過剰な反復と微細な差異――悪役令嬢転生ジャンルをひも解く きりとりめでる×遠藤麻衣×白江幸司[後編]

塚田 優

写真:北浦 敦子

左から、遠藤麻衣氏、白江幸司氏、きりとりめでる氏

「マンガ史」における悪役令嬢

白江 私は「悪役令嬢もの」を、市場における女性向けマンガの「低迷」と関連付けて考えてみたいと思っています。1990年代くらいまでマンガは性別とターゲット別のカテゴライズが明確にあって、これに応じるように雑誌が名前に「少年」を冠するような形で発行されてきていました。こうした状況は完全になくなったわけではなく、低年齢層の誌面では男児向け/女児向けのジェンダーバイナリーは維持されていますが、それ以外の年齢層では、「書店における雑誌と単行本」というモデルに「SNSと賞とアプリにおける作品単体や作品プロモーション」が加わったことで、雑誌の位置づけやコードから離れて、作品単体が注目される傾向が高まり、男女の市場の分割状態は徐々に崩れていっています。少年誌作品の性的描写が議論対象となる近年の傾向は、そのなかで生まれています。

ただ、少年誌作品に男性読者と女性読者が相乗りしている状態は、同時にこの2、30年の、少女マンガ誌と女性マンガ誌の部数減少の裏面でもあるんですね。女性マンガ家がいなくなったわけではなく、かつて少年誌や青年誌と括られていた媒体やアプリにより分散しています。「ジャンプ系」の作品ばかり読んでいる女性もいるでしょう。このようにつくり手、受け手の双方でマンガのジェンダーレス化が進行しているのですが、改めてその歴史的な経緯を踏まえたうえで「悪役令嬢もの」について考えることが大切だと個人的には感じています。

思い返すと90年代くらいまでは絵を見れば描いた人の性別がわかるといったことがまことしやかにいわれていました。しかし90年代はスクウェア・エニックスの『月刊少年ガンガン』をはじめとする雑誌やKADOKAWAのマンガ雑誌のように新興勢力が登場した時期でもあります。これらの雑誌は、00年代以降にはアニメ作品やライトノベル作品がコミカライズされる場所でもあったんですね。ここに当時ウェブでイラストやマンガを描いていた人がマンガ家として起用され、それまでとは違う感性を発揮します。他方できらら系をはじめとする萌え4コマも登場して、90年代くらいまでにあったカテゴライズがいったん壊れます。

こうしたなかで、青年誌では『週刊ヤングジャンプ』が伸長したり、少年誌でスクウェア・エニックスやKADOKAWAの動きを取り込んで『ジャンプスクエア』が生まれたりしていくんですが、マンガの「オタク」的な場所は年代ごとに変容し、その他のマンガとの境界が曖昧になっていきました。

そしてこういった多様化と同時に、アニメの地位も文化全般の中で上がっていきます。映画やドラマが保っていた地位が相対的に下がり、少年マンガがアニメの盛り上がりにブーストをかけます。このような結果、マンガというメディアの内部で序列の変化が起こりました。そしてそうした地殻変動を背景に、コミカライズの亜種として10年代に台頭してきたのが、ウェブ小説のコミカライズだったのです。

私はこういった文化のダイナミズムを、フレドリック・ジェイムソンのことを意識しながら考えています。ジェイムソンはハイカルチャーとマスカルチャーの混淆状態に注目し、ポストモダン論を展開しました。それはジャン゠フランソワ・リオタールのポストモダン論とは違った、アメリカのカルチュラル・スタディーズと重なりつつ展開されたものです。

マンガのなかでロウブラウ、ミドルブラウ、ハイブラウの区別があるとして、ミドルブラウからハイブラウにまたがってマンガの「作家主義」が構築されています。一方でロウブラウ作品はそこから除外されることで棲み分けているのですが、コミカライズ作品というのはかつては明白にロウブラウ扱いで、従来のマンガの「作家主義」言説では外されがちでした。マンガのなかにロウブラウな領域が生まれるのは初めてのことではなく、過去には貸本マンガ、レディースコミック、三流劇画などがありました。

