音を極める――メディア芸術の音を創造した人々 第8回 作曲家、プロデューサー・菅野よう子[前編]

不破 了三

アニメ・特撮・ゲームなどのメディア芸術の世界における「音」の表現を切り拓いてきたクリエイターにお話をうかがうインタビュー連載「音を極める――メディア芸術の音を創造した人々」。今回は「アニメ音楽に対する世の中の評価は、彼女の登場から変わった」と多くの人が口を揃えて語る、作曲家兼プロデューサーの菅野よう子氏です。まずは菅野氏ならではの楽曲制作方法から、学生時代の音楽活動、ゲームやCMへ楽曲提供してきた経緯をお話しいただきました。

連載目次

菅野よう子氏 © 2013 Meow on the Bridge, photo by Maki Umaba

楽曲制作への取り組み方

――最近のお仕事の様子はいかがでしょうか。

菅野 Netflixでの『Cowboy Bebop』(2021年)、『舞妓さんちのまかないさん』(2023年)など、ネット配信の実写ドラマへの音楽提供が続いていますけど、意図して配信ものを選んでいるわけではないです。そもそもプロジェクトの始まりが5年くらい前なので、その頃はネット配信が来るぞ!なんて全然思っていませんでしたし。つくっているうちに、「配信のほうが新しいことやりたがってるかも?」と世の中の風向きが変わってきたような感じですね。私自身も、基本的に呼んでくれる方向に流れていく性格なので(笑)。

Netflixでの実写ドラマ盤『Cowboy Bebop』(2021年)のサウンドトラックCD『Cowboy Bebop Soundtrack from the Netflix Series -Extended』

――実写ドラマ音楽と、アニメ、ゲーム音楽とで、つくり方の違いなどは意識されているんでしょうか?

菅野 それ、いつも聞かれるんですけど、私の側から、ドラマだから、アニメだからという意識でアプローチを変えることはないですね。これはアーティストさんへの楽曲提供の場合も同じです。それぞれの作風やターゲット層、先方からの希望や、規定の秒数に収める決まりなどでつくり方は変えますが、それは提示されたら誰もがそのなかでやらなきゃいけないこと。大事なのは、何をイメージして、どう仕上げるかのような、つくり方の核というか、本質の部分じゃないでしょうか。結局は自分の中の問題ですよね。

――菅野さんはキャリアの初期の頃からCM音楽制作の経験を積まれていて、規定や仕様のなかでつくった音楽を締切までに納品する……という、いわゆるアーティストとは違う、職業作曲家ならでは仕事観がベースにあると思うんですが、初期の頃と今とで、仕事の仕方や感覚に何か違いはありますか?

菅野 子どもの頃から作曲はしていましたけど、もちろん締切なんかありませんし、誰が聴いて、どう思うかも考えないし、つくりたいと思ったから自由につくって、発表することもあればしないこともある……もともとはそういう感覚でした。吹奏楽部に入っていた中学・高校の頃は、演奏してみたいと思う曲がなかなかなかったので、自分で勝手にアレンジして、仲間に譜面を配ったりもしていましたね。作曲にしろ、編曲にしろ、仕事とは違う感覚で、頭の中にある音のイメージを自由にアウトプットすることはいろいろと経験してきました。その後、音楽の仕事をするようになっていくので、趣味の世界と仕事の世界を合わせて、プロの音楽づくりを現場で覚えてきたつもりです。

そのなかで、昔と今とで何か違いがあるとすれば、締切を守りながらどのくらいまで作品を深めるかの見極め方は、ずいぶん変わりましたね。若い頃は、例えば暗めなCMで短調の音楽を使うべきではないみたいな「べき論」が強くて、ちょっと頭でっかちになっている部分がありました。締切厳守で、曲も良くて、商品が売れなきゃ……と、大事なことは同列に並んでるはずなのに、自分で勝手に順序をつけて、締切こそが第一と思い込んだりとか。そういうバランス感覚を欠いていた時期にいろいろと失敗も経験してきました。なので締切は当然守りますが、それが至上主義ではなくなったというか、多少締切を過ぎてでも、自分で超えなきゃいけない線は守る……ぐらいの感じに変わったと思います。それはキャリアを重ねてきての余裕というよりも、自分や人の無駄な苦労や間違いを見て学んだ部分が強いんだと思います。

