構成:竹見 洋一郎
写真:小澤 塁
マンガ分野の2025年から26年春までの動向を振り返る座談会。ジャーナリズムや研究の立場からマンガに関わる有識者3名が挙げたトピックスについて議論していきます。
後半では、戦後80年を迎えた戦争の記憶の継承、マイノリティや不可視化された人々を描く作品の台頭といった潮流を整理します。

——2025年は戦後80年の節目でした。マンガ展示としては「マンガと戦争展2」(京都国際マンガミュージアム)が開催されました。
西原 2015年に戦後70年のタイミングで「マンガと戦争展」が京都国際マンガミュージアムで開催されて、それが今回アップデートされたかたちで、2025年の5月から11月にかけて「マンガと戦争展2」(琉球新報ギャラリー、京都国際マンガミュージアム)が開かれました。京都国際マンガミュージアムに学生たちと一緒に訪問し、同ミュージアム研究員の伊藤遊さんに案内していただいたのですが、この国で起きた戦争のことだけでなく、今海外で起きている戦争に日本に生きる私たちが無縁ではいられないことも含めて、さまざまな切り口で見せていく趣旨とのことでした。戦争にはジェンダーの問題もあるし、前線に出ていなくても生活のなかに戦争の影響が及ぶことは現代でも同じ。戦争を描くうえで多様な見方があることを、あえて一つの答えを出そうとせずに展開していることが印象的でした。新里堅進の作品も、重要な作品としてフィーチャーされ、原画が並べられていました。原画の力もあったと思いますし、リアルなドキュメンタリーや記録映像を見ることとは違う、マンガで人が死んでゆく姿とか悲惨な姿を理解するうえで、マンガというメディアだからこそ伝わるかたちもあるのだと改めて感じました。
三輪 新里作品は10年前の「マンガと戦争展」にも出品されていたとのことですが、2025年に作品集『ソウル・サーチン』(リイド社)が刊行されたことで全国的に話題になって、ランキング企画などにも名前が挙がってくるようになりました。新里は沖縄のローカルの新聞や出版社から作品を多数出していたベテラン作家で、沖縄戦に根づいたモチーフ──戦争以外の沖縄のモチーフも描いている人ですが──が一番大きな根っこにある作家です。もともと藤井誠二が新書1冊分ほどの量の評伝を書いていて、それと評伝の主人公である新里堅進というマンガ家自身の作品のベストセレクションを合わせて、900ページの大部の本にして出すという企画がリイド社で実現したのです。
飯田 沖縄では「沖縄の人が書き(描き)、沖縄の版元が出し、沖縄の人が読む」という地域出版のエコシステムが全国的に見ても珍しいレベルで機能しています。その蓄積があったからこそ、今回の『ソウル・サーチン』が成立したのかなと。
三輪 戦前から戦後にかけての、例えば赤本とか貸本の時代は、関西の中小出版社が重要な役割を果たしたということがマンガ史ではよく触れられますけれど、産業規模が拡大するにつれて、全国に配本される東京の大手出版社中心の流れにどうしてもなっていくのは否めません。だからこそ、今こういう本が出てくることは、マンガというメディアを考え直すきっかけにもなると思います。流通網が一本化した出版のメインストリームとは違う場で、長年活動している人がいるということと、その大切さを改めて教えられました。

西原 現代の日本に暮らす私たちと戦争との距離感でいうと、「マンガと戦争展」が開催された10年前の夏に比べて、今のほうが状況は緊迫していて、戦争が身近に迫っています。現代人にとっての戦争とは何かを恐ろしくリアルに感じられた作品のひとつが、今日マチ子の『おりずる』(2024~2025年)です。広島の原爆投下と東日本大震災に着想を得た作品で、具体的にどの時期であるとは明示されていませんが、おそらく現代を舞台にして戦争と生活の状況が描かれています。新型爆弾が落ちて多くの人が亡くなったなか、「あの日」を生き残った子どもが「奇跡の子」と評され、本人もそれを引き受けて一生懸命努力して誰よりもがんばることが自分の役目だと思って生きていく。そこに、一緒に生き残ったのに先に亡くなった親友への複雑な思いや「あの日」を語り続けることで起きる記憶の変化、SNSを通じて注目を浴びようとする承認欲求の描写などがあり、とても現代日本的な戦争の描き方だと思いました。
