音を造形する サウンドアートの現在形 「evala 現われる場 消滅する像」座談会[後編]

坂本 のどか

写真:中川 周

左から、evala氏、すずえり氏

ローファイとハイファイ

すずえり 私は視覚芸術出身の人間なので、あれほど会場が見えないと不安になります(笑)。よくあそこまで暗くしましたね。

evala 視覚要素は極限まで減らしたかったんです。見えているものはすべて、おぼろげな幻覚のようなものに感じられるよう、色や形がはっきりとしないものにしています。

すずえり そして私はとてもローファイなので、evalaさんの音はとてもハイファイできれいだなと思います。ただ、オーディオの原音再生とはまったく違うんですよね。音はとてもクリアなんですが、だからこそよくわからないところが生まれる。手触りだけが残るような感覚が、すごくおもしろいなと思いました。

久保田 ローファイとハイファイの捉え方の違いも、とても興味深いですよね。例えば、すずえりさんがよく用いるトイピアノやプリペアドピアノは、一般的にはローファイに分類されるかもしれません。でも、実際に生で聴くと、音は驚くほど繊細で、高音域のノイズまでもが鮮明に感じられる。パフォーマンスの現場では、まさにその「実物」からしか生まれ得ない、ハイファイなサウンドが鳴っているわけです。

僕は、すずえりさんにはevalaさんとはまた異なるアプローチで、ステレオを前提としない音空間への感覚を強く感じます。現実の世界で鳴っている音は、そもそもステレオではない。音源には面積や体積があり、基本的にはすべてモノラルな存在として空間に浮かんでいる。すずえりさんは、そんな「すべての音は本来モノラルである」という感覚を出発点にしているように思うのです。ステレオではなく、マルチモノラル。そこに独特の美学がある気がします。

すずえり なるほど。私が最近使っている光通信のデバイスは、中音域の音しか出ないんですが、中音域の範囲でやろうとすると声しか使えないだとか、さまざまな制約が出てきます。するとどんどん音の表層の方に寄っていくのです。つまり音をとても物質的に使っているので、evalaさんとは真逆のことをしている気はします。

すずえり氏
Elico Suzuki (suzueri)《Three Worlds》2018年
画像提供:すずえり氏

畠中 すずえりさんのパフォーマンスは、例えば光通信で音の情報が送られて、それが再び音に変換されて聞こえるというプロセス自体も作品ですよね。そのプロセスが成立すれば、そこで起きた現象すべてが、ハイファイで具現化されたと言えるのかもしれません。

ただ一般的には、「鳥の鳴き声がとてもきれいに再生された」と言ったときに、僕らはそれをハイファイと言ってしまう。それはきっと、意味内容が正確に伝わったからです。ハイファイ/ローファイは音の状態じゃなくて、意味伝達の精度なのかもしれないと思います。

evala クラシックの人って、楽譜を読んで自分の頭の中でその曲を再生できるじゃないですか。本人以外には聞こえないけれど、本当の意味で一番ハイファイなのはその状態なんじゃないかと思うときがあります。

久保田 なるほど、確かにそうかもしれませんね。そのことはインゴルド1が「私たちは「視覚の力が画像に内在する」とする誤った考え方と同じ罠、つまり「聴覚の力が録音に内在する」という見方に陥らないよう注意しなければならない。耳もまた目と同じく、観察器官であり、再生装置ではない」といっていることを思い出させてくれます。evalaさんがCDをつくらなくなったこととも、何かつながっているような気がします。

evala つくりたくないわけではないのですが(笑)、ただ、確かにCDをつくるとなると、そのための録音になってしまうんですよね。

すずえりさんはハイファイと言ってくださっていますが、僕の音源には、実はiPhoneで録ったようなものもたくさんあります。変な操作もしているし、パッケージ化しようとすると、それに適さない部分がたくさん出てきます。

すずえり そうなんですね。なんでハイファイだと思ったんだろう(笑)。

畠中 例えばですが、きっと、すずえりさんの音源をevalaさんの作品の中で流したら、ハイファイに聞こえるのだと思います。ハイファイなローファイがあり得るということかもしれません。

evala そうですね。僕も鐘の音や音具のようなものが好きでよく使うのですが、ものによってはその音域はごく狭いものです。そういう意味では僕の作品もローファイかもしれません。

evala氏が制作に使用する音具。会場の一角に展示された
撮影:丸尾隆一
写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]

