書評 成相肇『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』

塚田 優

1950年代から70年代にかけての「複製文化」を中心に、多様な語り口で論じられた一冊。学芸員であり、美術評論家でもある成相肇氏が、美術と複製文化を交差させる展覧会を手掛けるなかで、さまざまな媒体で発表されてきた論考がまとめられています。なぜ著者は「わるさ」という言葉を用いたのか、要点をピックアップしながら考えます。

『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』表紙

芸術の「わるさ」とは?

誤解を恐れない、ストレートなタイトルだ。だが一方で、芸術が必ずしも美しさや心地よさばかりを追求してきたわけではないことを知っているのであれば、とても興味をそそられるタイトルでもある。学芸員、美術評論家の著者がおよそ10年の間に執筆してきた文章を、コピー、パロディ、キッチュ、悪というテーマに分けて編集された同書は、正面を切って芸術の「わるさ」を俎上にあげる。

しかしひとくちに「わるさ」といっても、その反道徳性が称揚されるわけではない。著者は柳田國男「不幸なる芸術」を引きながら1、「悪」の技術としての側面を(価値判断ではなく、あくまでも即物的に)強調する。柳田は中国の歴史書において悪巧みの手練手管がしばしば記録されていることは、効用があったり、必要性があったりするからだと考察しているのだが、それを受け著者は「味方よりも強い敵に対してはペテンを弄することが有効であり」2、そうした悪計を「弱者の智慧を結集した武器」3であると述べている。悪はそのようにして相手を騙し、ゲームチェンジを繰り返してきた。同書はそんな悪の機能に着目し、主に複製文化を事例に論述が展開されていく。

読みどころをあげるとするならば、やはり法や倫理の問題と関わらざるをえないパロディや、美的な趣味とも抵触しうるキッチュといったテーマを扱った章になるのだが、ここではまずコピーの章に収められた「ゼログラフィック・ラヴ」について触れておきたい。この論考は1960年代に普及したゼログラフィー、つまり現在のコピー機の技術を当時のアーティストたちがどのように活用したのかについて考察しており、その点においてメディア論的な性格もそなえたものでもある。インク、腐食液、現像液といったそれまで複製技術に必要とされていた液体を介さない即自的な受信と発信について、著者は昨今の情報技術との関連も示唆しながら、その画期性を強調している。ブルーノ・ムナーリや高松次郎といった表現者が機械的なオートメーションに人間的な味を加えようとしたことや、アンディ・ウォーホルは逆にその人間性ではなく、機械のドライさに身を任せたことが紹介されている。中立的な技術に対して、人間はどのように介入していくのか。この論考は、芸術の神話を暴き、その不純さを追求する同書にあって、そうした表現を支える技術的前提条件について考察している点において重要なものだと言えるだろう。なぜならコピー機という複製技術は「オリジナリティ」という観念に揺さぶりをかけるものであり、続く章で取り上げられているパロディやキッチュもまた、そのようなオリジナルの神話と密接に関係しているからである4

「パロディ裁判」と石子順造

それでは同書の主要なテーマでもあるパロディ、キッチュの章について概観しよう。これらの章は、著者が学芸員として企画した展覧会の図録に収録された文章を中心に構成されている(前者は2017年、東京ステーションギャラリーでの「パロディ、二重の声 日本の一九七〇年代前後左右」、後者は2011~2012年、府中市美術館での「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」5)。まずはパロディについて、著者はそれを先行テクストの「外面的形式を反復しながら差異を強調することで批評する表現形式」であると述べ6、これまでさまざまな辞書や文献で厳密に定義されてこなかった語の意味を明らかにする。そして権力に対する異議申し立ての運動が停滞へと向かっていった1970年代において、それより以前に見られた職人芸的パロディが『ビックリハウス』といった雑誌を震源として大衆化していくさまが指摘される。そしてそのうえで、マンガやアニメーションを題材としたような「二次創作」においてオリジナルが無意味化し、東浩紀の言うところの「データベース消費」まで議論の射程を伸ばしていくのである。また、パロディにまつわる言及で見逃せないのは、法律学、文化論においても多くの議論を積み重ねてきた、いわゆる「パロディ裁判」について紙幅が割かれていることだ。同裁判は1971年から1986年まで争われた著作権をめぐるもので、6回の審理について著者は要約を行っている。ここでは裁判が外面的特徴に拘泥しがちで、それぞれの制作プロセスや、受容者の視点、美術史的観点といったポイントが看過されてしまったことを著者は指摘している。さまざまな視覚表象に対して「パクリ」や「トレース」の疑惑が噴出したり、法律以上にオリジナリティに対して敏感になったりしている昨今の日本の状況については同書でも指摘されているが、パロディの歴史や「パロディ裁判」の顛末は、現在の私たちにとっても学ぶところが多いだろう。