「マンガと戦争展2」でも戦争そのものだけでなく、戦時中の人々の日常に焦点を当てたマンガなども紹介されていました。戦争になったときに自分たちはどう生活するのだろうと考えさせられる作品も数多くあって、戦争はまったく過去のことにはならないと強く感じました。

三輪 以前から今日マチ子は、沖縄戦をモチーフにした『cocoon』(2009〜2010年)から始まって、長編作品を書くときは基本的にファンタジー要素を入れた寓話的な描き方をずっとしている作家ですね。逆に、『この世界の片隅に』(2007~2009年)のこうの史代のように、当時の資料までいろいろ調べて描くタイプの作家もいます。どちらも世代的には戦後に生まれているわけですが、そのなかでどう戦争に向き合うかについて、対照的な二つの方法論をとっているといえます。それで言うと、先ほど話題にした新里堅進も、2026年には80歳になられる大ベテランですけど、それでもギリギリ戦後生まれなんですね。戦後80年が経ったというのは、ほとんどの表現者が戦争を直接知らない世代になったことを意味しています。実体験や実感を出発点にして描くことはできないという前提のもとで、それぞれの取り組みがあるわけです。
西原 作家さんによって、戦争を描くうえでのアプローチの仕方はかなり異なりますよね。『線場のひと』(小宮りさ麻吏奈、2023〜2024年)は、単行本上巻が出たのは2024年4月、下巻のほうが25年4月です。第二次世界大戦を生き延びた、親友同士だった若い女性2人が主人公で、彼女たちが生きていくうえで障壁となるジェンダーやセクシュアリティ、人種の問題が描かれています。彼女たちは女学生時代にレズビアン的な親密な関係を築いていて、それを心の支えに生きてきた。しかし戦争が終わっても再会が叶わず、戦後の占領期で若い女性が1人で生きていくのは非常に困難だった。彼女たちはそれぞれ進駐軍の兵士と出会って結婚し、アメリカに渡ります。また、勝者であるはずのアメリカ側の男性の生き方やアイデンティティの困難さも描かれています。「線場」というタイトルからわかるように、名前をつけて区別することのできないセクシュアリティとナショナリティの問題が提起されていて、こういう視点から戦争を描く作品も、本当に興味深いと思います。

——ここで挙げられたようなテーマ性に比重を置いた作品を、若い読者に紹介するときにはどんな勧め方ができるでしょうか。
西原 ぜひ読んでほしい作品はたくさんあって、授業でもなるべく取り上げるようにしているのですが、「この話はあなたにとって役に立つ」とか、「新しい知識が得られるから読んでみて」というような勧め方はうまくいかないと感じます。勧める際の言い方の問題もあると思いますが、本人が自ら読みたい気持ちにならないと届かないのかな、という伝え方の難しさを感じます。
私の場合は絵の紹介から入りますね。例えば、「こういう絵の描き方や表現方法がある」というところから、「同じ題材でも新里の絵の描き方と今日マチ子の絵は違うよね」「あなたが興味を惹かれたものから読んでみて」と、本人に選んでもらうアプローチの仕方を取ると思います。
三輪 また、手に取れる環境が身近にあるかどうかも重要で、昔から学校図書館に『はだしのゲン』(中沢啓治、1973〜1987年)がよく置かれていたことは、それについての論文が書かれているほど、マンガ史的には興味深いテーマです。多様なマンガがあるなかで、このマンガを読ませたいと特定の作品に導くのは難しいですが、学校の図書館にこれしかマンガがないなら、それがどういうマンガでも読む、みたいな人が少なくとも昔は結構いたから、『はだしのゲン』が機能していたともいえます。
西原 文字だけの本ではなくマンガだから、たまたま身近な図書館にあるから読んでみようという気持ちは今もありそうですね。ここまでお話ししてきた戦争からは外れますが、ゼミの学生が大学図書館で楳図かずおを知ってはまって、「今年一番読んでよかったのは『漂流教室』(1972〜1974年)です」と言っていたんです。図書館以外では作品を手に取るきっかけがなかったかもしれない。こういう出合いが図書館の機能としてあると、しみじみ感じました。
