塚田 優
『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』は「セカイ系」をキーワードとした評論同人誌を発刊する、編集者・ライターの北出栞氏の初めての単著。近年ヒットした劇場アニメーション、人気のスマートフォンゲーム、ミュージックビデオ、現代アートなど、2000年代から2020年代までを中心に多様な作品を引き合いに出し、「セカイ系」を再解釈しています。本書を通じて北出氏は何を探求していたのか、その足跡を追います。
2010年代半ばに活動を開始し、20年代に入り「セカイ系」コンテンツの批評で注目を集めた北出栞。初の単著『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』は、これまでセカイ系として語られた作品群をデジタルテクノロジーやメディア環境との関連を踏まえながら再解釈し、かつ現在進行形のさまざまな動向に対してセカイ系をキーワードに批評的な言及を試みた著作である。
セカイ系とは、オタク文化にカテゴライズされるコンテンツの語りにおいて、00年代に定着した言葉である。その特徴として「少年と少女の恋愛が世界の運命に直結」し、「少女のみが戦い、少年は戦場から疎外」され、「社会の描写が排除」されているという説明がなされることが多い1。しかしこの定義はもともと個人のウェブサイトから生まれたものであり、セカイ系作品にある登場人物の自分語りは揶揄の対象にもなっていた。だがその一方で00年代中ごろに東浩紀や斎藤環、宇野常寛らが繰り返し言及することで、この言葉は当時のカルチャーを読み解く重要な概念として定着する。
こうした流行から15年以上が経過しようとしている2024年の現在において、北出はそれでも途切れることなく紡がれてきたセカイ系的な感性をリミックスする。以下では書籍の内容を要約しながら、北出が大きな関心を寄せているにも関わらず、セカイ系との微妙な距離感のために断片的な言及にとどまっているBUMP OF CHICKENについて結論部で取り上げることで、著者の思想のポテンシャルについて考えてみようと思う。
そもそもセカイ系とは、ライトノベルやアニメといった表現のドラマツルギーについて説明するために繰り返し使用された言葉だった。しかしその一方で、セカイ系と呼ばれる作品は必ずしも先述の定義にあてはまるものではなく、そのジャンル区分はあいまいなままだった。実際、セカイ系という言葉が浸透していく発端となった「ぷるにえブックマーク」の元管理人も2021年のSNS上の投稿で「理解が難しいのは、セカイ系というのが単純に話のジャンルを指してるだけではないということです。テーマでありストーリーでありキャラであり設定であり、そういった諸々から醸し出される独特の『っぽさ』がセカイ系2」であると述べている。
幾度となく口にされ、それゆえ恣意的にも使われてきたセカイ系というジャーゴン。そのポテンシャルを物語表現に限定せず再提示することが北出の挑戦であり、それはこれまで狭義には文芸的なムーブメントとして認識されていたセカイ系の更新でもある。それが同書の特色に他ならないのであるが、1章である「セカイは今、どこにあるのか」はその基本的なアプローチが示されつつ主張が展開されているため、詳しく紹介しておこう。
同章でポイントとして挙げられているのは、デジタルメディアである。「〈セカイ系〉という言葉が生まれた1990年代末から2000年代初頭は、PCやインターネットが一般家庭に大きく普及した時期3」であり、北出は「〈セカイ系〉の『っぽさ』を、当時のデジタルテクノロジーの中に宿っていた独特の感覚を指すものだと定義したい4」と述べる。そこで参照されるのは、新海誠監督『ほしのこえ』(2002年)だ。同作は新海がほぼ一人で制作した短編アニメーションであり、制作のためのPCや宣伝のためのウェブサイト含め、デジタルテクノロジーなしには成立しなかった作品である。しかしそれと同時に、劇中で描かれる恋人同士のメールのやり取りが「離れた場所にいる相手の言葉を『近く』に引き寄せるにもかかわらず、心理的な距離はかえって『遠く』なってしまったように感じられる5」ことに北出は注目し、次のように続ける。
〈セカイ系〉に今目を向けることの意味は、デジタルテクノロジーが本来的に備えていたはずの、「距離」と「世界」に関する逆接を再発見させてくれるところにある。6
現代を生きる私たちに深い関わりを持つデジタルテクノロジー。90年代後半以降インターネットの普及によって変容したさまざまな表現に、北出は自己と他者の間にある距離とそれらを包括する世界の様相を読み取ろうとする。だからこそ同書には、ライトノベルやアニメに限定されない作品群が登場することになるのだが、そこで言及されるのは、岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)といった実写映画や、浜崎あゆみといった歌手である。前者についてはインターネットを通じた交流を「純粋な遠隔通信のメディア7」として論じ、後者についてはその歌詞世界にある二者関係の破綻と孤独の情景について触れ、セカイ系にまつわる男性中心主義的なジェンダーバイアスの修正の必要性にもあわせて言及している。
そして著者は続けてノベルゲーム『CROSS†CHANNEL』(2003年)に触れながら、プレイヤー=主人公という形式を分離させる同作の構造と、東浩紀のいう「ゲーム的リアリズム」を重ね合わせる。これによって北出は論の焦点を形式的な作品分析から鑑賞者/プレイヤーの受容へとスライドさせ、受け手の立ち位置をメタ的で半透明なものと定位する。そしてこうした半透明性は、デジタルテクノロジーによって媒介されるものでもあるとする著者は、80年代にいち早くコンピューターを導入したデザイナー、戸田ツトムや、PCやスマートフォンのGUI(グラフィカルユーザーインターフェイス)についての考察を経ながら、日常的にテクノロジーに触れ「機械としての自我に浸されながらも、人間でありたいと願い、その境界にとどまろうとする」その両義的な感覚を「切なさ」と呼ぶのだ。ここにおいてセカイ系は、一つの受容美学として独自に定式化されるのである。