作曲って、つくろうと思えばいくらでもできるんですよ。特にしっかり勉強してきた人は。だから逆に、手を抜いて書こうと思えばできちゃうんです。例えば山についての曲を書いてくださいと発注があったら、正直、「はいはい、こんな感じでしょ?」くらいの気持ちでもできちゃいます。でも、誰かがそれを聴いたときに、「あれ、この人、ナメてる?」「この人なんか本気で表現に取り組んでないな?」ってわかっちゃうんです。それは音楽のプロにはバレるだけではなくて、視聴者の方にも伝わります。どんなに素晴らしい技術を使っていても、「ナメとんな、こいつ……」って、一秒で見抜かれますよ。そういう作品に出合ったときに、自分の作品を振り返って「これはヤバい!」と感じて、直す。その繰り返しですね。

これってすごく難しくて、時間をかければいいとか、深く悩めばいいとか、そういう話でもないんですよね。自分の本当にやりたいことじゃなくて、何か、そこらへんの空中に浮いている、とりあえずの正解を掴もうとする、「こんなもんでしょ?」みたいな感覚。若いときはどうしてもそれが出てくるんですが、今は抑えられるようになってきてる……はずです(笑)。

幼少期から中学・高校時代までの音楽との関わり

――今もお話に出ましたが、幼い頃の菅野さんと音楽との出合いについてお聞かせください。

菅野 3歳ぐらいで初めてピアノを見たときに、そばから離れなくて親を困らせたようです。で、ピアノを買ってもらったのはいいんですけど、うちは親が厳しくて、大きな声を出したり、生の感情を表に出したりするのは恥ずかしいことだと教えられてきたんですよ。まだ日本語もちゃんと話せない3、4歳の子でも、アイスを食べたときに、「これ冷たくておいしい!」って、ちゃんと思ってるんですよね。でも、それを言っちゃいけないわけ。だから、その代わりにピアノに向かったり、歌ったりしていたんだと思います。何かを表現するときに、言葉よりも音楽や音のほうが楽だったんですよね。

それは今も一緒なんです。日本語(言語)ってすごく解像度が粗いっていうか。例えばこのお茶を「おいしい」と言っても、喉が渇いてるからおいしいのか、出してくれた人に気を遣っておいしいって言ってるのか、わからないですよね。せめて「お~いしい……」みたいな強弱とニュアンスでしか、裏にあるさまざまなパラメータを表現できない。でも、音楽だったら、おいしいんだけどもうちょっと甘いほうがいいなとか、そういえば昨日も飲んだなとか、もっといっぱい欲しいな……なんていう気分を1秒のなかで表現できる気がするんです。だから私にはむしろ、そのほうが解像度が高いし、とても楽。なので勉強して、経験を積んで作曲できるようになりました……のような意識はまったくないんです。音によって感情を表現するほうが自分に合っていたし、楽だし、感情の発露を禁じられているから、それしかなかった、という感覚ですね。

テレビもNHKの7時のニュースしか見せてもらえないし、とにかく家には流行りの音楽がありませんでした。ただ、キリスト教の教会の幼稚園に通っていたので、賛美歌をよく歌っていて、すごく好きでした。なんて美しい曲だろうって。あと、教会の中で歌うと残響が素晴らしいじゃないですか。まるで神様の体内にいて、雨のように音が降ってきて包み込まれるような感覚になったり。あの体感は音の原体験として自分の中にありますね。また自己流で弾いていたピアノですけど、先生より上手かったし譜面も読めたので、よく伴奏をやらされていました。讃美歌の譜面集を先にバーッと見て、好きな曲だけ勝手に弾いたり。その譜面集に、「みだりに神の名を唱えてはいけない」と書いてあったんですよ。幼稚園だから、よく意味もわからなくて、この賛美歌は人前で歌っちゃいけないんだと思い込んで。それでも押し入れに隠れて、ずっと歌っていました。すごい秘密の悪いことをしている気分でしたね(笑)。私は特に宗教は信仰していないんですけど、当時は漠然と神様ってすごいなって思っていました。この人にインスパイアされて、こんなにたくさんの賛美歌ができて、こんなきれいな教会でこんなに大勢に歌ってもらえて。その存在にすごく憧れていたのは確かです。