『パロディ、二重の声 日本の一九七〇年代前後左右』(東京ステーションギャラリー、2017年)表紙
『石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行』(美術出版社、2011年)表紙

続くキッチュを取り上げた章では、1950年代から1970年代半ばまで活動した評論家、石子順造の言説を参照しながら、当時の社会や美術、マンガといった各ジャンルの状況について考察が加えられていく。民衆の生活と分かちがたくつながった「ドキュメンタリー」的な表現を題材に評論を書き始め、画家による社会風刺を含むマンガ的な表現を評価するなど、社会とマンガ、美術を接続する仕事に積極的に取り組んでいた。そんな石子が1970年代に入り注目したのが「キッチュ」である。ただ石子は国内外のさまざまな論者の文献に触れつつも、キッチュを明確に定義することは慎重に避けている。しかし著者である成相は「受け手である大衆の趣味に迎合するようにつくられた安手の通俗物一般」という石子の言葉を引用し、さしあたっての定義を試みている7。ビラやチラシ、大漁旗、プラスチック製の岩など、キッチュと関連付けられて言及される対象の範囲はかなり幅が広い。こうして著者は石子の歩みを「あまりにもまじめすぎた野次馬」と形容し8、社会情勢や人々の日常と、芸術の相互浸透について早世した評論家のフィルターを通じて描き出すのである。

多様なジャンルと語り口で芸術を評する

副題が示すように同書の主題は四つに整理されているが、通読すると言及されているジャンルの幅広さには驚かされるばかりだ。美術やマンガをはじめ、ここまで触れることができなかったが、写真、広告、テレビ、小説、絵本といった対象も取り上げられている。植田正治やいわさきちひろの仕事に潜在する論理や、岡本太郎《森の掟》(1950年)とマンガの関係について書かれた各章は、もちろん単独で呼んでも読者に発見をもたらすだろう。また、著者がさまざまな文体を用いていることも付け加えておきたい。いい意味でたんたんとしたトーンを基調としながらも、エッセイ的な書き出しから論を展開する「(有)赤瀬川原平概要」や、要所に挿入される口上など、内容的にも形式的にも多彩なものとなっている。

だがそうした著者の振る舞いの数々は、遊戯的な側面ばかりが目立つのではなく、批評的なアクチュアリティにも目配せすることも忘れない。パロディの章がイメージの「パクリ」や「トレース」といった、昨今のしばしばインターネット上で起こる「祭り」に対し相対的な視点をもたらすことはすでに述べたし、キッチュに関してもネット上のさまざまな匿名の「表現」などに対して、石子の理論が適用できることを著者は指摘している。

しかしこのような汎用性だけではなく、芸術の不純さ、いかがわしさ、賑々しさを、アヴァンギャルドやコンセプトといった横文字ではなく、あえて「わるさ」という言葉を起点に考察したことが、同書にとっては最も重要だったと評者は考えている。最後に論として収められたのは、古代中国より伝承され、日本でも信仰されている農業、医薬、商業の神「神農」についての文章である。神農はありとあらゆる草を嘗めて薬と毒を見分けた神なのだが、著者はこのように異物を体内に取り込むことに関して「異物と密に対話し、その力を和らげあるいは活かす」ことができたからこそ9 、神農は神聖な存在となったのだと述べる。ポリティカル・コレクトネスという言葉もすっかり人口に膾炙し、「善」を求める声は日に日に強くなっている。だがそのようにして「悪」を批判し、固定的にイメージ化することはかえって「善」の凡庸化をもたらしてしまう。だからこそ性急に善悪の判断をするのではなく、多くのジャンルと向き合いながら、その境界線に目を凝らすことを著者は継続してきたのだ。そこで見出された「わるさ」とは、豊かさの謂にほかならない。成相のこれからの「わるだくみ」も、見逃さないよう追いかけていきたい。

脚注

1 成相肇『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』かたばみ書房、2023年、8~13ページ。
2 同前、8ページ。
3 同前。
4 キッチュの章ではこうしたオリジナリティについて、ロザリンド・クラウスも引用されていることからもわかるように、同書の議論の多くは「モダニティ」をめぐるものであることも付け加えておきたい。
5 [編集者注]二つの展覧会は過去のカレントコンテンツにて紹介されている。原島大輔「パロディ、二重の声――日本の一九七〇年代前後左右」2017年2月10日、https://mediag.bunka.go.jp/article/paro-5363/。野田謙介「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」展開催」2011年12月28日、https://mediag.bunka.go.jp/article/post_54-123/
6 成相、前掲書、105ページ。
7 同前、251~252ページ。
8 同前、191・220ページ。
9 同前、371ページ。

information
『芸術のわるさ コピー、パロディ、キッチュ、悪』
著者:成相肇
出版社:かたばみ書房
発行年:2023年
https://katabamishobo.com/archives/book/geijyutsunowarusa

※URLは2023年9月7日にリンクを確認済み

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