飯田 日本は「マンガ大国」と自称しているわりに、図書館の資料費に占めるコミックの割合がアメリカ、フランス、スペインなどと比べて圧倒的に少ないんですよね。文化庁「活字文化のグローバル展開推進事業」の一環として行われた図書館マンガ調査結果発表セミナー(2024年度 https://www.vipo.or.jp/news/45119/、2025年度 https://www.vipo.or.jp/news/52784/)によるとそれらの国では大体資料費全体の10%前後を割いていることが珍しくない。
一方、日本でマンガを積極的に蔵書している公共図書館、例えば福島県の白河市立図書館でも全資料費の3%くらいです。図書館業界人に聞くと、図書館業界内部からの反発を危惧してマンガを入れられない、と。利用者からの反発は実際にはほとんどないのに、身内からの批判を気にしているのが現状です。
マンガ専門図書館はともかく公共図書館や学校図書館がマンガに関するアーカイブ機能、時代時代の重要作品を市民に提供する役割をほとんど果たせていない状況では、マンガの名作はどうすれば読み継がれることが可能なのかと考えざるをえません。
飯田 近代以降の戦争を扱うマンガの系譜として、悲惨さを描き、主人公たちを受苦する存在として位置づけるものはいくらでも見つけられる一方で、ある時期までは当たり前に存在していた松本零士の『戦場まんがシリーズ』(1969~1989年)のような戦記ロマン、兵士や士官、指導者を英雄的に描き、あるいは戦車や戦闘機のような兵器をフェティッシュに、格好のいいものとして描く路線はかなり劣勢ですよね。昔は読者の側にもそういうものが読みたい、見たいという欲望があったわけですが、今や霧散してしまったのか、あるいは「戦争はいけないもの」としか言ってはいけないという社会的な抑圧が強くなり過ぎて作家側が表に出せなくなったのか。
三輪 松本零士の戦争ものには戦場の悲惨さや情けなさが取り入れられた作品も多いですね。それをロマン的な方向に昇華すると『宇宙戦艦ヤマト』(1974〜1975年)になる。だからむしろSFもののなかに、かつての戦記もの的な英雄的戦争像が生きている可能性もある気がします。さらにいうと、マンガよりはアニメなのかもしれない。
飯田 私が気になるのは、「歴史を題材にした戦争マンガで、英雄を描いてはいけない」ではないという点です。戦国時代なら別に問題がない。日清戦争や日露戦争を題材にしたものでも、ギリギリ許容されると思います。
ところが日中戦争、太平洋戦争は「ロマンとして描いてはいけない」という抑圧が強固になっている。例えば戦艦大和建造計画を阻止しようとする数学の天才を主人公とした三田紀房『アルキメデスの大戦』(2015~2023年)では、序盤では不合理な日本の軍隊組織に対して合理主義的に振る舞う主人公の活躍が描かれますが、終盤は駆け足になり、主人公はなんとルーズベルト相手に和平交渉する役回りを演じるもののうまくいかず、急に戦後の話に飛ぶ、といった不思議な終わり方をしていました。その空白からは「『そこ』に触ってはいけない、同じスタンスで入っていってはいけない」という迂回が感じられます。
そう思うと、無邪気な戦記マンガでないからこそ名作とされてきた松本零士の諸作やちばてつやの『紫電改のタカ』(1963〜1965年)でさえも、今同じように第二次世界大戦を舞台にパイロットの活躍を描いて支持されるか、反発を招かないかというと、英雄的なキャラクター造形はなされていますから、微妙な気がします。
新里堅進が戦後生まれという話がありましたが、松本やちば世代は1930年代後半、つまり戦中生まれですが、そういう作家のほうがまだむしろある種のロマンを描けていて、戦争を体験していない世代のほうがはるかに抑制的になっているのは、興味深いところではあります。
——今回皆さんには最近のマンガ作品の傾向を示す作品をお持ちいただいています。テーマとともにご紹介いただけますでしょうか。西原さんはマイノリティを扱った作品を推薦くださっていますね。
西原 藤見よいこ『半分姉弟』(2022年~)、高妍『隙間』(2023~2025年)、トイ・ヨウ『多聞さんのおかしなともだち』(2024~2025年)の3作を持ってきました。
日本語的に言う「ハーフ」と一括りにしてステレオタイプに見ることの暴力性、台湾と沖縄という他者化・周縁化された地域に生きる人々を揺さぶる政治の問題、アロマンティック・アセクシュアル、レズビアンカップルと子どもといった事象を扱っています。言葉や知識としては知っていても自分の身の回りにはいない、自分とは関わりがない……と思いがちな存在を、これらの作品のようにマンガによって伝えてもらうことで、実感をもって意識できるのではないかと感じています。
