穀店だった木造2階建てをリニューアルした施設だ。1階には手塚治虫や石ノ森章太郎らトキワ荘ゆかりのマンガ家の著書が展示され、2階には「トキワ荘の兄貴」として若いマンガ家たちから慕われた寺田ヒロオの部屋が再現されている。
お向かいには、藤子不二雄Ⓐの代表作『まんが道』のなかで主人公の満賀道雄たちが足繁く通った町中華「松葉」が今も営業を続けている。
さらに足を進めていくと「紫雲荘」という木造アパートがあった。1959年の築で、トキワ荘だけでは手狭になった赤塚不二夫が住んだことで知られている。当時の赤塚の部屋が再現されている(見学は要予約)ほか、2011年からは、区と地元が協働で、マンガ家志望の若者に最大3年間部屋代の半分を支援する「紫雲荘活用プロジェクト」も実施。すでにプロデビュー者を複数出しているという。
その西隣が、トキワ荘があった場所だ。「トキワ荘跡地入口」という看板が目印になっている。現在は日本加除出版という出版社の社屋が建つが、2012年4月には敷地の一角にトキワ荘をかたどったモニュメントが除幕された。
記念碑ができた頃から、商店街にマンガの街を意識するお店が出てきました。お金はかけられないのですけど、空き店舗活用も含めて、今ある資源を上手に使うのがこの界隈の商店街の特色と言えるかもしれません。商店街からは離れていますけど、2017年には椎名町駅前の金剛院というお寺にマンガを描くペンを持った『マンガ地蔵』も建立されました。金剛院のご住職も大のマンガ好きなのでしょうね。
小出氏たちが切望した記念館構想が本格的に動きだしたのは2015年である。現在の「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」だ。建設場所は「トキワ荘のヒーローたち」の記念碑がある南長崎花咲公園に決まった。
跡地にできるのが理想ですが、それは無理なので、少し離れているけど豊島区立の公園でということです。トキワ荘を再現した建物ということもその段階で決まりましたが、困ったのは当時の図面などが何も残っていなかったこと。住んでいた先生方は大体の間取りを覚えておられましたが、あとは解体工事を伝えた週刊誌の写真や、地元の方が残していた写真が役に立ちました。「トキワ荘」の看板が写った写真はお向かいの方からの提供でした。東京オリンピックに合わせて2020年春開館の予定でしたが、コロナ禍で3カ月遅れて、開館後も入場人数を制限することになりました。
開館に合わせて、トキワ荘ゆかりのマンガ家の書籍やキャラクターグッズ、おみやげなどを販売する「ふるいちトキワ荘通り店」やマンガのイベントを行う「トキワ荘通り昭和レトロ館(豊島区立昭和歴史文化記念館)」などの施設が相次いでオープンして商店街全体がマンガミュージアムのような趣になった。
「ふるいちトキワ荘通り店」の大家は私です。最近、向かいの空き店舗を改装したカフェ「ふるいちトキワ荘通り店(蔵)」もオープンしています。「トキワ荘通り昭和レトロ館」は、「味楽百貨店」という昭和20年代にできたマーケットだった建物です。1階にいくつものお店が入って2階はそこで働く人たちなどのアパートでした。壊せばワンルームマンションか何かになってしまうところを地主さんのご厚意で利用させてもらえることになったのです。先日は「トキワ荘通り商店街」が公式通称に認められました。また、椎名町、南長崎両駅前の商店街からも「うちでも何かできないだろうか」という声が上がるようになっています。マンガの街として昔のようなにぎわいを取り戻せるように、時間はかかるかもしれませんが、取り組みを継続させていきたいと思っています。
商店街を歩いてトキワ荘マンガミュージアムに向かった散歩は楽しかった。地元の草の根的な動きが自治体を動かして成果を上げつつあるのがトキワ荘通りにある商店街なのではないだろうか。
※インタビュー日:2024年11月21日