音を極める――メディア芸術の音を創造した人々 第6回 作曲家・鷺巣詩郎[中編]

不破 了三

作曲家・編曲家として多くの作品を手掛けている鷺巣詩郎氏。前編では、アニメーション・特撮制作会社「ピー・プロダクション」の御曹司として育ちつつ音楽の道に進み、21歳でデビューをするまでを中心にうかがいました。中編では、アニメ音楽や劇伴をはじめとしてさまざまな分野の作品を手掛けてきた経緯や、庵野秀明との仕事などについて聞いていきます。

連載目次

「エヴァンゲリオン」シリーズ、『シン・ゴジラ』(2016年)など、数々の庵野秀明監督作品の音楽を担当

月間30曲で走り続けた日々

――アニメ音楽との関わりは、映画『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』(1982年/総監督:富野喜幸)の主題歌「めぐりあい」のアレンジ担当が最初でしょうか?

鷺巣 そうです。作曲して歌った井上大輔さん1とは同じ事務所だったことがあり、井上さんのステージアレンジをしたり、バックバンドとして前座もやらせていただいたり、とにかくとてもお世話になっていました。私が別な事務所に移ってからも、いつも井上さんは電話してきて「俺の新曲もアレンジしてよ」とか、かわいがってもらいました。アニメ主題歌だとは知らず、現場で富野喜幸(現:由悠季)さんと井上さんが大学の同期であることも含めて、初めていろいろ聞きました。もちろん私は父との関係もありアニメーションや特撮に対する色眼鏡のようなものはあろうはずはなく、ただただ本当に楽しい仕事でした。自分から「じつは実家がピープロで」なんて口が裂けても言いません。仕事場で自分語りはしませんでしたから……ずいぶんあとにウィキペディアで知られるようになりましたが。

その頃レコーディングセッションは10時、13時、19時、22時にスタートすることが多く……まぁ業界最盛期ですよね。「めぐりあい」も22時からのセッションでしたが、遅刻しちゃったんですよ。アリスを活動休止した矢沢透と、のちに八神純子と結婚するジョン・スタンレーと結成した新グループ「BLEND」の発表記者会見がちょうどその日だったんですけど、思いのほか長引いちゃって。携帯もないし、連絡もできないまま22時20分にスタジオに着いて。そしたら当たり前ですけど、コントロールルームに怖い顔のおじさんたちが並んでるわけですよ。富野さんには「一番の若造に待たされてさ……」とか、あとでさんざんイヤミを言われました(笑)。

映画『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』の主題歌「めぐりあい」のシングルレコード

――80年代中頃からは、ご自身のプロジェクトはもちろん、アイドルソングやJ-POP、アニメソングや劇伴のお仕事などで八面六臂の活躍をされていくわけですが、特に映画・テレビ・アニメなどの映像音楽分野で印象に残っているお仕事はありますか?

鷺巣 うーん何でしょうね。もうとにかく仕事量ばかり多くて。先ほど話した4部制セッションで毎日都内のいろんなスタジオを回っていて、毎月なんと月産30曲で突っ走りつづけました。なので個別の作品を振り返っている時間なんて到底ありませんよ。請求書を書く時間さえないし、こういう仕事もやったと事務所に追加報告する時間もなかったぐらいで、ずいぶん経ってから「あ、あの仕事のギャラ貰ってない」って気づいたりしてね。手がけた作品の見本盤を貰う時間さえありませんから、申し訳ないんですが思い出深いとか、印象に残っている作品とか……本当に思い浮かばないんです。

ただ、レコーディングしたスタジオとか、参加ミュージシャンとか、そういうことはすべて鮮明に覚えています。だって本当にそれしかやってなかったから(笑)。一つだけ言えるのは、それだけ量をこなしていながら、自分で言うのもなんですけど、どれも本当によくできていると思うんですよ。自信作として何か1曲を挙げることはできませんが、当時関わった作品は全部が全部、今でも胸を張れるものばかりです。

庵野秀明との出会い

――鷺巣さんのアニメ・特撮音楽というと、長いお付き合いになる庵野秀明さん関連作品の音楽の存在がやはり大きいと思いますが、庵野さんとのそもそもの出会いは、どのようなものだったのでしょうか?