また、マンガの賞やランキングでも漏れやすくなっています。宝島社の「このマンガがすごい!」(2005年~年刊化)やマンガ大賞実行委員会が主催する「マンガ大賞」(2008年~)ではコミカライズ作品は除外される傾向がありますね。除外理由は、受賞やエントリーにメディアミックスの端緒を開く役割が暗にあるからだと私は思っています。他方で、ニコニコとダ・ヴィンチが共催する「次にくるマンガ大賞」(2014年~)ではエントリーされています。2019年に『薬屋のひとりごと』(原作:日向夏、作画:ねこクラゲ、『月刊ビッグガンガン』、2017年~/作画:倉田三ノ路、『月刊サンデージェネックス』2017年~)が「次にくるマンガ大賞」受賞(ねこクラゲ版)、2021年に『葬送のフリーレン』(原作:山田鐘人、作画:アベツカサ、『週刊少年サンデー』、2020年~)、2025年に『魔男のイチ』(原作:西修、作画:宇佐崎しろ、『週刊少年ジャンプ』、2024年~)が首位を取っているように、マンガになったものを出口で横並びにして、現状のウェブ小説原作からメジャー誌までを扱う方針をとっています。このノミネート作品をざっと見ると、コミカライズとマンガオリジナル作品が同じモチーフやジャンルのなかで競い合い、上位互換を生み出そうとしてしのぎを削っている光景が可視化されています。そうした生態系のなかにウェブ小説やコミカライズ、現状のメジャー誌作品が共存しているのです。

――そしてこうした変化が、ブログカルチャーを起点の一つとして、00年代から10年代にかけてウェブトゥーンとして成長してきた韓国のマンガと合流するのですね。

白江 おおまかにはそういう流れになります。ウェブ小説コミカライズも、ウェブトゥーンも、アプリやウェブサイト発であったりSNSでヒットして連載化した作品の系統も、乱暴にいうとすべて「マンガに似た別の何か」に見えている年長マンガ読者も多そうですし、他方で30歳以下だとかつてのマンガの「作家主義」基準が意味不明に映っているでしょうね。80~90年代における高野文子と吉田秋生、00~10年代における荒川弘と森薫、そして現在という変遷があるんですが、評価基準や媒体ごと変化していると思います。

そのなかで「悪役令嬢もの」というジャンルが成立しています。マンガ家のジェンダーが媒体に規定されなくなり、マンガ自体も男性向け、女性向けといった区分が流動化してきたなかで、「悪役令嬢もの」は相対的に女性向けカテゴリーとして機能したからこそ、つくり手も書店も力を入れたし、支持を集めやすかったのではないでしょうか。

そして今現在、この「悪役令嬢もの」がジャンルとして意識されているということは、これらに固有の技法や様式があるという証しでもあります。そういった期待に応え「悪役令嬢もの」は、独立したエコノミーを生み出しました。ただこれが良いことなのか悪いことなのかは判断が難しいところがあります。

きりとり この座談会のように「悪役令嬢もの」というカテゴライズによる瞬間的なエンパワーメントの実践と、ジャンルとして閉じてしまうこと自体の危険性や手落ち感は、「マンガ史」とリンクする本質的な問題の一つです。ゆえに今回、ゆるくカテゴライズしつつ個別作品の細部を列挙し、いくつかの問題系や背景を探りながら「悪役令嬢もの」が発生したネットワークの一端を今回示すことで、カテゴライズ後の出口たりえたらと願っています。

きりとり氏

データベース消費と「悪役令嬢もの」における社会形成

きりとり 「悪役令嬢もの」がスタイルとして存在し、類型を反復しながら物語がつくられていることについてもう少し掘り下げてみたいと思います。「悪役令嬢もの」はそれこそ東浩紀がいうデータベース消費的に、反復して物語がつくられている状況なのですが、実際的にこんなにもその類型が反復できるものなのかと感じています。もはやそれはデータベースの底抜けであり、あらゆる設定や職業を飲み込み、あらゆるキャラクターを登場させ、物語がドライブしていく。その意味で「悪役令嬢もの」は、いまや何でも飲み込める「器」のようなものになっていると思います。