これ以外にもマイノリティを描く作品として、BL作品で主人公カップルの1人が先天性難聴という『カメレオンはてのひらに恋をする。』(厘てく、2023年~)も挙げたいです。恋愛が主軸でありつつ、手話を通じたコミュニケーションのあり方と相手に伝えたい・知りたいという欲求を描いている。障がいを描くこと自体、BLではまだ珍しい題材ですが、今後の展開がとても楽しみです。


三輪 『隙間』は私も印象に残っています。台湾の女子学生が沖縄に留学してくる話で、台湾と沖縄の戦中・戦後史が作品のバックボーンとなっており、テーマそのものにもなっています。台湾と沖縄が近く――距離的にだけではなく国際情勢のなかで置かれてきた立場としても――見えてきます。
難聴の方やろう者、手話を描いたマンガも、森下suuによる少女マンガの人気作『ゆびさきと恋々』(2019年~)を始めとして、印象に残るものが近年いくつかありますね。最近連載が始まった雪野朝哉による青年マンガ『ローワライ』(2026年~)は一方がろう者の漫才コンビの話で、現実だと会話のテンポ的に再現するのは結構難しそうだけど、マンガだから描けている感じもあっておもしろい。
飯田 言語化問題やマイノリティ表象については、私は昔出版社で小説の編集者をやっていたこともあって「どうやって企画が通ったのか」が気になっています。マンガの連載を決める編集会議、企画会議では、当たり前ですがなんでもかんでも通るわけではありません。おそらく物語冒頭のネームとともに担当編集者が企画のウリをプレゼンするなりしたものを編集部内あるいは上長が可否を判断すると思います。そのときそれこそ編集部内ではどこまで「言語化」して認識し、また判断材料としているのか。
例えば2025年に話題になった『みいちゃんと山田さん』(亜月ねね、2024年~)は、明らかに境界知能を扱った話ですが、作中で直接的にこの語は出てきません。企画段階の制作サイドで境界知能のワードがどう認識されていたのかは気になります。
というのも、「境界知能」であればすでに流通している言葉ですから「ああ、あの話ね」と編集会議でも通じるし、話が早いと思うんですね。
一方で、世の中ではまだ概念化されていない表象、または一般的に流通していないワードで括られるような人たちを題材に描こうとした場合には、「何の話かわからない」とか「マイナーなネタ過ぎて、ウリとして弱い」などと会議で言われて落とされている企画が無数にあるはずです。
商業出版は良くも悪くも編集者、編集部が企画のゲートキーパーとなります。そうすると、実は読者は「わかりやすい」「通じやすい」、あえて言えばある程度以上「既知」のマイノリティ表象しか作品として目にできていないのではないでしょうか。
三輪 『みいちゃんと山田さん』は、ネットなどでも話題を呼びやすい内容なので、作中で特定の言葉をはっきり打ち出さなくても、読者の側から言葉が引き出されていくような構造になっていると思います。でもそのようにネットでバズりやすいわけではない作風のマンガの場合でも、あえてわかりやすく主題を打ち出さないという選択もありますね。例えば作品の題名に注目すると、先ほど話題になった『半分姉弟』は、タイトルだけ見た時点ではいくつかの解釈が思い浮かびますが(半分血のつながった姉弟の話なのかなとか)、どういう意味の「半分」なんだろうと気になって少し調べると、すぐに「ハーフ」の話らしいという情報にたどり着けて、なるほどと思う。タイトルにちょっと違和感を持たせることでフックをつくりつつ、それを過剰に押し出してはいないというスタイルです。一方、『多聞さんのおかしなともだち』になると、タイトルだけでは何の話か全く想像がつかない。そういう意味では、もっと煽情的に売ることもできるけどあえてそうはしていないのだという意志を感じます。個々の作品は、何をどこまでわかりやすくコンセプト化するかという点で、グラデーションのあるさまざまな試みをしているのではないでしょうか。