譜面が読めたって言いましたけど、基本的に讃美歌の譜面って、どんな人でも何となく歌えるようにやさしく書かれているんですよ。だからそれを毎日眺めているうちに、自然に覚えたような感じですね。譜面もピアノも完全に自己流で、一度もちゃんと習ってはいないです。ピアノの指づかいとか、今でも全然めちゃくちゃですよ。

――その延長で自然に作曲もするようになっていくわけですね。1974年、11歳にしてヤマハ主催による自作自演曲コンクール「ジュニア・オリジナル・コンサート」で川上賞(当時のヤマハ音楽振興会理事長賞)を受賞されていますが……。

菅野 小学生向けの作曲コンクールのようなものがいろいろあったんですけど、小学生で作曲してる子なんて、正直そんなにいないじゃないですか。出場者も少ないし、上手い子も多くないから、出場したら受賞しちゃった……みたいなことが何度かありました。だから先ほどの話のように、当時はすごく世の中をナメてましたね。まぁ、だいたいこんなもんでしょ?って。例えば、一時間で8小節分のメロディを書きなさいって課題があったとき、勝手に32小節書いて出しちゃうんです。「こんだけ書けばもうみんなギャフンでしょ」というように。そこはもう、自覚的にナメきってましたね(笑)。だって、その曲がいいとか悪いとか、全然考えていませんでしたし。読書感想文でも、特に感動してなくても大人が喜びそうなそれっぽいことって書けるじゃないですか。あの感覚と同じです。求められてるのは、きっとここだろうなぁって2、3歩先に回って、はいはいこれでしょ?って。そこに自分のクリエイティビティとか、何かの思いとか、そういうものは何も載せないでもできちゃっていたんです。

ただ、それとは別にちゃんと自分がつくりたい世界はあるんですよ。先ほども話したように、例えば海を見て、広いなとかきれいだなと思って、それを言葉にするより曲にしたほうが楽なので、それをつくったりはしてたんです。でもそれと、コンテストのような仕組みの中でつくるものとは、自分の中で完全に分けていましたね。自分のつくりたい世界のほうは、ほとんど発表していません。なんせ感情を表に出すのは恥ずかしいと教育されてきたので(笑)。ただ、仕事をするようになってからの曲に、ちょっとずつこっそり混ぜたりはしていますけど。だから結局、その頃から何にも変わっていないんだと思います。

――中学・高校時代に吹奏楽部に入られて、そこでアレンジのやり方も少しずつ覚えたというお話がありましたが、吹奏楽部に入ろうと思った動機は何だったのでしょうか?

菅野 何でしょうね? いろんな楽器をやってみたい気持ちがまずあったので、オーボエとか、フルートとか、曲によっては出番がなくて、ほかの楽器に持ち替えるパートにあえて入っていましたね。パーカッションやトランペットだと、もうかかり切りになってしまうので。さらに出番がない曲にも、自分のパートを譜面に書き加えて参加したりもしてました。勝手にね(笑)。木管中心ですけど、一通り楽器には触れていましたね。アレンジも楽しいけど、やっぱり演奏のほうが好きでした。特にブラスは音圧もあるし、仲間と合奏することに燃えるんですよ。かっこいいキメを目指して盛り上げていって、じーっと溜めて待って、最後にバチッと決まった!みたいな快感を味わいたくて何度も演奏するような。だから、自分でアレンジするときもそこを中心に考えていて。そもそも当時の吹奏楽の譜面って、そういう工夫があんまりなくてつまらなかったんですよ。最初から最後までずーっと平坦なままとか。だから自分でアレンジするときは、イントロをバーッと聴かせて、その後少し抑えて、普通1回しかない盛り上がりを3回ぐらいつっこむとか……そういう気持ちよくするための工夫っていうのはしますよね。もちろん、演奏する自分が一番気持ちよくなりたいからです。

