不破 了三
写真:小野 博史
アニメ・特撮・ゲームなどのメディア芸術の世界における「音」の表現を切り拓いてきたクリエイターにお話をうかがうインタビュー連載「音を極める――メディア芸術の音を創造した人々」。今回はテレビアニメーション、特撮から、実写の海外映画まで、幅広い作品群が世界的に高い評価を受けている作曲家・川井憲次氏です。前編は、学生時代の音楽活動や作曲の仕事を始めた経緯、「打ち込み型劇伴」の草分けとしての作曲・レコーディング技法についてうかがいました。
連載目次
――今回は品川区にあるプライベートスタジオ「AUBE STUDIO」にお邪魔していますが、川井さんはもともとこのあたりのご出身なのでしょうか?
川井 そうです。父も母も品川で、僕も品川の東海道沿いの街で育ちました。音楽の仕事を始めた頃は、それこそ実家の自分の部屋で録音作業までしていたんですが、さすがに機材の問題、音の問題など、いろいろ難しくなってきまして。近くに防音設備付きのマンションがあったので、1990年くらいにまずはそこへ仕事場を移して。そして2000年頃に、この場所に本格的なスタジオをつくることになりました。なので結局、生まれてからずっと品川なんですよね。
打ち込み作業とか、ベーシックなレコーディングもミックスもここでやっています。デモは全部ここでつくって、それを監督や製作会社に送って、OKならば譜面をつくって、大きなスタジオにオーケストラを入れて本番のレコーディングをする……というように録音作業が進んでいきます。
――ではまず、川井さんの子どもの頃のテレビ・映画・音楽体験をうかがいたいのですが……。
川井 子どもの頃よく見ていたアニメーションというと、『ジャングル大帝』(1965年)、『オバケのQ太郎』(1965年)、『おそ松くん』(1966年)、『パーマン』(1967年)などが思い浮かびますね。白黒アニメーションとカラーアニメーションが混在している時期ですけど、ウチのテレビは白黒だったので、全部白黒の記憶です。それから、近所の映画館に『魔法使いサリー』(1966年)を観に行ったこともありました。北品川には映画館も近所に2、3軒ありましたが、子どもの頃は実写の映画はあんまり観ていないんですよね。
音楽の話だと、父親がステレオセットを持っていてクラシックのレコードをよくかけていました。自分で聴こうとしていたわけではないんですが、グリーグの「ペール・ギュント」など、特にメロディのハッキリした音楽が好きでしたね。僕はレコードプレイヤーで買ってもらったアニメーションのソノシートなどもよく聴いていました。それから、ソニーのテープレコーダーも父親が持っていて、ラジオから録音した『ムーラン・ルージュ(赤い風車)』(1952年)、『アラビアのロレンス』(1962年)などの映画音楽をよく聴いていました。『ムーラン・ルージュ』の曲は、今でも自分の原点だと思っています。小学1年くらいの頃は体が弱くて、よく部屋で寝込んでいたんですが、その退屈しのぎで、それこそ毎日のようにレコーダーをいじっていましたね。まだカセットテープではなく、小型のオープンリール型でした。そして小学3年くらいのときに、グループ・サウンズとフォークソングの波が来るんですよ。森山良子さんの「さとうきび畑」(1969年)が好きでした。
中学に入ると、バート・バカラック1に夢中になります。フルオーケストラを率いた来日公演をテレビで放送していて、それを観て、これはすごい!と一発でヤラれちゃいました。バカラックの曲を歌っていると知ってカーペンターズを聴き、カーペンターズに曲を提供したキャロル・キングを聴き……と広がって、中学のときはこの3組ばかり聴いていました。その頃、世の中はビートルズ一色だったんですけどね(笑)。
――ギター・プレイヤーでもある川井さんが、ビートルズやグループ・サウンズではなく、バカラックやカーペンターズなどのソフトなポップスから音楽に目覚めるというのも意外ですね。
川井 そうですね。多くの周りの友達はみんなビートルズに夢中で、バカラックと言っても、「は? 誰それ?」みたいな反応でしたから(笑)。それでもキャロル・キングを入り口にして、だんだんロックの方にも入りこんでいくんです。それが中学時代ですね。
――では、楽器に触れてみようと思われたのは、いつ頃だったのでしょうか?