無限に生成する、新たなアーカイブの試み《Studies for》

すずえり 一番奥の白い部屋の作品は生成AI技術を使われているんですよね。なぜAI技術を使おうと思ったのですか?

evala 《Studies for》は、この個展が決まったときからソニーの研究開発チーム2と一緒に考え始めたものです。それこそ、作品をパッケージ化することについては、普段から考えていたんです。美術館からよく「ビデオを送ってください」と言われるのですが、ビデオはない。「じゃあ音源を」と言われて無理やりステレオに変換して音源を送ると、「聞きました。フィールド系ですね」などと言われて終わってしまう。そういったなかで、何か新しいアーカイブのかたちを模索できないかと思ったのです。

《Studies for》は、AIとの共同作品でも、人とAIのズレをおもしろがるようなものでもなく、自分の子どもみたいなものです。僕が過去につくった立体音響作品の生データだけをあらかじめ学習したAIが、音をリアルタイムで生成し続けているんです。

それまでずっと真っ暗だったのが、展覧会の最後、あの場所で一転して真っ白になる。それは僕の死後のようなイメージだからです。あそこが墓場であり、子宮の中でもあるような。

《Studies for》2024年
撮影:丸尾隆一
写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]

すずえり 生成された音を聞いて、「これは自分ではつくらないな」と思うところなど、ありませんでしたか。

evala それが、全部受け入れられちゃうんです。ソニーのチームが、生成される音を聞きながら「パラメーターをいじれば、もっとこんな風にもできますけど」といって僕にディレクションさせようとするのですが、自分の子どもだと思ったら全部かわいいじゃないですか。全部認知して、とにかく成長を見守りたいと。最初に聞いたときには、本当に産声のように感じました。でも「あ、今の音、あの作品のあそこに影響を受けてるな」と、確実に自分の影響を感じられる。おもしろくて仕方がないですね。

久保田 「無限に生成し続けるアーカイブ」という提案、非常に興味深いです。evalaさんにとって、「自分」という存在やその未来は、常に開かれたものであり続けるのでしょう。生きているあいだだけでなく、死んだあとでさえ、何が起こるかはわからないし、むしろ何が起こってもかまわない。そんな感覚が根底にあるように感じます。

だからこそ、それらを一度「パッケージ」として固定してしまった瞬間に、どれだけ繰り返し再生しても、常に「同じもの」として聴こえてしまうことに、きっと納得がいかないのだと思います。変化し続けること、生成され続けること。それこそが、evalaさんの音にとって、本質的な価値なのかもしれません。

evala 「注意深く聞くことは、単に受動的に聞くこととは異なり、まさに定着とは正反対の行為である。私たちは地面にしっかりと足をつけているかもしれないが、音そのものは何にも固定されていない」、そして最後の一文「場所の固定化とは、一種の聞く耳を持たない状態にほかならない」。このインゴルドのテキストが、まさに僕の想いを言語化していました。

久保田氏

生成され続ける作品もあり得る?

畠中 一方で、evalaさんの作品は非常にしっかりとコンポジションされていますよね。そういう意味では《Studies for》は他の作品からとても切り離されているわけですが、今回アーカイブの試みとして生成AIを取り入れたことで、evalaさんが今後、作品に生成性を取り込む可能性についていろいろと想像してしまいました。evala作品が、同じ瞬間が決して訪れないような、生成され続ける作品になるとしたら、と。

久保田 それは僕もとても興味があります、一方ですずえりさんの場合、その生成が即興にあたるのかもしれませんね。すずえりさんのパフォーマンスでも、同じことは二度と起きないわけですから。

すずえり ブライアン・イーノも生成音楽について書いていますし、アンビエントミュージックと生成系は結構近いところがあります。イーノもきっと、同じことを繰り返したくなかったのだと思いますが、それはevalaさんにも感じるところです。

