叶 精二
「アニメーション」という語が定着する以前、それらは「漫画映画」「線画」「動画」などと呼ばれていました。「漫画映画」という言葉が使われていた1958年、国内初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』を見たことをきっかけに、アニメーションの道に足を踏み入れることになった宮崎駿。本稿では「漫画映画」という言葉が広まった過程、また宮崎がアニメーションを開拓してきた先人たちからどのような影響を受けたのか、順を追ってみていきます。
宮崎駿1 は自らの作品を「漫画映画」と語ることが多い。例えば、以下のような発言がある。
僕は、漫画映画というのは、見終わった時に解放された気分になってね、作品に出て来る人間達も解放されて終わるべきだという気持ちがある。出て来る人間達が無邪気になったというのが、僕は好きなんですよ
富沢洋子編『また、会えたね!』徳間書店、アニメージュ文庫、1983年、145〜146ページ
僕らは抜き差しならない現実社会に、抜き差しならない自分をかかえて生きてるでしょう。だけどね、いろんなコンプレックスとかガンジガラメの関係から抜け出て、もっと自由な、おおらかな世界にあればね、自分は強くも雄々しくもなれる。もっと美しく、やさしくなれるのに、自分の存在も意味あるものになるのに、という想いを持ってるんじゃないか。少年も老人も、女も男も……
同、148ページ
漫画映画は喪われた可能性を描いてくれるものなんです。今のアニメーションには、漫画映画と言えるような活力のあるものが少ないと思うんです(中略)漫画映画ってのは、もっと面白くてドキドキするものなのに、という思いはいつもありますね
同、149ページ
「漫画映画」は現在ではほとんど聞かれない用語だが、宮崎がそれを語ることに積極的な意義を見出していることは明らかだ。それは、一つの進むべき指標であったと言える。
かつて「アニメーション」が「漫画映画」と呼ばれた時代があった。しかし、それがいつからいつまでだったのかは明確ではない。
そもそも「漫画映画とは何か」を定義すること自体が難しい。「アニメーション」作品の総称なのか、技法上の区分――いわゆるドローイング(手描き)のセルアニメーションのみを指すのか、対象年齢層やテーマや表現の娯楽性に縛られるのか否か、これらすべてが曖昧で判然としない。
まず、その呼称変遷の経過をたどり、論を進める前提としたい。
1910〜1911年頃、日本では『凸坊新畫帖』と題された多くの短編アニメーションが劇場で上映されていた。それらは、『日本アニメーション映画史』(山口且訓・渡辺泰共著、プラネット編、有文社、1977年)によると、1908年にフランスのエミール・コールが制作した『ファンタスマゴリー』に始まる「ファントーシュ」シリーズなどが改題されたものだったらしい。
「凸坊」はもともと漫画家・北澤楽天が描いた人気キャラクターの名だが、「漫画」「漫画映画」の代名詞として用いられた。「漫画映画」の呼称はすでにあったが、一般には「凸坊」と呼ばれており、実写映画とは明確に区別された一つのジャンルと見なされていた。
1917年、日本初のアニメーション作品といわれる下川凹天の『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』、北山清太郎の『猿蟹合戦』、幸内純一の『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』2 が連続公開された。フィルムの一部が現存するのは『なまくら刀』のみだが、タイトルには「漫画映画」とは記されていない。
1920年代に制作された短編作品群にはメインタイトルの前に「線画」「漫畫」3「まんが劇」等さまざまな付記がされている。要は自ら実写との区分を主張しているわけだが、その呼称が統一されていない。
『日本アニメーション映画史』によると、1921年に文部省推薦映画制度で劇映画、記録映画、漫画または線画映画として区分が打ち出されたとある。「漫画」と「線画」の差異については、「〝漫画映画〟はいわゆるストーリー性のある物語を動画映画化したものだ。これに対し〝線画映画〟というのは、機械構造の図解や動物・植物の内部組織を描いた線を動かして見せる映画」とされていたらしい4 。