同じ頃にバレエも習っていました。踊りのための音楽って、体の動かし方と音楽の流れがすごく関係しているじゃないですか。例えば上手なオーケストラだときれいにクルッと回れるけど、下手な伴奏だとドタバタしちゃうとか。踊る側としても、良い音楽だと自然な流れのなかで腕が思わず高く上がってしまうとか。音楽の流れを体感しながら、指とか体の動きに馴染ませる経験をしていたんですよね、この頃。頭の中で自分の曲を流しながら、勝手に自分で踊ったりもしていました。だから、吹奏楽でもバレエでも、「体感派」なんだと思います。頭で理解するより、思わず体が動くような、体に馴染むようなものが好きというか。自分がやりたい音楽は、体が自然に動きだすような、音と体の結びつきが強いものなんだなって思います。

大学での音楽の新たな側面との出合い

――その後、大学に進学されて音楽サークルでの活動が始まっていくとのことですが、その前に、音楽大学に進むという選択はなかったのでしょうか?

菅野 音楽大学に「行け」という周りの圧力や、「来てください」みたいなお申し出もあったんですけど、私、すごい反抗期で、大人や世間の言うことは絶対にやらないって決めていたので、反発心で普通の大学に行きました(笑)。それで大学に入って、たまたま立ち寄った学園祭のようなイベントで、バンドの演奏を見たんですよ。テレビも映画も見ないし、吹奏楽ばかりやっていたので、ギターやベースがいるようなバンドの音楽をそれまで聴いたことがなかったんです。「何だこれは?」って衝撃を受けて、その場でそのサークルに入っちゃいました。それが、ビアガーデンとかでヒット曲を生演奏するバイトをやっているような、そういうバンドのサークルだったんです。私が最初に聴いて衝撃を受けたあの演奏も、別にオリジナルとかじゃなくて、当時のヒット曲のコピー演奏だったと、後に知るわけです。

だからロック研とかジャズ研みたいに、好きなジャンルばかりを好きに演奏するわけじゃなくて、マイケル・ジャクソンとかマドンナとか、当時の最先端のヒット曲を幅広くコピーして、営業として演奏しなきゃいけないわけです。あんまり勝手なことはしたらダメで、例えば間奏のギターソロも、ちゃんとコピーしなきゃいけない。それなのに先輩たち、みんな耳コピできないんですよ。だから耳コピして譜面に起こす役割が回ってきました。私、できたので(笑)。仕方なく、ドラムも、ベースラインも、ギターのアドリブも全部コピーして、ベースがこう動いてるなとか、このベースはピックベース、これはフレットレスだなとか、ギターが3本重なっていて左右と真ん中に分かれてるぞとか、でもウチはギターが二人しかいないから、これをこっちに分けて……と自分たち用のアレンジ譜に落とし込んで、「先輩お願いしま~す」なんて言って提出しながら、自分もキーボードを弾くわけです(笑)。でもそのうち、ベースってこんなことしてるのか、とか、ドラムのキメってこんなふうなんだって、サウンドの構造が見えてきて。それを100曲くらい続けているうちに、ヒット曲の仕組みのようなものを図らずも覚えちゃったわけです。パッと聴き、こう弾いてるとしか思えないのが、よくよく聴くと後ろになんかうっすら流れてる?みたいな、裏の秘密がたくさんあるのがわかってくるんです。