畠中 ただ、そもそも作品を体験するということは、結局は体験するその人を通してしかあり得ませんから、同じ音を聞いていたとしても、それぞれの人が違う作品を体験しているのだと思います。だからこそ、「See by “Your” Ears」なんですよね。

畠中氏

ジョン・ケージ《4分33秒》を起点に見るサウンドアートの系譜

畠中 会場入り口に置いた「evala×ICC×サウンド・アート年表」について、僕は以前、雑誌のジョン・ケージ特集で、「『ジョン・ケージ以後』としてのサウンド・アート(における「聴くこと」とテクノロジー)」3という論考を書きました。サウンドアートにおける一つのルーツは明らかにジョン・ケージです。さらに、ICCの中に無響室がある理由も、実はケージにあったりします。今回の年表をケージの《4分33秒》(1952年、以後年表に表記された事柄には年号を付加)を起点にした理由はそこにあって、evalaさんは無響室で作品を制作したアーティストとして、その流れのなかにいるわけです。

久保田 《4分33秒》を起点に音の歴史をたどっていくと、ちょうど同じ時期に電子音楽の歴史も始まっていることが見えてきます。1954年にNHKの電子音楽スタジオが設立されていますが、西ドイツ放送局にケルン電子音楽スタジオが設立されたのも1951年です。その後ベル研究所で音声合成が試みられ、アムステルダムにはSTEIMが設立(1969年)、1970年には大阪万博が開催されるなど、電子音響と表現の可能性が大きく開かれていった時代でした。

こうして一つひとつの出来事を順にたどっていくと、テクノロジーと音の関係のダイナミックな展開が見えてきて、とてもおもしろいですよね。ところが、初代iPhoneが登場した2007年頃を境に、そのような「テクノロジーの歴史」としてのトピックが、いったん途切れるように感じられます。

畠中 テクノロジー史にどのトピックを載せるのか、その基本的な考え方は、そのテクノロジーの登場によって歴史が変わったかどうかです。例えばMIDI(1983年)など、新しいフォーマットの発明はそうだと言えるでしょう。その技術が音を聞くことや音楽を体験することにどういう影響を与えて、それが後にどんな世界をもたらしたかのか。そう考えると、2010年代以降、僕らの聞く体験というのはそれほど大きく変わっていないのかもしれません。あるいは新しい技術は生まれていても、それによって何が変わったのかを僕らはまだ知らない。マーシャル・マクルーハンが「われわれはバックミラーを通して現代を見ている。われわれは未来に向かって、後ろ向きに進んでゆく」といったように、それはもう少し先に行かないとわからないのかもしれません。

「evala×ICC×サウンド・アート年表」を見ながら。オンラインでも閲覧可能

日本のサウンドアートとICC

すずえり ICCの開館(1997年)以前にも、サウンドアートの展覧会は日本で行われていたのでしょうか。

畠中 1989年に栃木県立美術館で「音のある美術」展が開催されています。鈴木昭男さんが参加されていたり、音響彫刻を中心とした展示でしたね。

すずえり ストライプハウス美術館で1994年まで行われていた「Sound Garden」もそうですね。スピーカーやオーディオシステムを全面に使ったサウンドアートの展覧会を初めて見たのはICCでした。alva notoアルヴィン・ルシエの作品(2000、2003年)を初めて見たのもICCです。日本におけるサウンドアートの歩みはICCの歩みと深く重なっている気がしています。

畠中 そうですね。そういう意味では、「サウンドアート」という美術と音楽の歴史から派生したジャンルがある、ということに特化して、同時代の潮流として捉えたのは、日本ではICCの展覧会が初めてだったのかもしれません。

すずえり サウンドアートのコミュニティはどこも小さくて、どの国に行っても、皆こちらのアーティストのことを知っているんです。私はそんな小さなコミュニティを大事にしていきたいと思っているのですが、ICCは企業の施設でありながら、そういったコミュニティにも関わっている、とても大切な場所です。

evala ICCが開館して間もない2000年の頃、僕と同世代の真鍋大度徳井直生城一裕堀尾寛太らが入っていた、少人数のMax/MSPのオンラインコミュニティがありました。それぞれ機材や楽器を演奏したりしていたのですが、PowerBook G3の登場で、楽器がラップトップ1台に置き換わったんです。東京でオフ会をした時も、カフェに入ってビジネスマンみたいにパッチを書いたりしていて(笑)。そのとき、ICCにも来ました。見たのは「サウンド・アート――音というメディア」(2000年)。学生の頃ですね。