しかし、一般にこのような用語の区分が浸透していたとは思えず、制作者側にも積極的に統一を図る動きもなかったと思われる。なぜならば、「漫画映画」も「線画」も劇映画の添物という差別的な扱いであり、作品数も少なく技術水準も制作工程もバラバラであったからだ。むしろ、用語の統一で同種に括られるよりも、勝手な命名で独創性をアピールした方が作品の宣伝や販売に都合が良かったのかも知れない。
以上、日本での「アニメーション」の呼称は起点までたどっても柔軟かつ曖昧であり、この傾向は以降もずっと続いていく。
1925年、後に東映動画創設に関わった山本早苗は、「山本漫画映画製作所」を設立。「漫画映画」を社名にしているが、制作作品のサブタイトルには「教育線画」「線畫」5 も使用されていた。
1926年、大藤信郎は「自由映画研究所(後に千代紙映画社に社名変更)」を設立。大藤は千代紙による切紙作品を多数制作、「千代紙映画」と呼称した。そこには「漫画」「線画」との技法的差別化や独創性の主張が込められていたと思われる。
1930年代になると短編制作が活発化し、大石郁(郁雄)の「大石線画製作所(後に大石光彩映画社に社名変更)」、政岡憲三の「政岡映画製作所(後に政岡映画美術研究所に社名変更)」などが設立された。
1937年には、大藤信郎のセルアニメーション『カツラ姫』の制作工程を記録したドキュメンタリー『色彩漫画の出來る迄』6 が制作されている。カラーでセル彩色が行われているが、呼称は「色彩漫画」だ。
同年、政岡は京都で「日本動画協会」を設立。「動画」を「アニメーション」の訳語として広めていく。「線画」も引き続き制作されていたが、制作本数の増加に比して「漫画」「動画」の存在感が次第に「線画」を上回っていったと思われる。ただし、これらの呼称はドローイングやカットアウトの「画(絵)が動く」アニメーションが主な対象だったと思われ、立体物を動かすストップモーションその他の技法の作品についても拡張適用されていたのかどうかについては不明だ。
1940年代になると状況は大きく変化する。
1941年、先鋭的映画評論家であった今村太平が『漫画映画論』(第一芸文社)を著している。今村の論じた対象は主にディズニーであったが、日本や各国の事情についても採り上げたうえで、「漫画映画(cartoon film)」と総称していた。わずか1,000部の発行であり、今村の著述が一般に広まっていたとは思えないが、「漫画映画」を実写と並ぶ芸術的ジャンルとして高評価し、将来量産される可能性まで示唆していた。ただし、情報不足ゆえか作業工程の解釈には多くの誤解も含まれていた(作画の発展により実写の引き写しとなった等)。
一方、第二次世界大戦に動員された制作者も数多く、動員を逃れた者に海軍からの戦意高揚目的の作品発注が増えるなど、情勢が激変した。
1942年、海軍省の後援を得て『桃太郎の海鷲』が藝術映画社で制作された。翌1943年、同作品は「長篇漫画」(実際は37分の中編)と銘打たれて公開された。1945年には、日本初の長編アニメーション『桃太郎 海の神兵』が公開され、その広告には「長篇戦記マンガ映画」と正式に謳われた。『桃太郎 海の神兵』と政岡の傑作『くもとちゅうりっぷ』(1943年)の制作は「松竹動画研究所」であった。
敗戦直後の1945年10月、苦境に立つ個人作家が大同団結して「新日本動画社」を設立。1カ月後にさらに参加者を増やして「日本漫画映画社」と社名を変更した。山本早苗、政岡憲三、切紙の村田安司、影絵の荒井和五郎らが中心メンバーであったが、2年足らずで解散。
1948年、政岡と山本らは「日本動画社」を創設して再出発する。社名も作家も「動画」と「漫画」を行き来し、結局「動画」に落ち着いたというわけだ。しかし、政岡は資金難から制作を断念し現場を離れた。
1952年、「日本動画社」は「日動映画」と改称。1956年東映は「日動」を買収、所属スタッフを新会社「東映動画」の中心に迎え入れた。そのメンバーは、政岡の盟友・山本早苗、政岡を師と仰いでいたアニメーター森康二、大石郁(郁雄)門下の芦田巌の下で独学で技術を磨いたアニメーター大工原章、演出の薮下泰司といった面々だった。戦後さまざまに分化・淘汰された末に、日本の「漫画映画」主勢力がここに糾合・濃縮されたと言える。
1958年、東映動画で制作された日本初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』は、宣伝ポスター等で「総天然色長編漫画映画」と銘打たれて公開された。東映社内向冊子などでは「アニメーション」という用語も使用されていたが、この頃には新聞・雑誌などの紹介記事や批評ではほぼ「漫画映画」に統一されている7 。