――大学進学とほぼ同時にヒット曲やバンドサウンドを知ったばかりだというのに、恐るべき進化速度ですね……。

菅野 ところが、何か違うんですよね。譜面どおりに弾いているのに同じにならない。気持ちよくない。何が違うんだろう?と思って、ここで「グルーヴ」の問題に突き当たるんです。そもそもグルーヴの概念が私の中になかったので理解するのは大変でした。ドラムがドッターン、ドッターンってやってるけど、ターンの部分がちょっとだけ遅いとか、ここの「ド」だけちょっと弱いとか。ピアノでもペーンペーンペーンって弾いてるけど、2個目だけわずかに小さいとか、そういう個々の音の、ちょっとしたアタックの強弱の違いとか、ハシリ/モタリとかの、どうしたって譜面には書き込めない世界の中で、音楽の気持ちよさがつくられているんだって、なんとなくわかってくるんですよね。

そんな秘密があったなんて、もう世界がひっくり返ったような経験ですよ。クラシックにはそういう概念がないですし、讃美歌にはあるわけもない。中高のブラスバンドのときは、「気持ちいいのとそうじゃないのがある」という体感はありました。でも、ヒットするポップスって1小節ごとのなかにグルーヴがあるじゃないですか。もうメロディなんかなくても、そういうリズムだけで十分気持ちいいという感覚はなかったので。二次元が三次元になったような、それはもうびっくりするような発見ですよね。もともと体にあるというか、筋肉の動きとかダンスとか、民族的な音楽の成り立ちから生まれるものなので、外国の音楽をかっこよくやろうと思ったときに、その感覚が自分の中にない事実に直面するんですよ。「あっ、持ってない!」って(笑)。

これは勉強とか経験ですぐ身につくものでもないですし、形だけ真似しても、これがまたちょっと何か違うわけで。以前、ニューオーリンズを旅したとき、10人ぐらいのファミリーがブラスバンドをやっていて、小さい子どもがスネア一つで思わず腰が動いちゃうようなかっこいいリズムをつくっていて、すごい!って思ったんです。後にそれがセカンド・ラインっていう、死者を見送るための葬送パレードの音楽だと知るんですよ。私が感じたような、踊るための音楽じゃなかったんですよね。そうなると、「あれ、もしかして、そもそもルーツ違くね?」って感じですよね。お葬式の音楽がこんなに陽気なんて。しかも死んだ人を送るんだけど送りたくない、何かを引きずるような情緒と一緒でないと、本当のグルーヴにならない。形だけ真似しても、ソウルが真似できてないっていうか。

――「グルーヴ」の存在への気づきは、誰もが認める菅野さんの音楽のかっこよさの秘密につながる、大きな転機だったのかもしれないですね。

菅野 2003年に『WOLF’S RAIN』というアニメ作品でブラジルでレコーディングをして、ブラジルの国民的な歌手のジョイスさんに参加していただいたんですが、ちょうど録音の日に、彼女のお母さんが亡くなってしまったんですよね。それでも日本から来た私たちのためスタジオにいらしてくださって。バンド仲間が口々に彼女に慰めの言葉をかけているんですけど、そのうちに誰からともなく机を叩いたり足踏みしたりして、サンバというか、ボサノバというか、ブラジル特有のリズムをみんなでつくり始めたんです。慰めの行為なのか、わざわざ慰めようと思ってやってるわけではないのか、それくらい自然発生的に。私、音楽で感情を表現するのはメロディやハーモニーの役割だと思っていて、リズムは感情とは別の、もっとプリミティブなものだと思っていたのに、彼らはリズムのみで感情を、情緒を自然に表現していたわけです。その世界観を私は知らないで音楽をやってきたので、そのときも大きな衝撃を受けましたね。リズムやグルーヴって、あんまり繊細に心に触れると感じていなかったんですけど。本当はメロディやハーモニーと同じように、すごく繊細に心に触る行為だとわかったわけです。グルーヴにもこんなに微妙なタッチの解像度があるんだと気づいて、本当におもしろくて、もっと深堀りしていきたいなと感じましたね。自分は、まだまだだなって。