西原 主題との距離の取り方では、志村貴子『そういう家の子の話』(2024年~)も触れたいです。宗教二世を主人公にしたオムニバス的な作品で、家族のなかでは当たり前として信じてきた神様に、それぞれがどう向き合っているかが描かれています。子どもの頃から信じ続けている宗教をずっと信じる人もいれば、途中でやめる人もいる。宗教二世の問題を解決したり、わかりやすく描いたりしているわけではけっしてない。そこにつくり手の誠実さを感じます。
三輪 西原さんが挙げてくれた作品は、安易に言語化していいのかどうかという問いと格闘しているものが多いですね。言語化しないこと自体がある種作品の価値になっている面もあると思います。
反対に、もっと素直に言語化をしているタイプの作品も近年目立ちます。例えば数年前に大ヒットした吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』(2016~2020年)では、主人公が自分の気持ちを全部口にしてくれることが話題になった。その頃から、過剰に言語化をするタイプの作品のあり方というのが気になっています。
そうした作品のなかでも、阿賀沢紅茶のラブコメ『正反対な君と僕』(2022~24年)は、いい意味で特に印象に残りました。2025年に単行本の最終巻が出て、2026年1月からのクールでアニメ化もされ、この座談会の収録時点でも放映中の作品です。ちょうど同じクールでアニメ化され、高い評判を得ている作品にヤマシタトモコ『異国日記』(2017~2023年)もありますが、この2作についてのSNSでの反応を見ると、「登場人物たちの言語化能力が高くて、言葉にするのが難しい感情を表現してくれているのがよかった」といった趣旨の感想がある一方で、「ここまで人間の感情を合理的に分解して説明可能なものとして描いてしまうのは、物語のあり方としてどうなのか」という批判的な感想も見られたのが印象的でした。
『異国日記』は主人公の1人が小説家でもあり、そういう文脈も含めて言葉が作中で重要視されています。しかし『正反対な君と僕』は普通の高校生たちの話です。それでも内省的に友達との関係のなかで自分が置かれている状況を言語化して「だから俺はこうなんだ」と過剰に考えまくるキャラクターが出てくる。先の「ここまで言葉で説明してしまうのはどうなのか」という批判には、確かに頷ける面もあります。でも、結局どこかに言語化しきれないものがあって、そこがフックになって読者に受けている気がするんですね。『正反対な君と僕』は第1話で早速主人公に彼氏ができて、「彼氏彼女」とか「恋人」とか、わかりやすく言葉にできる関係性を獲得するところから始まります。ところが連載の過程で、サブキャラクターたちのプロットを並行して走らせていくなかで、わかりやすく恋人同士にはならない、つまり名付けられない関係性のままに留まる2人のキャラクターのエピソードに重心を移していく。自分の感情をどこまで深く自己分析できても、人との関係が言語化できるわかりやすいものに落ち着くわけではない、ということが示された着地点です。だから、表面的には言語化が特徴のように見える作品であっても、コンセプト化できる部分と、安易にコンセプト化しないぞという抵抗をしている部分とのバランスの取り方のようなところに、各作品の真の個性が現れているのではないでしょうか。
——最後にマンガのメインストリームをめぐる話題を取り上げます。飯田さんが挙げられたトピックで、電子コミック事業者が、紙のマンガ雑誌が得意としてきた少年マンガや女性マンガに取り組む動きが出ているとのことです。
飯田 電子コミック事業者といっても大きく分ければ制作会社と電子書店(ストア、プラットフォーム)があるわけですが、両者ともに目指している点は共通しています。
前者でいえばウェブトゥーン制作会社として実績を積んできたソラジマが自社オリジナルの縦読み×少年マンガに特化したアプリを2027年春にローンチすると発表しました。ほかにもウェブトゥーン制作をしている、またはしていた制作会社(CP、コンテンツプロバイダ)が次々に、ウェブトゥーンの定型であるアクションファンタジーやロマンスファンタジー、復讐ものなどではなく、日本マンガのような少年マンガ・少女マンガ・女性マンガにも進出し始めています。それも縦読みフルカラーのスタイルだけでなく、日本式の白黒ヨコマンガの場合も少なくありません。