人気作品『よくある令嬢転生だと思ったのに』(マンガ:A-Jin、脚色:DOYOSAY、原作:Lemonfrog、ウェブトゥーン、2023~2025年)と『戦利品の公爵夫人』(作画:Candlebambi、コンテ・脚色:Saedle、原作:Lemonfrog、ウェブトゥーン、2024年~)の原作者であるLemonfrogなど、一部作家名でのブランディングを試みている「LINEマンガ」のようなプラットフォームもありますが、特に縦スクロールでフルカラーが売りの「悪役令嬢もの」は制作体制がアメコミのように分業されているケースが多く、クリエイターの個性もしっかり認識されないまま、作品が量産されています。このデータベースの「底」が抜けてしまったかのような状況は、先ほど白江さんがおっしゃっていた「オタク」的な要素の一般化も関連付けて考えられそうな気がしています。

白江 そうですね。確かに「悪役令嬢もの」、あるいはウェブ小説一般にはさまざまな物語的な要素を貪欲に取り入れる傾向があると思います。そして昨今のマンガは、これらのウェブ小説に使われるようなファンタジー要素や露悪性等を取り入れることでヒットしています。『葬送のフリーレン』にせよ、『チェンソーマン』(藤本タツキ、『週刊少年ジャンプ』、2019~2021年/『少年ジャンプ+』、2022年~)にせよ、現在のよりロウブラウな作品群のなかから上手くすくい上げている。つまり小説、マンガ、アニメなどさまざまなメディアで大量のトライアルが行われ、絡みあっているなかに、群れとしての「悪役令嬢もの」が存在しているという状況だといえるでしょう。

日本のマンガでは80年代以降、主題から希薄になっていた社会階級の差が「悪女もの」「悪役令嬢もの」の双方で回帰しているのも興味深い現象だと考えています。この「反近代性」は、他だと神という上位審級が存在するパターンが日本も含めとても多いことからも説明ができます。

きりとり 韓国のウェブトゥーンで『捨てられた皇妃』(マンガ:iNA、原作:Yuna、ウェブトゥーン、2019~2023年)という「悪女もの」のエポックメイキングな作品があります。本作の主人公は「死に戻り」をするのですが、前世で家父長制の檻をすべて受け止めてしまったような人物です。物語の序盤で神が出てきて、主人公の苦しみは「運命」でしかたなかったため、その償いとして「死に戻り」を発生させたというのですが、主人公は「償い」なんてそもそも可能なのかと神を否定せんと物語は開幕します。「悪女もの」としては比較的初期の作品ですが、けっこうやり切っていて、本作の物語の複雑さは後の「悪女もの・悪役令嬢もの」に部分的に流れ込んでいると思います。他のウェブ小説もそうですが、「悪役令嬢もの」では神に認められたり、否定したり、あるいは神を従えたりといろいろなパターンがあります。

ただここで思うのは、神の存在が切り詰められていることです。しかしだからといって、常に社会を中心的な主題としているわけでもない。河野真太郎は『増補 戦う姫、働く少女』(筑摩書房、2023年)のなかで、家をはじめとした組織や社会が物語内で描かれる作品を「シャカイ系」といって時にご都合主義的であることを指摘していますが、その舞台装置は「悪役令嬢もの」においてもご都合主義的だったり、逆に極めてフランス革命における闘争を下敷きとしていたり、具体的な職種への重点的な取材が前提であったりと、シャカイへの距離は作品毎に大きく異なります。

けれどもその上で指摘したいのは、「悪役令嬢もの」に登場する主人公の現代性です。大学に苦情を訴えた学生や教授らへの調査をもとに書かれたサラ・アーメッド『苦情はいつも聴かれない』(竹内要江・飯田麻結訳、筑摩書房、2024年)には、苦情はパーソナルなものでもあるから、連帯が難しく、異議申し立てをした場合その人がどう扱われるのかが詳しく書かれています。内容を読んでみるとそれが「悪役令嬢もの」の主人公が敵役から受ける仕打ちの要約できなさに近く、その細部が現代的な状況と響き合っているところがあるのです。

こういった現実とのリンクは、中島伽耶子による「悪役令嬢生存戦略フローチャート」にも看取できます。これは先ほど言及されていたアーティストの中島伽耶子によるZINE『悪役令嬢と生存戦略』(2025年)の附録でもあるのですが、ここには悪役令嬢に転生してしまった場合どうすればいいかが指南され、もしそれが現実であった場合の対処法や公的機関の問い合わせ先が記載されています。