PC依存とモノ依存

すずえり 2005年から2007年くらいにはその反動で、PCから離れるような動きもありましたね。情報科学芸術大学院大学[IAMAS]出身者がブレッドボードを使ったDIYバンド「The Breadboard Band」を結成したり、多摩美のベンディングバンド「(e)-BOMBERS」が結成されたのもその頃だったと記憶しています。

畠中 小林茂さんのGainerや、Arduino(2005年)の登場も同時期ですね。

久保田 それまで、PCに依存せずにプログラムを実装しようとすると、自分で開発環境を構築したり、PICマイコンにコードを書き込んだりと、何かと手間がかかり、ハードルも非常に高かった。そうした状況を大きく変えたのが、Arduinoに代表される手軽で安価なマイクロコントローラの登場でした。この変化は、技術的な敷居を大幅に下げ、より多くの人が電子工作やプログラミングにアクセスできるようになったという点で、非常に大きな出来事だったと言えるでしょう。

すずえり Arduino以前は、デバイスが展示されていても、Teleoなどのインターフェイスを介して、その先にはPCがつながれていたと思います。今また生成AIなどの登場でPC依存に戻ってきているシーンもあれば、その一方で2020年頃からは、美術館でも音をテーマにした展覧会が増えたり、音響彫刻が再制作されたりと、モノへの回帰を感じます。行ったり来たりしている印象のなか、今回のevalaさんの展覧会は一つのエポックだと感じました。PC依存でもなければ、モノ依存でもない。ただ音場だけ、音だけがあるような。マルチスピーカーでもアクースモニウムでもなく……なかなか形容し難いのですが。

パブリック・サウンドアート?

畠中 僕は、evalaさんは公園をつくったらいいんじゃないかと思っています。養老天命反転地のような。

evala いいですね。街のなかで突然、不意に音に包まれるようなエリアをつくるのもおもしろそうです。

久保田 これもトークのなかで触れられていたと思いますが、養老天命反転地との共通性を感じる一方で、そこには大きな違いもあるように思います。荒川修作マドリン・ギンズの作品では、「身体化(embodiment)」が大きなテーマとして掲げられていて、身体を再認識し、異化させることが重要でした。空間に対して身体を能動的にぶつけることで、自己の輪郭を浮かび上がらせるような体験です。

それに対してevalaさんの作品では、むしろ身体がメディウムのなかに放り込まれ、境界が溶けていくような感覚があります。聞く者の身体が音に溶け込み、消えていくような――。入口にあるのは「身体をめぐる経験」という点で似ているかもしれませんが、たどり着く先は大きく異なる。身体の強調の仕方、あるいは解体の仕方、そこが決定的に違っているように思います。

畠中 さきほどevalaさんの作品では寝られないと話しましたが、僕はevalaさんの作品は、身体への意識がある状態と無化した状態、その均衡を保たせながら音を聞かせる装置でもあると思います。《ebb tide》は実際のところ、山の頂上で体験できる人は多くありません。それ以外の場所では、落ちないようバランスを保ちながら聞いているかもしれない。つまりどうしたって、自分の身体を意識してしまうとも言えるのです。

evalaさんの作品はみな「あれっぽい」と一言で言えなくて、さまざまな事柄に、共通点もありながら、同時に対極にあるとも言える。それがきっとevalaさんのスタイルなのでしょうね。

evala氏

サウンドアート×気象学? これからの可能性

久保田 インゴルドのテキストの終盤に、こういう一節があります。

音楽学者ヴィドール・ツッカーカンドルが指摘するように、空はある意味では響き(sonority)でもある。ツッカーカンドルによれば、空を見上げるという経験の中に、「聞くこと」の本質が含まれている。もしそうであるならば、聴覚空間を表現する比喩は、風景学ではなく、気象学から導かれるべきなのだ。