川井 もともと、ウチに兄のクラシックギターがあったんですよ。それを小学校3、4年くらいからなんとなく弾き始めてはいました。中学に入ると12弦ギターを買って、トワ・エ・モワなんかを弾いていましたね。エレキギターを持つようになったのは高校からです。キャロル・キングを聴いているうちに、そのレコーディングに参加しているダニー・クーチ(ダニー・コーチマー)というスタジオ・ギタリストが素晴らしい演奏をしているのに気づくんですよ。それとサンタナですよね。サンタナもやはり来日公演をテレビで見て、「サンタナになりたい!」と思ったわけです(笑)。もう夢中でコピー練習しましたよ。結果的に、エレキギターという楽器を選んでいったのも、ダニー・クーチとサンタナの影響です。人前で弾いてみようかなと思ったのは、高校の仲間と文化祭でシカゴを演奏しようという話になったのが最初ですね。高校時代は、ほかにも、はっぴいえんどやキャラメル・ママ、山下達郎さんなんかの日本のアーティストもコピー演奏していました。
――その流れでいくと、当然のようにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)にもハマっていきそうですが……。
川井 いや、それがまったくなかったんです。僕がプログラミングでつくる音楽……いわゆる「打ち込み」を始めたのも、YMOなどのテクノポップの流れとはほとんど関係なくて、単純に一人で音楽をつくる必要に駆られて、なんですよね。
――では音楽の道を志すようになったのは、いつ頃からなのでしょうか?
川井 高校までは、音楽で食べていこうなんて1ミリも思っていませんでした。高校も工学系、大学は全部理系を受験して、結局一浪して原子力工学科に入学しましたし。ところが、遠距離通学だったので次第に行かなくなってしまって、あげく退学に……。じゃあせめて好きな音楽で食べていけるようにと、音楽の専門学校に入ったんですよ。その頃はスタジオ・ミュージシャンになりたかったんですよね。でもスタジオ・ミュージシャンは譜面を渡された瞬間、その場で演奏できる能力が必要なんです。これは自分には無理だなぁと。なんせ練習が嫌いなもので(笑)。
その頃、「MAZDAカレッジサウンドフェスティバル」という、のちに「聖飢魔II」とか、爆風スランプの前身の「スーパースランプ」が出ることになる、マツダとニッポン放送がやっているバンドコンテストがあったんです。その第1回目の年に「MUSE」というフュージョンバンドを組んでノリで出たら、なぜか優勝しちゃったんですよ(笑)。ニッポン放送が主催なので、キャニオンレコードの名門「一口坂スタジオ」でデモテープをレコーディングしたりして、プロデビューに向けて動き出しました。でも結局、バンドとしてはデビューできずに、デモを聴いてくれた会社から、CM音楽とか、企業PRビデオの音楽とか、そういう仕事が来るようになりました。これが僕の職業作曲家としての最初のお仕事になるわけです。このCM音楽を一人でつくるために、必要に迫られて「打ち込み」を始めたというのが実際のところです。
80年代前半、「宅録」という名前で、自宅で一人で音楽がつくるのがブームのようになって、音響メーカーからもそのための機材が続々売り出されたんですよ。僕もティアックのカセットテープのマルチトラックレコーダーを使っていたんですが、すぐにそれでは飽き足らなくなって、TASCAMのオープンリール型の8chマルチトラックレコーダー(MTR)「33-8」を買いました。当時で60万円くらいしましたから、かなり思い切った買い物でした。父親に借りたお金でやっと買えたんですが、もう返しましたよ(笑)。CM音楽制作も、これでグッと幅が広がりましたね。
――ちょっと話を戻しますが、では結局バンドでのデビューは果たせなかったわけですね……。