中島伽耶子『悪役令嬢と生存戦略』
『悪役令嬢と生存戦略』附録の「悪役令嬢生存戦略フローチャート」

遠藤 サラ・アーメッドが、その書籍に関連して話しているポッドキャストを聞いたんですが、大学側が「フェミニストの耳」を持っていないことの問題を話していました。学内でのハラスメントについて学生が相談に行っても、フェミニストの耳を持っていないことで「気のせい」にされたり、「物事を大きくするとあなたが不利な立場になるよ」と嗜められてしまう事例があったそうです。この「聞く耳」という点で思い出したのは『悪女のペット』(原作:Seobo、作画:Harnenn、ウェブトゥーン、2019〜2022年)というウェブトゥーンです。これは小説の脇役に転生した人物の物語です。主人公は自分を人間ではない存在、要するに貴族の派閥争いの周縁的な存在として振る舞うことで生き延びる道を選びます。貴族たちの「ペット」として悪女と交流を持ち、誰も耳を傾けなかった悪女の葛藤を受け止めることで、悪女は、自分が実は結婚せずに騎士となって、家督を継ぎたかったことに気づくんです。二人のあいだには、恋愛とも友情とも判別のつかない、いわばクワロマンティックな関係が生じていきます1

白江 貴族令嬢に仕える女性騎士や侍女を登場させて、友情から恋愛までをまたがる関係性を築くものは日本の作品でも増えていますね。『ヒロイン?聖女?いいえ、オールワークスメイドです(誇)!』(あてちき、「小説家になろう」「カクヨム」、2017~2025年)や『転生しまして、現在は侍女でございます。』(玉響なつめ、「小説家になろう」、2017年~)がそうですし、『理想の聖女? 残念、偽聖女でした!』(壁首領大公、「カクヨム」、2020年)の女性騎士との関係もそれに近いものでした。クワロマンティックな関係は、シスターフッド系として歓迎されている面もあると思います。現在、旧来的なラブコメから「○○くん・さんは~」とタイトルに掲げるタイプの二者関係に絞ったラブコメジャンルが生まれたり、マンガやアニメにおけるアロマンティック要素の注目が起きていますが、こうした変化には相関性がありそうです2。その場合、『転生王女と天才令嬢の魔法革命』(鴉ぴえろ、「小説家になろう」、2019~2020年)や『私の推しは悪役令嬢。』(いのり。、「小説家になろう」ほか、2019~2021年)はさらに踏み込んで性愛要素を濃くした作品、という位置づけになります。ただし、女性作家の作品がシスターフッド系から百合までが連続的に存在している一方で、男性作家の作品にブラザーフッド系がBLや同性愛にまでまたがる広がりが見られず、これは対照的だと思います。

きりとり ご都合主義はシャカイだけでなく、性描写にもあったし、たくさんの作品がそれを乗りこなそうとしたり、乗り越えようとしてきましたよね。悪役令嬢ものの主人公が回避しようとする場所に修道院と並んで「娼館」があります。いずれも人知れず悪役令嬢を殺害できる場所と位置づけられるのですが、抽象的に扱われすぎて物語が一気にクリシェ化するときがあります。

遠藤 その点、『JKハルは転生して娼婦になった』(原作:平鳥コウ、作画:山田J太、新潮社、2019年〜)は、セックスワークに従事する視点から性描写を徹底的に具体化することで、ファンタジーにリアルな深みを持たせてくれていますね。作家のジェンダーは私にはわからないですが、異世界転生もののメイル・ゲイズを見事に批評しています。また、研究者のキム・ジェヒョンから聞いた話で、『Multiple Spirits』の5号に掲載予定なのですが、韓国は軍事政権の時代、マンガで男性と女性を同じシーンに登場させる描写が禁止されていたそうです3。それを逆手に取り、女性同士で親密な関係性を描いたのがミン・エニ『白帆の船』(1973年)4だそうで、韓国で最初の「ガールズラブ」を描いたマンガといわれています。こういう文化的な素養があって、現在のウェブトゥーンのなかでも「ガールズラブ」はジャンルとして認知されています。