ストア、プラットフォーム側でも、例えば電子コミックでは「LINEマンガ」、「ピッコマ」、「めちゃコミック」、「コミックシーモア」がストアの4強ですが、その一角を占める「めちゃコミック」が、小学館などのマンガ編集部から名の知られた編集者を引き抜き、少年マンガ・少女マンガ・女性マンガを募集する新人賞を立ち上げ、「マンガワン」がやっていたような編集者にフォーカスする動画を始めました。
——きょう話題にあがったPRの手法をすべて盛り込んでいる感じですね。
飯田 「めちゃコミック」にしても「コミックシーモア」にしても自社オリジナルやプラットフォーム独占販売や先行販売で昔からBLやTL(ティーンズラブ)はたくさんつくってきましたが、そうではなくて従来型のマンガ出版社が得意としてきたジャンルへ本格的に進出しようとしているのがポイントです。
これはなぜかというと、一つには年々広告規制が強化されており、性表現を含むマンガのウェブ広告が打ちにくくなっていることがあると思われます。また、こちらのほうがより重要ですが、ウェブトゥーン市場にしろBL、TL市場にしろ、ある程度売れる「勝ちパターン」は決まっていて、それを踏まえてうまくつくれるようになると安定した売上をたたき出せる一方で、売上のアップサイドは限定的だからです。ようは、誰もが知るクラスの大ヒットにはなかなかならない。
しかし投資家は「そこそこ」の売上で満足してくれません。その高い期待に応えて全国的な知名度、全年齢向けのアニメやドラマとして覇権が取れるような企画、グッズが売れるようなキャラクターを兼ね備えたスーパーIPをつくろうとすると、従来型のマンガ出版社が得意とする領域に踏み込まなければ実質的に不可能です。ただ、こちらは「手堅く当てる」ことは難しく、ヒットする割合は下がり、事業のボラティリティ(当たり外れ)が高くなります。
それでもフルカラー縦スクロール作品と比べれば白黒ヨコマンガは1作あたりの制作コストは低いですし、作品制作の地力を付け、キャッシュフローが安定してきたプレイヤーが挑戦するのは自然な流れかなと思います。
ただ、電子書店にはジレンマがあります。競合にない目玉作品を得ようとすると自社ストアのみでの独占配信契約が望ましいわけですが、しかし、独占配信だと世の中全体には広がっていきづらい。マンガの売上を最大化したいなら「どこの本屋でも売っている」状態が理想ですが、独占配信ゆえにそれができません。売場が限られていると人目に触れにくい。これも電子ストア発のオリジナル作品、独占配信作品が大ヒットになりにくい理由のひとつです。
三輪 マンガに限らず、エンタメ産業は大ヒットしたものがあると、その1作でジャンル全体の年間売上を1%くらい簡単に左右できてしまう。当たればそのくらい大きいから、当たるかわからないが当たることを目指すという方向性は当然出てくるわけですね。一方で、裾野をどのくらい底上げできるかという観点もあって、その両輪で成り立っているのがビジネスの構造かと思います。KADOKAWAのBEC(デジタル印刷・物流)も、少部数でもできるものでしたよね。
飯田 KADOKAWAのBECプロジェクトは「売れているタイトルを書店に途切れず供給できるようにすることで、売り逃しを防ぐ」という話ですね。一般的なオフセット印刷では重版が決まってから書店に届くまでに平気で1カ月くらい時間がかかります。しかも重版の最低ロットは採算を考えると一般書なら最低でも1,000部単位で刷らないときびしい。小回りが効かないんですね。
一方、KADOKAWAのBECは所沢にデジタル印刷機と倉庫、発送までの物流機能を一体化した施設をつくり、契約書店がタブレットから注文すると遅くとも翌日までにはクロネコヤマトを使って満数出荷する仕組みになっています。デジタル印刷なので重版の最低ロットも100部単位まで下げられ、これらを導入した結果、返品率がだいぶ下がりました。
ただIR(上場会社の投資家向け資料)を見ると、返品率が下がったといってもKADOKAWAは書籍を年間6,000点くらい、つまり全書籍の10分の1くらいを1社で作っていて、刊行点数があまりにも多い。書店のスペースは有限ですから、KADOKAWA1社だけ見てもどんどん新刊を送り込んでいるせいでお互いの売上を食い合い、返品率を上げている。結局、1点1点を本が出る前からきっちり宣伝しないとそもそも書店は注文してくれません。いくら売れたあとの追送システムを充実させても、1冊も注文が来なければ追加の注文も起こりえない。