川井 コンテストに出たMUSEというバンドでのデビューはできませんでしたが、やはり、その時につくったデモテープを聴いてくれた方のご縁で、深野義和さんというシンガーソングライターのバックバンドを一時期務めていました。さらに、その深野さんが曲を提供している声優の三ツ矢雄二さんともご縁ができて、三ツ矢さんのバックバンドもやっていました。この頃はCM音楽の仕事も頻繁にあるわけではなかったので、こういうバックバンド活動も、その他もろもろの音楽活動も、オファーがあればなんでもありがたく請け負っていましたね。例えば「アリス」のドラマーとして有名な矢沢透さんも、年中ウチに来て、矢沢さんの曲を僕がアレンジしたり、例の8chMTRを使って一緒にデモをつくったりしていました。そうこうしているうちに、だんだん作曲の仕事が増えてきて、同時に、自分がやりたい音楽と、バンドでできるサウンドが乖離してきちゃうんですよ。バカラックのように弦を使った音楽をやってみたいとか、そんなふうに思うようになってきて、バンドでの表現に限界を感じていたのは確かです。
――その頃から徐々に職業作曲家、かつ、劇伴音楽の作曲家としてのお仕事がかたちになっていくわけですね。
川井 それもやはり人とのご縁がすべてです。三ツ矢雄二さんのポップ・オペラ「マザー」というミュージカルの音楽を担当したときに、音響監督の浅梨なおこさんと出会い、「ウチの社長を紹介したい」と言われてお会いしたのが、音響制作会社「オムニバスプロモーション」の創業者・斯波重治さんです。そこから斯波さんにお仕事をいただくようになって、『うる星やつら』の最終回(1986年)でのエキストラ音楽を担当したり、短編のアニメ作品や徳間書店のプロモーションビデオの音楽をつくったりしました。そこから『めぞん一刻』(1986年)、『らんま1/2』(1989年)と続いていくわけなので、小さいながらも大きな一歩でした。そうなったきっかけというのが、最初斯波さんに、「ちょっと会わせたい人がいる」と言われて紹介していただいたのが押井守監督だったんです。声優の千葉繁さんのプロモーション映画のようなものを、押井さんが監督、斯波さんがプロデューサーでつくるので、音楽をやってくれないか、というお話でした。
――それが、その後、長年のパートナーとなる押井守監督との初のお仕事となった、映画『紅い眼鏡』(1987年)ですね。
川井 そうなんですが、この依頼は、僕の音楽を聴いてくれたとか、僕の才能を評価してくれたとか、そういうことではないと思うんですよね、たぶん。半分自主制作のような、とにかく予算のない映画だったので、バンドも雇わず、スタジオも使わずに、打ち込みで安く音楽をつくれて納品のかたちにまで仕上げられる人として、僕に声がかかっただけで(笑)。
ただ、その後に続く押井監督とのお仕事の縁を思えば、あのとき、思い切って例の8chMTRを買っておいて本当によかった(笑)。この頃、さらに上位機種の「TASCAM 55-8」に買い替えていたと思いますが、『紅い眼鏡』ではフル回転で使っていましたね。そうやってつくった劇場予告用の音楽を聴いたキングレコードの大月俊倫さんが、「この音楽はカッコいいからウチからレコードを出そう」と言ってくれて、結局はキングレコードの立派なスタジオで、さらにグレードの高いレコーディングをすることができたんです。ここでの大月さんとの縁が、映画『精霊のささやき』(1987年)や、OVA『デビルマン 誕生編』(1987年)にもつながっていきます。自分の音楽人生って、本当に一期一会だなって思いますね。
――デビュー間もない時期に、『めぞん一刻』『らんま1/2』のようなコメディ要素の強い音楽と、『紅い眼鏡』『精霊のささやき』のようなシリアスなドラマの音楽を同時に手掛けられていた経験は、その後の川井さんの作風や「引き出し」に影響を与えたのでしょうか?