鷺巣 OVA『メガゾーン23』(1985年/監督:石黒昇)で音楽担当の私と、原画で参加の庵野カントク……あ、どうしてもカントクって呼んじゃうんですけど(笑)。庵野秀明とは同じ作品に関わりましたが、もちろん直接は会っていません。本格的にタッグを組んだのはNHKのアニメ『ふしぎの海のナディア』(1990~1991年)です。その縁組みの発端となったのは、先ほどお話しした『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』のキングレコード担当ディレクターだった藤田純二です。キングレコードのアニメ専門レーベル「スターチャイルド」初期のプロデューサーでもあり、アニメ音楽のメディアミックス手法を確立させた方でもあります。主題歌を戦略的に何度も刷新したり、意図的に声優さんに挿入歌を歌わせて発売したり、関連イメージソングや企画盤もどんどんつくったり、そうしたアニソン・イベントを絶えず供給する手法を確立して、要はアニメ音楽ビジネスを大きく発展させたんですね。キングから独立して東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)傘下にアニメ専門レーベル「ユーメックス」を設立して、私が音楽を担当した『きまぐれオレンジ☆ロード』(1987~1988年)でご一緒しました。藤田さんとはおもしろい試みをたくさんやりましたね。『きまぐれオレンジ☆ロード』は東宝音楽出版(現:東宝ミュージック)の仕事でもあったので、東宝音楽出版、ユーメックスが参加する次回作の音楽を担当してほしいとの依頼が来たんです。それが、庵野秀明総監督の『ふしぎの海のナディア』だったのです。それまでの流れと、まわりのお膳立てがあったからこそ私とカントクは出会えたわけですね。

庵野秀明監督作品のなかで、初めて劇伴を担当した『ふしぎの海のナディア』のサウンドトラックCD

――アニメーション「エヴァンゲリオン」シリーズ、映画『シン・ゴジラ』(2016年)、『シン・ウルトラマン』(2022年/監督:樋口真嗣、総監修・企画・脚本・選曲:庵野秀明)などのお仕事を通じて、庵野秀明さんの音楽制作の進め方として、何か特徴的な点はありますか?

鷺巣 日本では普通、アニメや映画のスタッフのなかに、音楽のメニューをつくって作曲家に発注したり、効果音や音楽の付け場所を決めて選曲したり、場合によっては声優さんのアフレコ現場を仕切ったりする音響監督という立場の方がいて、監督や制作陣と、作曲家や音効(音響効果)さんのあいだに立って交通整理をします。ところが、庵野作品にはそういう役割のスタッフがいません。ご自身がその役割も担ってしまっているからです。これは『ふしぎの海のナディア』から『シン・ウルトラマン』まで何一つ変わっていません。世界を見渡してもほかにあまりない「シンプルさ」だと思います。例えばハリウッドではさらに職域が細分化されていて、音楽、効果音、現実音、セリフなどそれぞれの交通整理だけをやる責任者が個別に何十人も存在します。

庵野組の直管体制のメリットはめちゃ大きいです。映像作家と音楽作家は、直接話してイメージを伝え合うのが良いに決まっていますから。大掛かりな作品になればなるほどスタッフは大所帯になりがちで、滞りなく進めようとすればするほど伝言ゲームのような状況に陥ってしまうものです。そうなると監督や演出家、脚本家が本当にやりたいことが音楽家のペン先にまでストレートに届かなくなってしまうんです。私たち音楽家のペン先に宿るものは、やはり監督の頭のなかで鳴っている音楽でなくてはならないと思っています。その伝達経路を可能な限り短距離に抑えることが、作品の理想でもあるはずです。

――「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの、特に『:Q』(2012年)や『シン・』(2021年)などの近作では、あらかじめつくられたメニューに基づいて音楽をつくるのではなく、鷺巣さんと庵野さんがイメージをやり取りしながら音楽をつくり溜め、最終的に作品上に当てはめ、組み立てていくような特殊な制作スタイルになっているように思いますが……。