KADOKAWAに限らず、マンガ市場が拡大したのはいいのですが、刊行点数は近年増え過ぎています。この状況がクリエイターにとっていいのか悪いのは微妙なところです。作品を商業で発表しやすくなったこと自体はいいのでしょうが、プロモーションが不十分なまま「数打ちゃ当たる」になっていて、「売り方をつくる」「丁寧に売る」ほうが追いついていません。
——出版社の役割も変化し、売り方も違う動き方を求められているわけですね。
飯田 各書店の売上データを追跡できるサービスがいくつかありますが、あるマンガ関係者によると、「CANTERA」1で見る限り、紙のマンガは異世界ジャンルを除くとほとんどが前年比マイナスを続けているなか、グッズ付き特装版カテゴリーは顕著にプラスで伸びている、と。デジタルコミックとグッズ付き特装版は伸び、一般的な紙のマンガ雑誌とコミックス単行本は落ちている。
これもまた、私たちはマンガを読む・買う際に、いったい何を求めているのか、何にならお金を払いたいと感じているのかを改めて考えさせられる話だと思います。
西原 確かに、マンガの売上の減少という話から始まった座談会でしたが、購入したいという気持ち自体はグッズに関しては全然なくなっていない。イベント化の話題ともつながっていて、単行本とグッズが一緒になっているものが売れるのは、まさしくそういうことだろうと思います。マンガが買われる・読まれる環境は今後、プラスアルファの仕掛けをつくることによって設計されるほうへと向かうのか。マンガ家、編集者、出版、流通まで含めた大きなテーマですね。

脚注
[飯田一史氏のトピック解題]
電子コミック事業者の動向
ウェブトゥーン制作会社ソラジマが2027年春にオリジナルの少年マンガアプリ制作を発表、女性向けに強いことで知られる電子コミック書店「めちゃコミック」が自社オリジナルマンガ編集部にて鳥嶋和彦、佐渡島庸平、石橋和章を審査員とするコンテスト(オーディション)を実施するなど、制作会社もストア/プラットフォームもデジタルコミック事業者がウェブトゥーンやBL、TL、成年男性向けではないジャンルへの本格進出を打ち出すケースが相次いでいる。
飯田一史(いいだ・いちし)
ライター、ジャーナリスト、独立研究者。グロービス経営大学院経営学修士課程修了(MBA)。著書に『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社、2023年)、『ウェブ小説30年史』(講談社、2022年)、『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩書房、2020年)、『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの?』(星海社、2018年)など。 インプレス総合研究所『電子書籍ビジネス調査報告書2024』執筆陣 。マンガ関係の共著に藤田和日郎『読者ハ読ムナ(笑)』(小学館、2016年)、週刊少年ジャンプ編集部『描きたい!!を信じる——少年ジャンプがどうしても伝えたいマンガの描き方』(2021年)など。共著論文にIida Ichishi and Scott Ma. 2025. “Japanese Web Novels: Media History, Platform, and Narrative,” Special issue on “Methodologies,” Jacqueline Berndt ed., Mechademia: Second Arc, 17 (2), 2025 がある。
[西原麻里氏のトピック解題]
1 戦後80年 「マンガと戦争展2」(琉球新報ギャラリー、京都国際マンガミュージアム)
沖縄と京都の巡回展として開催された「マンガと戦争展2」。「原爆」「特攻」「満州」といったキーワードで内容が整理され、作家によってさまざまなメッセージの伝え方があることを見せる展示だった。中でも特に沖縄戦に焦点が当てられており、新里堅進作品の力強い原画は鑑賞者に大きなインパクトを与えた。この企画展は戦後80年の節目に開催されたが、皮肉にも世界ではますます戦火が燃え盛り社会情勢が混乱している。戦争は、仕事や学校、食事に衣服に娯楽といった日々の暮らしのすみずみにまで入り込み、誰をも生死の境に追いやる。それは現代日本に生きる私たちにおいても同様である。今こそ見るべき企画展であろう。