川井 僕は正規の音楽教育をまったく受けていないので、作曲の仕事はその入り口からずっと、オーケストラも書けない、まともな和声もわからない、対位法もわからない……という、すべてが新しい挑戦で、コミカルな曲も、シリアルな曲も、そのトライの一つだったわけです。その積み重ねの、慣れの果ての姿が今の僕の音楽なんですよね。本当に自分の勘だけを頼りに、これでいいのかな? これは間違ってないかな?というトライ&エラーの繰り返しです。ただ、自分の頭のなかでは、理想としてバカラックのようなサウンドが響いていたり、今つくりたい音がなんとなく鳴っていたりするので、それだけが唯一の指針でした。多くの作曲家、特に劇伴の作曲家の方は、ちゃんと学校出られている方が多いし、譜面だけで音楽を書けちゃう人も多いと思います。でも僕みたいなタイプの作曲家は、とにかく自分で試してみて、何度も聴き直し、つくり直しながらでないと進めない。だから、たまたま出会った「打ち込み」という音楽制作方法は、僕にとっては実に都合が良かったんです。試行錯誤しながら、徐々に厚みを増やしていったり、内容を磨き込んでいったり……そういうトライ&エラーの積み重ねで音楽をつくっていけるので。
――この連載で2021年に取材させていただいた作曲家の神前暁さんも、まさに、打ち込み環境が前提の作曲方法で、仮に入力したデータのブラッシュアップにかなり時間をかけるとおっしゃっていましたが、川井さんは、劇伴音楽の分野で、そうした音楽制作方法を切り拓いていった草分けといえるのではないでしょうか。
川井 本人は切り拓いたたつもりは全然ないんですけどね(笑)。ただ、もう一つ性に合っていたのは、もともとギタリスト志望だったのに、シンセサイザーやレコーディング関連の音響機材を触るのが好きだったので、それが功を奏したという面もあると思います。毎月、『サウンド&レコーディング・マガジン』を買って読みながら、新しく発売された機材にワクワクしていましたし、駆け出しの頃、仕事でレコーディング・スタジオに行くと、憧れの高価な機材がズラっと並んでいるわけですよ。それを見て、コレ欲しいな、アレ欲しいなって、ずっとそう思っていました(笑)。
――川井さんが音楽の仕事を始められた時期は、そうした音楽に関するテクノロジーがグッと充実してきて、多様なメーカーから楽器も機材も豊富に出始めて、技術も加速度的に進んでいくタイミングとシンクロしていたのではないでしょうか。
川井 そうだと思います。アナログからデジタルへの移行期にあたりますし、シーケンサー(音楽をプログラミングする機材)専用機から、パソコン環境でのDAW(Digital Audio Workstation)制作への移行もすべて体験してきました。90年代前半までのレコーディング現場では、ソニー製の24chデジタル・マルチトラック・レコーダー「PCM-3324」(1984年発売)や、おなじく48chの「PCM-3348」(1989年発売)が世界中に広まって、フル回転していましたね。90年代後半から、徐々にDAW「Pro Tools」(初代は1991年発売)に置き換わっていき、今ではすっかり世界標準になりました。ついこの前まで、ウチのスタジオにも「PCM-3348」があったんですけど、とうとうすべてPro Tools環境に置き換わりました。2台あったんですけど、結局2台とも捨てることになりました。誰も引き取ってくれないからですね。今、あちこちのスタジオが同じように困っていますよ。本当にそういう時期なんだと思います。レコーディング技術の歴史を物語る、偉大な機材だったのに、残酷なもんですよね。
――川井さんのキャリアの初期、80年代のお仕事のなかで、特に思い出深い作品、印象に残っている作品を挙げていただくとしたら、どんなものになりますか?