その後、東映動画では1970年代までほぼ1年に1作品ずつ新たな長編が制作された。「総天然色大型長篇漫画」「色彩長篇漫画」など宣伝文句は各作品で異同があるものの、映画の一ジャンルとしての社会的認知が進み、「漫画映画」の呼称が定着していったのではないか。当時の映画興行は短編は添物、長編映画こそがメインであった。一方で制作会社名には「動画」が使用され、その後も「漫画映画」と「動画」の併用は続いた。
1970年代末には「漫画映画」や「動画」の呼称は聞かれなくなり、以降現在に至るまで「アニメ」という略語のような新語で済まされることが一般化された。社会的ブームの到来と若者によるファン層の形成、「アニメ雑誌」の相次ぐ創刊などの状況が重なり、用語も刷新されたことで急速に普及した。ただし、「アニメーション」と「アニメ」が同一の意味(単なる略語)として使用される場合も、異なる意味で使用される場合(後者は前者の一部とする)もあり、境界線は変わらず曖昧なままである。
なお、一部のスタジオに社名として「動画」も残り続けている(動画工房、神風動画など)が、「東映アニメーション」のように「動画」を「アニメーション」に商号変更したケースもある。
以上、駆け足で通史を追ったが、「線画」「漫画」「動画」など「アニメーション」の呼称は常に揺れ続け、実質的に「漫画映画」として安定したのは1950年代から1970年代までの四半世紀ではないかと推測する。それは東映動画の創設と初期長編の制作時期と重なる。本稿では、これを黄金期と捉え、特にその後期に制作された幾多の長編の特徴を「漫画映画」の判別基準と仮定したい。
「漫画映画」黄金時代の最大の牽引軸は、1958年の『白蛇伝』以降毎年1作品のペースで公開された東映動画のセルアニメーション長編であった。長編は予算も制作規模も公開規模や社会的反響も、短編とは比較にならない。
初期の長編演出を歴任した藪下泰司は、「漫画映画とその技術」(島崎清彦編『映画講座4 映画の技術』三笠書房、1954年)に以下のように記している。
現在の日本では、漫画映画の殆んどすべては主として教育方面の期待に対して製作されているので、その企画は先ず少年たちに対する善意から出発する
島崎清彦編『映画講座4 映画の技術』三笠書房、1954年、203ページ
一言で総括すると「漫画映画は少年少女を主人公とした健全な作品が制作の前提だ」という認識である。初期の東映動画のスタッフたちが(教育方面ではなく商業映画であるにもかかわらず)この制作動機を遵守していたことは明らかだ。『白蛇伝』の原作は中国の民間説話で白蛇の精が僧侶に退治される話だが、映画は悲恋に重点が置かれ、和解を迎える結末も優しい。『白蛇伝』で原画を担当したアニメーターはクレジットでは森康二と大工原章のたった2人(後半の原画は、大塚康生・中村和子・楠部大吉郎らも担当)であったが、その「善意」と熱意は各シーンにあふれていた。それは「漫画映画」の一つの到達点であったと言える。
当時漫画家志望だった宮崎駿は、大学受験の最中で『白蛇伝』を鑑賞した。それがすべての始まりであった。
宮崎は、後日当時の記憶を切々と記している。
未熟なそのときのぼくには、『白蛇伝』との出会いは強烈な衝撃を残していった。
マンガ家を志望して、流行の不条理劇でも描こうとしていた自分の愚かさを思い知らされたのだった。口をつく不信の言葉と裏腹に、本心は、あの三文メロドラマの安っぽくても、ひたむきで純粋な世界に憧れている自分に気づかされてしまった。世界を肯定したくてたまらない自分がいるのをもう否定できなくなっていた。
それ以来、ぼくは真面目に何を作るべきか考えるようになったらしい。少くとも、恥ずかしくても本心で作らねばダメだと、思うようになっていた「講座 日本映画7」『日本映画の現在』岩波書店、1988年、147ページ
『白蛇伝』を見て、目からウロコが落ちたように、子どものすなおな、大らかなものを描いていくべきだと思ったわけなんです。しかし、親というものは、子どもの純粋さ、大らかさをややもすれば踏みにじることがあるんですね。そこで、子どもに向かって「おまえら、親に食い殺されるな」というような作品を世に送り出したいと考えたのです(中略)そういう出発点が、二十年間たった現在でも継続されているわけです
「自分の原点」アニメーション研究会連合主催講演、1982年