鷺巣 たしかに特別必要なもの以外の音楽メニューを書かなくなり、すべての音楽を短期レコーディングするような形式ではなくなり、できた音楽を順ぐりに投げて、やりとりを重ねていくかたちに変わってきました。というのも、新劇場版の『:序』(2007年)から『:Q』で5年、『:Q』から『シン・』で9年違うわけで、そのあいだの技術的な進化に合わせて制作方法が変わっていったのも事実です。数ギガバイトもあるレコーディングデータを素早くアップロードできるようになり、ネット上で簡単に受け渡しができるようになったからこそ、こういうやり方に変化できたわけです。そういう意味では、伝達方法から納品方法まですべて変わりました。先ほどからお話ししている、監督の頭のなかから音楽家のペン先への距離をいかに縮めるか、その試行錯誤が技術的な進化に伴ってさらに昇華されていったわけですね。こういう方式を採用するということは短距離を保つことと同時に、監督が納得するまでとことん付き合いますよというこちらの意思表示でもありますし、好んで音響監督を置かない意義を理解・実践することでもあります。

これは庵野作品に限った話ではなく、ポップスの作業でもまったく同じです。アーティストの脳内と自分の作業の距離をいかに縮められるか。そういう意味ではMISIAの脳内を探るのも、庵野カントクの脳内を探るのも、もっとさかのぼると筒美京平2や井上大輔の脳内を探るのも、私にとってすべて同じ作業なんです。この人は今、何をやりたいのか、この人の好きなもの、嫌いなものは何か……そういうことを直感的に理解することが、私にとっての第一義であり、あとは全部副次的なものでしかありません。「自己責任」っていう言葉は大嫌いなんですが、唯一、その言葉が当てはまる文脈があるとすれば、クリエイターにとって「自己満足してこその自己責任」という文脈です。まず自分が満足できなければ、自分の責任下には置かない。よしんば他人を満足させることなどできるはずがない。だからこそ徹底的につくりこむ。もちろん庵野カントクも、この感覚を誰よりしっかりと自分のなかに持っていると思います。

60〜70年代音楽の力強さ

――2022年公開の映画『シン・ウルトラマン』では、オリジナルのテレビ特撮番組『ウルトラマン』(1966〜1967年)の宮内國郎さん3の音楽を取り込むかたちでサウンドトラックを制作する方式となりましたが、鷺巣さんは宮内國郎さんの音楽をどのように感じていらっしゃいますか?

鷺巣 一つは、同じジャズ畑出身の作曲家としてのシンパシーが大きいですね。ただ『ウルトラマン』の主題歌はジュブナイル(少年少女向け)な音楽だということをしっかり意識してつくっている……TBSのゴールデンで放送して、翌日は学校で話題をかっさらい、いかに子どもたちの興奮状態を次週まで維持できるかどうかということ。宮内音楽にはその力がありました。怪獣は出てくるものの、シリアスなSFドラマの性格が強かった『ウルトラQ』(1966年)とは、だいぶ手法を変えてきました。いかに低年齢層向けにするかという課題のもと、主題歌「ウルトラマンの歌」をはじめとした音楽が、その目標に向けて大きく貢献したんです。

もう一つ我々が音楽の本質として見るべき点は『ウルトラQ』『ウルトラマン』の劇伴にジャズの要素、特にモード・ジャズの手法が含まれていること。1959年にマイルス・デイヴィス4がアルバム『カインド・オブ・ブルー』でモード・ジャズという新しい法則を生み出します。それまでのビ・バップやハード・バップの指標は「和音の有機的な変化」でしたが、モード・ジャズの指標は「音列だけの無機的な変化」へと革新されたのです。まさに革命的な発想の転換です。次々とコードチェンジするのではなく、音列を微妙に上下動させることで、アドリブを決定付けていく手法を提唱したわけです。宮内國郎さんはもともとジャズ・トランペッターですからマイルス・デイヴィスの影響は大きいでしょうし、モダンジャズが次々と変革していく様子をリアルタイムで体験してきた世代です。特に『ウルトラマン』の劇伴には、モーダル(モードジャズ風)にリフ(定型フレーズ)を動かしているものがいくつもあります。それまでの日本の劇伴音楽の定番だった、場面の感情をわかりやすく描写するのではなく、一つのモチーフを微妙に上下動させて雰囲気や緊張感をつくり上げていく手法です。我々ジャズに染まった者には、宮内さんがやりたかったことがよくわかって、本当に心に響くんですよ。