川井 そうですね……。湖池屋のポテトチップス「カラムーチョ」のCMですかね(笑)。カラムーチョが発売になって最初のCMです。CM音楽制作会社の人、広告代理店の人と、僕の3人だけでつくっていました。おばあちゃんがカラムーチョを食べて目がバッテンになって「ヒーッ!」って言うCMです。この声は、広告代理店の人が「ヒーッ!」って言ったのを録音して、僕が持っていた「Ensoniq Mirage」というサンプリング・キーボードでタイミングに合わせて再生した音なんです(笑)。ほかにもスナック菓子の「ベビースターラーメン」や、家庭用塗料「アトムハウスペイント」なんかのCMソングやサウンドロゴもつくっています。
――そうした川井さんの「かくれたお仕事」のなかで、とても印象深いのが、中京テレビの『お笑いマンガ道場』(1976~1994年)のテーマなのですが……。
川井 あれはもうちょっとあと、90年代に入ってからの新テーマだったと思います。中京テレビに『紅い眼鏡』の大ファンだという方がいらして、最初にご依頼いただいたのが、名鉄グループ提供の『旅はパノラマ』(1985~2007年)という15分番組の音楽ですね。その流れで『お笑いマンガ道場』や『ホンジャマカ共和国』(1993~1995年)なんかのバラエティ番組のテーマやドラマの音楽などもやらせていただいきましたよ。フジテレビでも『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(1990~1993年)のテーマをつくっていますね。この頃の音源は、じつはついに最近、アーカイブが終わったんです。その作業がようやく終わったので、例のマルチトラックレコーダーが引退していったわけです。
――劇伴音楽の作曲家としての活動が軌道に乗ったと、ご自身が思うようになったのは、いつ頃からでしょうか?
川井 『機動警察パトレイバー(OVA)』(1988年)、『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)、『らんま1/2』などをやっている頃だと思います。たぶん1989年だったと思いますが、ひと夏すべての時間をパトレイバーとらんまに費やした思い出がありますよ。『the Movie』の大詰めの頃は、1日1、2時間しか寝てなかったと思います(笑)。パトレイバーのOVAと映画は、すでに映像ができていて、そこにしっかり音楽のタイミングを合わせる形で作曲していました。当時は映像と音を同期するシステムもロクにありませんから、ビデオデッキとシーケンサーを手で合わせるんです。そうすると、ビデオデッキのスタートボタンを押したあと、映像がスタートするのにタイムラグがあるので、その分を見越して少し早めに押すんですよね。それが上手いスタッフがいたりして。それでも絶対、数フレームはズレてしまうんだけど(笑)。
――現在もなお新作の制作が続いている「機動警察パトレイバー」シリーズは、やはり川井さんにとっても大きな存在の作品ということになるのでしょうか。
川井 そうですね。パトレイバー、特に押井監督との作業の積み重ねが、自分の音楽を変えていったのかもしれないですね。押井さんの求めるものは、イメージが抽象的で捉えるのが難しいので、それを2人で擦り合わせながら時間をかけて正解を探していくような作業になります。そのやり方が見えたのが、『トワイライトQ 迷宮物件 FILE538』(1987年)というOVAでした。僕がシンセサイザー「YAMAHA DX-7」で何かちょっと変わった金属音のようなサウンドをつくったんですけど、それを押井さんが聞いて、「これはアリだね」と、すごく喜んでくれたんですよ。「これが答えだったのか……」と、お互いが納得いった瞬間でしたね。