僕は最近、この「気象学(Meteorology)」からサウンドにアプローチすることに、とても関心を持っています。そのもう一つのきっかけは、2018年にMIT Pressから出版されたジャニーン・ランダーソンの著書『Weather as Medium』でした。気象学とサウンドアートの組み合わせは、何か未知の展開を生むような気がしています。実際、風が吹くことで、普段は届かないはずの遠くの音がふいに耳に届いたりする。そうした自然の気まぐれな音響現象は、私たちが「聴く」という行為を捉え直すヒントになる気がしています。

evala そうですね。温度や湿度、気圧でも音は変わります。

畠中 楽器は気温や湿度によってチューニングを変えますからね。

すずえり 人間第一主義、プレイヤー第一主義じゃなくて、地球と一緒につくる音ですね。

久保田 気象の変化によって、メディウムやモノが動き出せば、そこからさらに新たな音が生まれる。その連鎖が、音を単なる結果ではなく、生成のプロセスそのものとして立ち上げていくのだと思います。今回の展示を通じて、サウンドアートの可能性はまだまだ広がっていける、ということを実感できたのが、僕にとって何よりの収穫でした。

《Studies for》のなかで

脚注

1 Tim Ingold, “Against Soundscape,” in Angus Carlyle (ed.), Autumn Leaves: Sound and the Environment in Artistic Practice, Double Entendre, Paris, 2007, pp. 10-13. 本稿内のインゴルドのテキストの引用はすべて、久保田氏による試訳。
2 正式には当時の部署名で、ソニーグループ株式会社Creative AI Lab/同技術戦略部コンテンツ技術&アライアンスグループ。
3 畠中実「『ジョン・ケージ以後』としてのサウンド・アート(における「聴くこと」とテクノロジー)」『ユリイカ』2012年10月、224~229ページ。

evala
音楽家、サウンドアーティスト。新たな聴覚体験を創出するプロジェクト「See by Your Ears」主宰。立体音響システムを駆使し、独自の“空間的作曲”によって先鋭的な作品を国内外で発表。2020年、完全な暗闇の中で体験する音だけの映画、インヴィジブル・シネマ『Sea, See, She – まだ見ぬ君へ』を世界初上映し、第24回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞。2021年、空間音響アルバム『聴象発景 in Rittor Base ‒ HPL ver』がアルス・エレクトロニカ2021デジタル・アート&サウンド・アート部門にてオノラリー・メンションを受賞。近作に、世界遺産・薬師寺を舞台にした《Alaya Crossing》(2022年)、《Inter-Scape 22》(東京都庭園美術館、2022年)、《Haze》(十和田市現代美術館、2020年)、ソニーの波面合成技術を用いた576ch音響インスタレーション《Acoustic Vessel “Odyssey”》(SXSW、オースティン、2018年)、無響室でのインスタレーション《Our Muse》(国立アジア文化殿堂[ACC]、光州、2018年)、《大きな耳をもったキツネ》(ICC、2013・2014・2023年/Sonar+D、バルセロナ、2017年)など。また、公共空間、舞台、映画などにおいて、先端テクノロジーを用いた独創的なサウンド・プロデュースを手掛けている。大阪芸術大学音楽学科・客員教授。
https://evala.jp
https://seebyyourears.jp

鈴木 英倫子(すずえり)
サウンドアーティスト。東京都を拠点に活動。鈴木英倫子の名前でも活動を行う。音の取り扱いとDIYによる自由をテーマに、自作楽器や装置による展示、演奏を国内外で行う。道具や楽器のインタラクションと身体、通信のレイテンシーと即興性などから立ち上がるずれに興味をもち、そこから想起される詩と物語性を問う。
https://suzueri.org/

information
evala 現われる場 消滅する像
会期:2024年12月14日(土)〜2025年3月9日(日)
休館日:月曜日
会場:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]ギャラリーA、B
入場料:一般1,000円、大学生800円
https://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2024/evala-emerging-site-disappearing-sight/

※インタビュー日:2025年3月7日
※URLは2025年5月15日にリンクを確認済み

音を造形する サウンドアートの現在形 「evala 現われる場 消滅する像」座談会[前編]

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