『シン・ウルトラマン』でも『ウルトラQ』のメインテーマが最初に流れます。あの印象的なリフはエレキギターが奏でていますが、まだ新しいエレキギターは60年代初頭まで狭い表現力しかなかったんです。その使い方を激変させたのがベンチャーズやビートルズやジミ・ヘンドリックスなどです。彼らの影響が日本にまで及んだ証左の一つが『ウルトラQ』なんです。ギターの演奏表現だけでメインのリフをつかさどるのは、それまでの日本にはない考え方でした。そこに登場した『ウルトラQ』メインテーマがいかに衝撃的だったか……このメインテーマが示した音楽性は、その後の日本の劇伴音楽・劇伴作家に大きな影響を与えています。つまり宮内國郎こそ、エレキギターの持つポテンシャルを格上げしてモダナイズした作家なんですよ。

CD「シン・ウルトラマン音楽集」(キングレコードより発売)付属の縮刷版「ウルトラQテーマ」オリジナルスコア(1965年録音時使用)表紙

ジャズ・ミュージシャンって、演奏や楽器のパラダイムが大きく変わっていくことに対してすごく敏感かつ寛容なんですよね。ロックやヘヴィ・メタル、ヒップホップも変化はしますけど、スタイルが明快なので基本的態度までを変えるわけにはいかない。でも「ジャズに名曲はなく、ただ名演があるのみ」と言われるように、あ、私の名言ですが(笑)。ジャズは音楽的な外見にこだわらず、基本的態度すらどんどん変えていけるんです。トランぺッターである宮内國郎が、ギターでここまで革新的なことをやれるのは、良いジャズ・ミュージシャンがいかに変幻自在な音楽姿勢を持っているかの証明でもあります。『シン・ウルトラマン』の音楽集CDには、そうした思いも込めて、もし宮内さんがEDMをお聴きになったら『ウルトラQ』メインテーマをこんなふうに再演したかったんじゃないかなと私が想像する音楽を、ボーナストラックとして収録しました。

『シン・ゴジラ』のときにも伊福部昭5のスコアと向き合いましたが、宮内スコアのほうがより強くシンパシーを感じました。もしも一緒に話せたら、ジャズ屋どうしのディープで楽しい会話が交わせたんじゃないかな、という感覚もあります。『シン・ウルトラマン』で宮内さんの音楽や背景が手に取るようにわかったので、亡くなられた方ではありますけれども、心のなかで対話をしながら進めていけた、良いインタープレイができた……そんな思い出深い仕事になりました。

――しかし、オリジナルの『ウルトラマン』が放送されていた頃、ご実家のピー・プロダクションでは……。

鷺巣 『ウルトラマン』を放送していたちょうどその頃、ピープロでは『マグマ大使』(1966~1967年)をつくっていました。完全にライバル番組ですよね。かたやこっちは山本直純6。とにかく完成度の高いメロディーがまずありきで、劇伴は状況説明に徹する……そういうわかりやすさで子どもたちをグイグイ引き込んでいく、力のある音楽でした。どちらが良い悪いということではなく、同じ時代、同じ特撮番組でも、音楽によって全体の方向性にまで影響を及ぼしているのがすごいんです。『ウルトラセブン』(1967~1968年)の冬木透7、『マイティジャック』(1968年)の冨田勲8もそうですが、宮内さん、山本さんも含めて皆さん本当に各々の個性が際立っていますよね。これら先生方の音楽は、先ほどの「監督の頭のなかから音楽家のペン先まで」のような話ではなく、完璧に「音楽家のペン先」だけで処理できてしまっている。つまり監督との対話以前に、音楽家の個性と筆力が圧倒的なんですよ。彼らに音楽が委ねられた時点で、作品全体の仕上がりが最高レベルで保証されるようなものです。