遠藤氏

「悪役令嬢もの」の政治的悪さ

遠藤 実のところ私は、「悪役令嬢もの」を読んでいる自分をすべて肯定することができません。うまくいえないのですが、悪役令嬢は貴族の世界の作法をこなしたうえで、さらに新しい政治の仕掛け人となり、成功していきます。物語としては、爽快感があるのですが、それはどこか、今の政治家、例えばドナルド・トランプがやってることと似ている感じがしてしまうんです。なので、ファシストしぐさを物語として消費する一方で、現実との接続の仕方を見出せなかったりする。自分がポピュリズムの一端を担いでいるような気がして、罪悪感を持つことがあります。

――渡部宏樹『ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章』(河出書房新社、2025年)ではそういったコンテンツの快楽や熱狂することの「悪さ」について、まさにトランプに対する支持を例に説明されていました。

きりとり 「悪役令嬢もの」の場合だとそうした熱狂は、LINEマンガのコメント欄に良くも悪くも可視化されています。以前「少年ジャンプ+」で『【推しの子】』(原作:赤坂アカ、作画:横槍メンゴ、『週刊ヤングジャンプ』、2020~2024年)のコメント欄が荒れたことがありましたが、現在ウェブマンガのコメント欄にはキャラクターへの擁護や誹謗中傷、物語の展開に参画せんとするさまざまな声が飛び交っています。

転生のない、貴族社会を舞台にした『再婚承認を要求します』(原作:Alphatart、作画:SUMPUL、脚色:HereLee、ウェブトゥーン、2018~2020年)という作品があります。LINEマンガのコメントでは、主人公である皇后のナビエに対する同調がやはり多いんですね。しかしごく一部のコメントで、皇帝ソビエシュの寵愛を受け、主人公の立場を危ういものにするラスタが本当に悪いキャラクターだったのかを考えようとしているものもある。ラスタの出自は移民でもあり、このような読み替えが可能なのかという思考はとても大切だと考えています。

遠藤 マジョリティの読者がラスタを批判するなかで、一部の読者がラスタを擁護するという構造は、「悪役令嬢もの」の始まりそのものだと思いました。だって、主人公は、誰からも見向きもされずに非業の死を遂げる脇役に感情移入するところから始まるんですよ。たった一人だったとしても、もう一度別の物語を始められる。そこに「悪役令嬢もの」の可能性がある気がします。私もコメントを読むのはすごく好きで、そこに参加することも読書経験の一部だと考えています。例えば、主人公が犯罪者に恋愛感情を持ってしまうようなシーンがあったら「これはストックホルム症候群では?」みたいなコメントを残して、コメント空間が偏りすぎないよう努めています。

白江 コメント欄がそういった状況になってしまうのは、作品内容も関わっていると思います。視点人物のもとで味方や敵に峻別されるストーリーが多く、読者として視点人物に没入してしまうと、味方には暖かく親密性を持つけれど、敵に対しては憎悪と敵意を高めていってしまう。そういう構造を持つ物語が、ウェブ小説やウェブトゥーンには多く見られます。なのでいってしまうと薄っぺらいのですが、没入的姿勢においては「純度が高い」状態で突き進むことで独特な美的達成を備える。よくわからない装置がずっと稼働し続けていて、それにつられて読んでしまう経験が生まれやすいように思います。そのペラペラさと美的次元が従来の小説の規範では評価が難しい。ただ遠藤さんがお話しされたように「悪役令嬢もの」という物語は、本来は主体でないマイノリティが主体となるという出発点がそもそもある。その点は大切なポイントだと思います。

遠藤 そうですね。コメントの問題をファンダム文化のなかで捉え直すならば、BTSのファンカルチャーが参考になります。BTSのファンダムに顕著なのは、ファンたちが自ら政治的な主体として目覚めていくことです。カルチャーを発信したり消費したりするときに、それが政治的に物議を醸すものだったらファンがBTSに向かって批判し、それにBTSが応答するというフィードバックが起こっています。また各国にファンがいるので、別の立場にいるファンと意見交換がなされることもあります。ただ、ウェブトゥーンは、読者層に地域的な偏りが生まれやすいので、そうした差異が表出しにくくなっているかもしれません。

白江 言語やプラットフォームで区切られてしまうと、BTSのファンのような立場を超えた交流がなくなってしまう。それにシステムごとにエコーチェンバーができてしまうと、新たな発見も難しくなってしまいすね。