2 『半分姉弟』、日本におけるマイノリティや不可視化されてきた人を描く
多様性や共生社会、個性を尊重して自分らしく生きる……という文言はずいぶん聞き慣れたが、一方で日本では今でも「見えない存在」にさせられている人や社会構造と切り離された自己責任論が多い。例えば「ハーフ」というステレオタイプや日本にいるのは「純日本人」だという思い込みは、マイノリティ化される一人ひとりにそれぞれ異なる背景や困難があることを見えなくさせる(藤見よいこ『半分姉弟』)。同性婚成立を目指す台湾の若者たちの運動は、台湾の歴史学・地政学的な問題と根本的なところでつながっている(高妍『隙間』)。社会や人との関係における中心と周縁の問題を描くこれらの作品は、読む者がどの位置にいるかを気づかせてくれる。
西原麻里(にしはら・まり)
マンガ研究、メディア文化研究、ジェンダー・セクシュアリティ研究。跡見学園女子大学文学部現代文化表現学科准教授。同志社大学大学院社会学研究科メディア学専攻博士後期課程単位取得退学、博士(メディア学)。BL(ボーイズラブ)をはじめとする女性向けマンガとメディア文化を研究し、物語表現と文化の形成をメディアの特徴や仕組みから考えたり、メディア表現を通じてジェンダーや性の規範の問題にアプローチしたりしている。著書に『BLマンガの表現史——少年愛からボーイズラブジャンルへ』(青弓社、2025年)、『マンガ文化55のキーワード』(竹内オサムと共編著、ミネルヴァ書房、2016年)、『BLの教科書』(堀あきこ・守如子編著、有斐閣、2020年)など。
[三輪健太朗氏のトピック解題]
1 『ソウル・サーチン』と戦後80年
戦後80年を迎えた2025年、リイド社から刊行された『ソウル・サーチン』は、マンガ出版における事件と呼ぶにふさわしい一冊となった。戦争を主要な題材の一つとして沖縄で長年マンガを描き続けている新里堅進(1946〜)について藤井誠二が執筆した評伝と、新里自身の作品の抜粋とを合わせて編まれた900ページ超の大著であり、マンガファンの間で話題を呼んだ。2025年はほかに、沖縄と台湾の戦後史を背景に描かれた高妍『隙間』(KADOKAWA)全4巻や現代的な寓話として戦争を描いた今日マチ子『おりずる』(秋田書店)上下巻の刊行、また武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(白泉社、2016〜2021年)のアニメ映画化なども続き、節目の年にあって記憶の継承をめぐる物語群が印象に残る年となった。
2 『正反対な君と僕』と「言語化」をめぐって
ここ1、2年、エンタメ作品についての読者の「考察」ブームなどとも連動しつつ、目にする機会の多くなってきた言葉の一つに「言語化」が挙げられる。背景にあるのは、自身の思考や感情を正確に言葉にする能力が高く価値づけられ、羨望されるような時勢だろう。そんななか、作品の内部においても、登場人物の思考や感情が精緻に言語化されていくタイプの作品群が存在感を増してきたように思われる。そうした傾向には賛否あるだろうが、2025年に最終巻が発売された阿賀沢紅茶によるラブコメ作品『正反対な君と僕』は、キャラクターの心情を巧みに言語化すると同時に、言語化しきれないものをも取り込むことで優れた成果を示した。
三輪健太朗(みわ・けんたろう)
マンガ研究者。1986年生まれ、長野県松本市出身。学習院大学大学院(身体表象文化学専攻)夏目房之介ゼミで学び、博士(表象文化学)の学位を取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論コース)准教授。著書に『マンガと映画 コマと時間の理論』(NTT出版、2014年)、共著書に『マンガメディア文化論——フレームを越えて生きる方法』(水声社、2022年)、『映画論の冒険者たち』(東京大学出版会、2021年)、論文に「楳図かずお論 変容と一回性」(『文學界』2022年4月号)など。
※インタビュー日:2026年3月31日
※URLは2026年8月24日にリンクを確認済み