全8章で構成される同書のボリュームとは不釣り合いではあるが、ここまでやや詳しく1章の議論を確認したのには理由がある。なぜなら北出の想定するセカイ系の枠組みは、その言葉が登場し始めた00年代前半からすでに、ライトノベルやアニメ、ゲームといったオタク文化に親和性が高い領域に限定されず、必ずしも男性優位な美学に支配されているわけではないことが、岩井俊二や浜崎あゆみ、そしてデザイン、メディア論などを通じて主張されているからである。この著作のオリジナリティは、このような言説の再配置、編集によって担保されており、その手際は冒頭の1章に凝縮されている。
超ジャンル的な表現美学としてさまざまな作品に共有されていたセカイ系の「切なさ」であるが、2章以降、同書は「天使界隈」など近年局所的な盛り上がりを見せるムーブメントや、アニメ、コンテンポラリーアート、ボーカロイド、音楽、ファッションなど多様なカルチャーが紹介されていく。
セカイ系の議論にとって避けられないのは、やはり「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズである。なぜなら同シリーズは、セカイ系という枕詞とともに語られることが多い作品だからだ。同書では新劇場版の完結作である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)が中心に語られる。同作ではかつてのテレビシリーズやその流れで制作された劇場版とは違い、キャラクターたちの成熟が描かれたと一般的にいわれているが、著者は終盤にある実写映像の手前に置かれた主人公・碇シンジが砂浜に座り一人佇むシーンを取り上げ、その構図的類似からカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《雲海の上の旅人》(1818年)のようなドイツ・ロマン派の絵画と比較し、その主体性のありようをゲルハルト・リヒターへと敷衍しながら半透明の主体の議論へと接続していく。
その他に新海誠についてもそのミュージックビデオ的感性が取り上げられたり、麻枝准のノベルゲーム『ヘブンバーンズレッド』(2022年)やボーカロイドカルチャーという匿名性が伴った文化が取り上げられる。そしてファッションや音楽にまたがるクラスターを形成している「天使界隈」にセカイ系とも共鳴する「切なさ」を見出したり、新海誠の作品を自身の原体験の一つとして持つアーティスト・布施琳太郎について考察が展開されていく。
しかし同書は、このようにさまざまなコンテンツをセカイ系というテクニカルタームによって手際よく説明しただけのものなのだろうか。もちろんそのような批評的トライアルはゼロ年代批評の系譜を更新として意義のある作業だし、かつ同時代をカッティングエッジな断面として提示することに成功している。だがセカイ系というタームを武器に、著者が本当に探求したかったことは何だったのだろうか。
それを端的にまとめるならば、自己と他者の関わり合いを作品、メディアを通じ問い返し、抽象化することであるといえるだろう。北出は同書で「半透明」というキーワードを梃子に作品内に描かれる他者および世界に対する距離感を、実存として受け止めながら考察している。しかし同書で展開される関係性は「わたしとあなた」が直接的に関係を取り持つものではないことに注意しよう。それを象徴するかのように、米澤柊の装画は特定のキャラクターとしての認識を阻害するような重ね合わせがなされているし、それをさらに推し進めるかのように、川谷康久の装丁はカメラの浅い被写界深度を模したかのような、ぼやけたタイポグラフィが配置されている。
もちろんこうした二者関係を前提とした議論は、同書の結論部に岩井俊二『キリエのうた』(2023年)の劇中歌「キリエ・憐れみの讃歌」が引用されていることからもわかるように、重要なものではある。しかしそれを短絡的に理解してしまうことは、同書のポテンシャルを削ぐことになってしまいかねないように思う。そのことについて最後に考えるために参照したいのは、北出が大きな関心を寄せているにもかかわらず、同書において限定的な言及にとどまっているバンド、BUMP OF CHICKENである。
北出は雑誌『LOCUST』がnote上で展開する音声コンテンツ、ロカストボイスのvol.10(第二回)『BUMP OF CHICKENはサザンロックでセカイ系?』8において、BUMP OF CHICKENの歌詞の特徴として、恋愛を主題としたものが少ないことや、対象が抽象化する傾向について指摘し、それを「茫漠とした時間とか、死後続いていく時間、自分というものがいなくなったあとも続いていく時間」と表現している。そしてそんな傾向が極限に達した最高傑作として、「R.I.P.」(2009年)を挙げる。実際に「R.I.P.」の歌詞を読むと、「居なくなるのなら 居た事を知りたい」や「そこに君が居なかった事 そこに僕が居なかった事 こんな当然を思うだけで 今がこれ程愛しいんだよ 怖いんだよ」といった死後を連想させるようなフレーズが歌われている。そんな同曲の歌詞について、北出は同書でも取り上げているプレイヤー視点という言葉を使いながら、その半透明性を意識した言及を行っている。
ゆえに、北出が二者関係を前提とした表現がほとんどであるセカイ系コンテンツを通じ探求したかったのは、そこにあるメタ構造や、メディア経験を通じその都度位置づけなおされる主体の在り方であり、それは必ずしも「わたし」と「あなた」の出会いに関するものだけではなく、出会えなかったことや、孤独のなかでいかに自己を定位し得るのかといった、可能世界的な問いだったといえるだろう。
こうした理論的な展開の余地に、北出は今後どのようにアプローチを試みるのだろうか。その作業は再び「セカイ系」を通じてなされるのか、それともまた異なるキーワードが浮上してくるのか。新たにしたためられるであろう「手造りの地図」には、果たしてどんな「シルシ」が付けられるのだろうか。
脚注
information
『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』
著者:北出栞
出版社:太田出版
発行年:2024年
https://www.ohtabooks.com/publish/2024/04/19114359.html
※URLは2024年10月28日にリンクを確認済み