アニメ『WOLF’S RAIN』(2003年)のサウンドトラックCD『WOLF’S RAIN』

サークル活動から音楽業界へ

――大学時代のお話に戻りますが、そのサークルは、いわゆる趣味的なサークルではなく、かなり営業的というか、仕事と結びついたタイプの音楽サークルだったんですね。

菅野 そうです。たまたまそういうところに入っちゃったみたいです。ただそこが営業的なサークルだったことで、その先の音楽業界につながっていくんですよ。そこの卒業生が各レコード会社に就職していて、そういう先輩からも仕事が来るんです。私の場合、そのタイプの最初の仕事が、おニャン子クラブの中心メンバーが卒業するコンサート「卒業記念 1987 おニャン子クラブSPRINGコンサート “おニャン子Sailing夢工場”」でのキーボード演奏でした。先輩に言われるままに完全にバイト感覚で参加していました。卒業コンサートなんで、みんなが泣いちゃって、なかなか歌が始まらないので、アドリブでずっとイントロを伸ばしていた思い出があります(笑)。すごく楽しかったですよ。

私にとってのレコーディング・デビューにもなったバンド「てつ100%」への参加も、同じような経緯です。サークル内のバンドではなく、先輩から「あさってコンテストに出るのにキーボードがいないから探せ!」って指令が来て、前日にちょこっと練習に参加して、当日にパッと出ただけ。でも、優勝しちゃった(笑)。翌年デビューになるんですけど、担当してもらったのが伊藤八十八さんという有名なソニーのジャズのプロデューサーでした。最初の何枚かは、自分たちの好きなようにアレンジしたものをレコーディングしていたんですけど、なかなか売れなくて。途中で「サウンド・プロデューサーを別に付けなさい」って言われたんだけど、私たちはかなり抵抗しましたね。

でも結局、そういう大人の人が来てアルバムをつくっていく過程を見ながら、こういうふうに調整してサウンドを決めるんだとか、たくさんの曲のなかでプロデューサーが売れそうな曲と判断するのはこれなんだとか、そういうことがちょっとずつわかってくるんですよね。こっちがつくりたい曲と、売れる曲って違うんだなとか、売れるためにこういう工夫をしなきゃいけないんだなとか。そういう「レコーディング術」ですね。バンドでの演奏うんぬんの、その向こう側にある、スタジオ・レコーディングのやり方。今の技術だったら最初から自分でできるけど、当時はそれがないので、録音やミックスは誰かに依頼しなきゃいけないわけで。その勉強はレコーディングの現場に行かないとできなかったわけです。

バンド「てつ100%」のファーストアルバム『てつ100%』(1987年)

――てつ100%での活動とほぼ同じ時期に、光栄(現コーエーテクモゲームス)のパソコンゲーム『三國志』(1985年)、『信長の野望・全国版』(1986年)などで、ゲーム音楽、そして職業作曲家としてのデビューもされていますね。

菅野 これもやはり、「作曲できる人、誰かいない?」みたいな声掛けがあって、光栄の方と会って、20曲つくってください、信長のテーマと、信長落命のテーマと何々です。使える音は二つとリズム一つです……というような説明を受けて、「はい、わかりました」って受けて、譜面を書いて後日渡すという、これも本当にテストの添削バイトと同じ感覚でやっていました。そもそもパソコンのゲームが何かもわかっていないし、プレイしたこともないし、画面の絵もろくに見ていなかったんですけど、今思えば、知らなくてよかったこともあったなぁって思いますね。少ない情報を基に、とにかく自分の中でイメージをふくらませて音楽にしていました。

例えば政略結婚させられるお姫様のテーマがあって、いや、かわいそうでしょと思ってすごい暗い曲を書いたんですよ。でも当時のゲームに、そんな曲使わないんですよね(笑)。だから逆によくある感じにならなかったというか。例えば信長だって別に会ったことないけど、きっとこんな感じの人だろう、粗雑で、豪気で、カリスマ性があって、ナルシストで……みたいな想像を最大限にふくらませて、4小節、8小節のなかに入れ込むような。会ったこともない人、行ったこともない場所を、逆にあんまり調べたりせず、とにかく勝手に想像して、それはそれは楽しく書いていましたね。今思えば、今川義元が何者かくらいは、ちょっと調べようよとか思いますけどね(笑)。ゲーム音楽のお仕事も次々やらせていただきましたけど、自分がゲームをしないので好評だったのかどうかもよくわかっていませんでした。でも、ある日、すぎやまこういち先生に、「君、なかなかいいね」というような声をかけられて、日本作編曲家協会に入りなさいって誘っていただいたんです。職業作曲家とちゃんと言えるようになったのは、そこからですね。

パソコンゲーム『三國志』(1985年)、『信長の野望・全国版』(1986年)のゲーム音楽を豪華編成で再演奏したCD『信長の野望・全国版/三國志サウンドウェア』(1989年)

――次の転換点になるのが、CM音楽への進出だと思いますが、これはどのような経緯で?