この感触の音を2人で気に入って、続く『機動警察パトレイバー the Movie』でも似た音を使いました。それが映画のファーストシーン(帆場暎一の投身シーン)の音楽です。この曲はヤマハのスタジオでレコーディングしたんですが、倉庫の奥にスチールドラムがあったので、このときは本物のスチールドラムを使って、この「不思議な金属音」を表現しています。こういう押井さんとの対話とトライ&エラーが、のちの自分の栄養になっていったんだろうな……と思っています。押井さんの求めるものが難しいのは確かなんですが、押井さんが気持ちいいと感じるところと、僕が気持ちいいと感じるところは、わりと似ているんじゃないかとも思っています。なので、そこがぴったりハマると、一気に方向性が見えて、映像と音楽のシンクロの精度が上がりますね。
劇伴の作曲家は皆、監督さんの心の内側を探りながら作業を重ねていくものだと思うんですが、押井さんの場合は、長年の付き合いでもあるので、そんなに何度もやりとりを重ねなくてもよくなりましたね。狙うべきストライクゾーンが見えているので。加えて、押井さんはああ見えて、意外にストライクゾーンが広いんです(笑)。例えば僕が、かなり際どいコースに球を投げたとしても、ストライクゾーンに入ってさえいれば、「これはこれでアリだね」と言ってくれる。押井さんに限らず、この「ストライクゾーンが見える」状態に至れば、音楽もすごくつくりやすいんですけど、それが一向に見えてこない監督さんもいるんですよね(笑)。逆に言えば、押井さんは自分のストライクゾーンを「明確に持っている」から、僕も球を投げやすい……ということなんだと思います。
――「機動警察パトレイバー」シリーズと並行して、OVA『御先祖様万々歳!』(1989年)、映画『ケルベロス 地獄の番犬』(1991年)など、押井守テイストの強い作品群でも、やはり川井さんが音楽を担当されていますが……
川井 『御先祖様万々歳!』に関しては、作品自体もそうですけど、音楽的にも毎回いかにして笑わせるかを考える、とても楽しい仕事でしたね。この頃はもう、押井さんとコミュニケーションも取りやすくなっていましたし、自分がつくったものと押井さんが求めるものの乖離が、ほぼなくなっていましたから。
『ケルベロス』は、ほぼ全編、アコースティックギター中心で、サウンドの方向をガラッと変えました。これは音響監督の浅梨なおこさんが、リー・リトナーの『Color Rit』(1989年)というアルバムを持ってきて、こんなサウンドの方向性で攻めるのはどう?と提案していただいたんです。そして、あのギターはすべて僕自身が演奏しています。あんなにギターを弾いたのは、あとにも先にもないかもしれないですね。もうね、弾いているうちに、眠くなってくるんですよ。同じようなフレーズを何度も重ねていく、かなりミニマルな演奏だったので(笑)。
そして1993年に『機動警察パトレイバー 2 the Movie』になりますけど、このときは「プレ・サウンドトラック」というデモ(アルバムとしても発売)を事前に制作していたので、早いうちに方向性が見えていました。スケジュール的にも、『the Movie』の時のような修羅場にはならず、かなり余裕がありましたね。
脚注
川井 憲次(かわい・けんじ)
作曲家、編曲家。東京都出身。主な作品に『機動警察パトレイバー』(1988、1989年)、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)、『リング』(1998年)、『科捜研の女」(2001年~)、『セブンソード』(2005年)、『機動戦士ガンダム00』(2007~2008年)、『イップ・マン』(2008~2019年)、NHKスペシャル『沸騰都市』(2008~2009年)、BS世界のドキュメンタリー『よみがえる第二次世界大戦~カラー化された白黒フィルム~』(フランスドのドキュメンタリー、2009年)、『花燃ゆ』(2015年)、『ウルトラマンジード』『仮面ライダービルド』、NHKスペシャル『人体 神秘の巨大ネットワーク』(いずれも2017年)、『まんぷく』(2018年)、NHKスペシャル『未解決事件』(2011~2020年)『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023年)、などがある。http://www.kenjikawai.com/
※インタビュー日:2024年9月25日
※URLは2024年12月10日にリンクを確認済み