きりとり 最近のソーシャルゲーム、例えばリアルタイムの多人数協力型ストラテジーゲームはコメントがボタン一つで翻訳できる機能を標準搭載しています。結果、以前よりも協力関係(同盟やギルドの編成)が言語圏で偏らなくなりました。我々ユーザーの倫理も問われていますが、このようにプラットフォームのレギュレーションや施策の変化にも期待したいところです。

――「悪役令嬢もの」というニッチなジャンルをテーマにした座談会でしたが、フェミニズム、マンガ、政治、ファンダムといった多様なテーマを横断しながら、最後はメディアの問題にも接続することができました。とても実質的な議論だったと思います。本日はどうもありがとうございました。

座談会の様子

脚注

1 悪役令嬢ものではないが、BLマンガに転生して王女の侍女、王子の乳母となった女性が主人公の『メイドとして生き残ります』(マンガ:Hee-seo、原作:cloudwhale soap、ウェブトゥーン、2020年~2025年)も同系統の優れた作品として挙げられるだろう。
2 冷やし「【Aro/Aceなオタクの「好き」の話が聞きたいアンケート】番外編・Aro/Aceリーディング・クィアリーディング可能作品集」「光を見ている」2025年6月3日、https://signko.hatenablog.com/entry/2025/06/03/205721
3 軍事政権期における、日本の少女マンガの韓国での需要や展開に関しては、秋菊姫「第2章 失われた声を探って――軍事政権期における韓国の純情漫画作家たちの抵抗と権利付与」『越境するポピュラーカルチャー リコウランからタッキーまで』谷川建司・王向華・呉咏梅編、青弓社、2009年が詳しい。
4 ミン・エニ『白帆の船(하얀 돛배)』の全編は、作家のYouTubeチャンネル(https://www.youtube.com/@seniorcartoonist_annymin)にて閲覧できる。

きりとり めでる
批評家。1989年生まれ。デジタル写真論の視点を中心に研究、企画、執筆を⾏っている。著書に『インスタグラムと現代視覚⽂化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』(共編著、ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)がある。2022年に「T3 Photo Festival Tokyo 2022」のゲストキュレーターを務めた。最近の論考には「コンテンポラリー・アートの場としての長谷川白紙と過剰な装飾――アヴァンギャルドでキッチュ」(『ユリイカ』2023年12月号)など。

遠藤 麻衣(えんどう・まい)
アーティスト、俳優。コラボレーションやパフォーマンスを通して身体の政治性を探究するアーティスト。クィア・フェミニスト理論における「受動性」や「失敗」をパフォーマンスや映像で実践し、人間/非人間らの関係性を再創造している。近年は、ニューヨークにおける非制度的タイムベースド・アートをアーカイブするFranklin Furnaceのゲストリサーチャーとして調査を行ったほか、日本のストリップショー文化を再解釈し、踊り子の宇佐美なつとともに《オメガとアルファのリチュアル》(「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか」国立西洋美術館、2024年)を発表。2018年より丸山美佳と『Multiple Spirits(マルスピ)』を刊行。

白江 幸司(しらえ・こうじ)
批評家。1980年生まれ。筑波大学比較文化学類卒業。映像と美術、文学をめぐるメディアエコロジーとポピュラー文化表象、ポストモダン論を対象とした批評・研究活動を行っている。論考に「ノベルゲームの世紀転換期――「ノベルゲームのファンタスマゴリア」解題に代えて」(『Ghost Letters 02』2024年)、「波打ち際のラクー゠ラバルト――トラウマと存在-類型論」(『リミトロフ』5号、2023年)、「ノベルゲームのファンタスマゴリア――『魔女こいにっき』における行為と竜」(『新島夕トリビュート』2022年)、「フレドリック・ジェイムソンの種子――『ポストモダニズム』を読むための覚書」(『現代思想』2021年6月号)など。

※インタビュー日:2025年11月10日
※URLは2026年2月16日にリンクを確認済み

過剰な反復と微細な差異――悪役令嬢転生ジャンルをひも解く きりとりめでる×遠藤麻衣×白江幸司[前編]
過剰な反復と微細な差異――悪役令嬢転生ジャンルをひも解く きりとりめでる×遠藤麻衣×白江幸司[中編]

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