菅野 やっぱりこれも、作曲家を探している人のところに、たぶんゲーム音楽のデモが渡って、「ちょっと来て」と言われて始めたんです。このときは、CM音楽に関してはほかでは仕事をしないという専属契約で、CM音楽の制作会社グランドファンクさんに所属する形にしました。CM音楽は同じジャンルの商品同士の競合というデリケートな部分があるので。グランドファンク代表の金橋豊彦さんは、「この人は気鋭だからちょっと高いですよ」というふうに、私の価値を上げてくださったんですよね。その代わり、しっかりした仕事でお返ししないといけない……そういう育て方をしてくれた恩人です。

CM音楽で学んだことは本当に大きいです。スポンサーさんの希望とか、ディレクターさんの指示とか、最近の流行とか、競合はこういう音楽だとか、とにかくいろんな情報を踏まえなくちゃいけなくて。加えて、自分のやりたい形や思いもあるじゃないですか。そのそれぞれを何%ぐらい抽出して、どういうふうに混ぜてつくるのかがとても複雑なんです。一つのCMのために、大体5個から10個の候補デモをつくるんですけど、ディレクターの指示バージョン、自分が思うバージョン、社長が求めるバージョン……などといくつかつくるわけです。さらに何も考えないでつくったバージョンも絶対1個混ぜておく。すると、間違いなくそれが採用になるんですよ。あとプロデューサーの金橋さんが選ぶ曲も、私が「いや、これちょっと恥ずかしいんで引っ込めたいです」っていう曲ばかり選ばれるんです。いろいろ工夫してかっこよくつくったつもりの曲は、まず選ばれない。

それを経験してみて、あ、私の場合、頭で考える、あるいは理性を通してつくったものって、「惹かれない」何かがあるんだなと思うようになりました。「体感派」の話にも通じますけど、何かの計算が見えたり、単純に要望に応えたのが見え見えだったりするのはダメなんです。「あなた、遅めのバラードにしてくださいって言いましたよね? はい、これ」みたいな曲。先ほどお話しした「ナメてるのが伝わっちゃう」ってことです(笑)。でもこれは本当にやってみないと経験できないことです。もちろん、私の場合たまたまそういう傾向だというだけで、すべてに通じる鉄則ではないですけどね。自分自身の仕事を通じての体感です。

菅野 よう子(かんの・ようこ)
作詞・作編曲家、音楽プロデューサー。映画、ドラマ、CM、アニメ、ゲーム音楽をはじめ、さまざまなアーティストへの楽曲提供、プロデュースワークを手掛ける。劇伴を手掛けたアニメの代表作は、『カウボーイビバップ』(1998年、第13回日本ゴールドディスク大賞)、『創聖のアクエリオン』(2005年、2008年度JASRAC賞銀賞)、『マクロスF』(2008年)、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(2002年)。映画では『海街diary』(2015年、第39回日本アカデミー賞優秀音楽賞)、テレビではNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』(2017年)など。ほかに東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」を作曲し、多数の別アレンジを制作。令和元年には、天皇陛下御即位奉祝曲「Ray of Water」を手掛け皇居前で天皇皇后両陛下に献奏。直近では、Netflix版『Cowboy Bebop』(2021年)、『舞妓さんちのまかないさん』(2023年)の音楽を制作。https://yokokanno.ch/

※インタビュー日:2023年8月20日
※URLは2023年9月14日にリンクを確認済み

第9回 作曲家、プロデューサー・菅野よう子[後編]

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