監督やプロデューサーと打ち合わせしたんでしょうが、この時代の1回の打ち合わせや、1本の電話は、今と重みが全然違います! デモで何度かやりとりするなんてできない時代ですから、作曲家への委任度の高さは今と比べものになりません。一度依頼したら、もう100%任せるしかないわけで、信頼感も責任感もとてつもなく強かったんだと思います。実際彼らには、その期待に応え、不安をねじ伏せるだけの筆力があったということです。劇伴に限らず、ポップスの世界もそうですけれども、60~70年代音楽の筆舌に尽くしがたい力強さには、そうした背景があると私は思います。庵野監督が60~70年代の劇伴音楽が大好きなのもよくわかります。ちょっと太刀打ちできない何かがある。それが何なのか、みんな頭ではわからないけど身体では感じている。そんな感覚ではないでしょうか。

――ピー・プロダクション社長の鷺巣富雄(うしおそうじ)さんは、マンガ執筆、アニメスタジオ、特撮番組制作を総合的に手掛けられていたわけですが、日本のメディア芸術史のなかでも、マンガ・アニメーション・実写特撮の三分野を股にかけて活動されていたクリエイターは、ほかにいないのではないでしょうか。

鷺巣 そうだと思います。親バカならぬ子バカで言いますけれども、もっともっと評価されても良いはずです!! マンガを書けば大ヒット、アニメでも実写特撮でも両方ゴールデンタイムの大ヒット番組を世に送り出した人物など、ちょっと思い当たりませんよね。父と一緒に仕事をした手塚治虫や円谷英二ですら、そこまではない。海外でもウォルト・ディズニーくらいでしょうか。

幼い頃から家業を手伝ったこともあって、私と父は親子でありながら仲間意識がとても高かったのです。音楽の仕事を始めてもそれは変わりませんでした。今でも自分のスタジオとして使っている元ピープロの建物の2階には父親の書斎がまだ残っていますが、その書斎の隣にアップライトピアノがあります。80年代にアイドル歌手のスコアを書いていた頃はそのピアノを弾いてスコアを書いていました。そのとき書斎では父親が絵を書いたり台本を書いたりしていて、夜中にお腹が空いたときに、ふと台所で会うことがよくありました。私も父親も一晩中仕事をしていましたので。2人別々の道を歩いてはいましたが、仕事に向き合う姿勢は何だか似ていたような気がします。「無冠の帝王」なんていう都合のよい表現もありますけど、これだけマンガ・アニメ・特撮がカルチャーとして評価されるようになった今こそ、父の遺した作品や影響を、もう少し正しく評価してほしいものだと、切に願っています。

脚注

鷺巣詩郎(さぎす・しろう)
1957年、東京都生まれ。本名同じ。1978年、ザ・スクエアのデビュー作に参加して以来、これまで約30年間もの長きにわたり第一線で活躍し続け、驚異的なキャリアを誇る、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。80年代初頭のアイドル歌謡曲時代から、インストゥルメンタル・アーティスト、近年のシンガー・アーティストに至るまで広範囲にわたり何百何千もの楽曲、アーティストを手掛け、加えて、映画、TVなど、あらゆる映像音楽(サウンド・トラック)分野でも活躍。あわせて膨大な数のヒット作品を、絶えず世に送り出している。90年代よりヨーロッパでも活動、パリでのクラブ経営、英仏アーティストの楽曲も手掛ける。また、日本人作曲家として初めて韓国映画の音楽監督も務めた。近年の代表作はMISIA、平井堅、CHEMISTRY、エリーシャ・ラヴァーン、SMAP、ゴスペラーズ、葉加瀬太郎、『エヴァンゲリオン』シリーズ、『MUSA』『CASSHERN』『BLEACH』『進撃の巨人』『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』など。http://www.ro-jam.com/

1 ミュージシャン、作曲家。1941年、東京都生まれ。1963年、「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」に加入(当時は井上忠夫名義)。リード・ヴォーカル、フルート、サックスを担当し、「青い瞳」「ブルー・シャトウ」などで一世を風靡。解散後は作曲家に転身し、フィンガー5「学園天国」(1974年)、シャネルズ「ランナウェイ」(1980年)など数多くのヒット曲を持つ。特撮作品でも『スーパーロボット マッハバロン』(1974年)、『光戦隊マスクマン』(1987年)、『ウルトラマンガイア』(1998年)主題歌などを担当。2000年没。
2 作曲家、編曲家。1940年、東京都生まれ。青山学院大学卒業後、日本グラモフォンに勤務する傍ら、すぎやまこういちに作編曲を師事。1966年に「黄色いレモン」(藤浩一他)で作曲家デビューし、翌年から専業となる。以後、日本歌謡曲史に欠くことのできない作編曲家として活躍。いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年)、尾崎紀世彦「また逢う日まで」(1971年)、ジュディ・オング「魅せられて」(1979年)で日本レコード大賞受賞。鷺巣詩郎は、小泉今日子「なんてったってアイドル」(1985年)など、80年代の多くの筒美作品で編曲を担当している。2020年没。
3 作曲家。1932年、東京都生まれ。国立音楽大学附属高等学校に入学し、トランペット奏者を志したが、のちに作曲家志望に転じ、服部正らの指導を受ける。作曲家としてニッポン放送、フジテレビ等の放送用音楽の制作を担当していたが、フジテレビに勤務していた円谷皐の勧めで円谷プロ作品に参加。『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』(いずれも1966年)、『ザ☆ウルトラマン』(1979年)などの音楽を担当。2006年没。
4 ジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家。1926年、アメリカ・イリノイ州生まれ。高校在学中にセントルイスのクラブに出演するようになり、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらとの共演を経て、1947年に初のリーダー・セッションを行う。以降、ビ・バップ、クールジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、ジャズファンク、ヒップホップ・ジャズ等、時代を先取りした演奏スタイルを次々と提示し、イノベーターとしてジャズ界を牽引する。1991年没。
5 作曲家。1914年、北海道生まれ。12歳でヴァイオリンを始め、のちに作曲活動も独学で開始。1935年「日本狂詩曲」でデビュー。日本の民族性を追求した土俗的な力強さを持つ多くの作品を作曲する。戦後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)作曲科講師に就任。また、映画音楽にも手を広げ、東宝映画『銀嶺の果て』(1947年)を皮切りに、『ゴジラ』(1954年)、『ビルマの竪琴』(1956年)、『座頭市物語』(1962年)などを担当している。2006年没。
6 作曲家。1932年、東京都生まれ。作曲家の父・山本直忠から幼い頃より音楽教育を受ける。1952年に東京芸術大学作曲科に入学し、池内友次郎に師事。大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、映画「男はつらいよ」シリーズなどクラシックとポピュラーの垣根を越えた幅広い作曲活動を行う。TBSのテレビ番組「オーケストラがやって来た」(1972~1983年)の企画・音楽監督・総合司会者としてもお茶の間によく知られていた。2002年没。
7 作曲家。1935年、満洲国新京生まれ。広島県のエリザベト短期大学作曲科に入学し、宗教音楽専攻科を修了。卒業後ラジオ東京(現:TBS)へ入社して効果を担当しつつ、国立音楽大学作曲科に編入する。KRテレビ(現:TBS)『鞍馬天狗』(1956)にて冬木透名義でテレビ音楽デビュー。『ウルトラセブン』(1967年)より円谷プロの特撮作品に数多く参加し、その音楽イメージを代表する作曲家となる。
8 作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。1932年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部在学中より作曲家として活動を始め、NHKのテレビ番組「新日本紀行」「きょうの料理」などのテーマ音楽、東映動画の劇場用作品、手塚治虫原作のTVアニメ作品などを手掛ける一方、1970年代からはシンセサイザーと多重録音による音楽制作に傾倒。その第1作目のアルバム『月の光』(1974年)は米RCAレコードから発売され、グラミー賞にノミネートされるなど国際的にも高い評価を得ている。2016年没。

※インタビュー日:2022年7月4日
※URLは2023年2月1日にリンクを確認済み

第5回 作曲家・鷺巣詩郎[前編]
第7回 作曲家・鷺巣詩郎[後編]

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