『風の谷のナウシカGUIDEBOOK』徳間書店、1984年、173ページ
宮崎は1963年に東映動画に入社した。先の動機を掲げて制作に勤しむ諸先輩の思想的・技術的影響を受けたと考えるのは自然だ。宮崎は、1972年の退社まで東映長編で基礎技術を習得し、腕を磨いた。まさに「漫画映画」の黄金期・円熟期の10年間だったと言える。
また、後年スタジオジブリの社屋(現在は第一スタジオ)の建設に着手する前に、以下のように発言している。
対象年齢を変えて作品をつくってみることがあったとしても、中心はやはり子どもたちのための楽しい映画をつくる(中略)いま日本にいる子どもたちの現実を、子どもたちの願いもふくめて描き、子どもたちが本当に心から喜べるようなフィルムをつくりたい。そういう根本的な自分たちの立場というのは、絶対忘れちゃいけないと思うんです。それを忘れたときに、このスタジオは滅びるだろうと思う
『アニメージュ』1991年5月号、93ページ
1985年のスタジオジブリ創設以降、宮崎の監督作品の人物設定や舞台はさまざまに変転したが、制作の根本には薮下が記した先の制作動機が堅持されていたはずである。初志貫徹というわけだ。
東映動画のアニメーションは、森康二と大工原章という対照的な二人のアニメーターによって創始された。端的に言えば、初期東映動画の「漫画映画」はこの二人の表現の振幅によって成立していた。創設当初社内のアニメーターはプライベートまで二派に分かれており、それぞれの派生・継承によって、その後の表現が枝分かれしていった。
宮崎駿が、森康二を尊敬していたことはよく知られている。宮崎は労働組合の同志と共に、森を作画監督として結束するグループに属していた。森は後年「「諸君 脱帽したまえ」と声をかけるべきような出現」と記しており8 、早くから宮崎の才能を認めていた。
森の描く、愛らしい少女や動物たちは立体的な整合性が感じられ、完成された美しさがあった。繊細かつスローテンポの芝居は、宮崎だけでなく多くの後進の憧れの的であった。それは広い「空間」や舞台装置に依存せず、設計されたキャラクターの演技に観客の視線を集中させる、言わば自然主義的で精密なアニメーションである。森の作画には、先の「少年に対する善意」を体現する高潔さが感じられた。宮崎にとって、森の作画に取り組む姿勢や表現が一つの規範となったと思われる。
ぼくは、もりやすじさんの良い弟子とはいいがたい。新人の頃から、攻撃的で、厚かましく傲慢だった。もりさんの仕事を、古くさいとしか見ていなかった。その癖、妙なことに、もりさんは自分達の一番の理解者であり、何か新しい試みをする時、必ず支持してくれると思い込んでもいた(中略)こんなぼくにもりさんは本当に寛大だった。
(中略)ぼくらは、もりさんから何かを受けとった。リレーのように、そのバトンが、次の人々に伝えられますように……宮崎駿「短い言葉」、森康二『もりやすじの世界』二馬力、1992年
宮崎駿『出発点 1979~1996』徳間書店、1996年、246〜247ページ
一方大工原は、表現主義的かつ大胆なアニメーションを得意とした。キャラクターデザインも別人のように毎回趣向を変え、奇妙な崩れや歪みを含ませていた。
長編の見せ場には、目まぐるしいアクションや派手な舞台移動が不可欠だ。大工原は、キャラクターの滑稽かつ特異なポーズや、仕草の緩急の誇張などの即興的演技を次々と採用し、時に原作や脚本の進行を破壊してしまうほどのオリジナリティを発揮した。そして、縦横無尽に動き回るためには広い「空間」の設計が不可欠だった。
大工原によれば、師である芦田巌が毎回スタイルを変え、鷹揚な作品づくりを行っていたことから、自身もその影響を受け「人目をひくおもしろい演技」「奇抜な設定や舞台背景」「人より早く大量に描ける作画法」を追求した結果だったと言う。宮崎の空間・演技・処理速度の発想法は、実は大工原に近い。しかし、宮崎自身が大工原の影響を語ったことはなく、その影響を指摘する批評も皆無である。なぜか。その理由は大きく分けて二つある。
第一に、もともと器用で多作だった大工原は、シーンやカットの整合性や演技を時間をかけて練り上げることに執着がなかった。一部の奇妙なキャラクターも後輩たちに不人気だった。独創的で長編が斜陽化し原作漫画主導型のテレビシリーズの省略技法が全盛となって以降、大工原はその流れに適応して持ち味を発揮できずに第一線から退いた。より高次の表現を目指す宮崎ら若手にとっては、大工原は早い時期に学びの対象から外されていた。
第二に、大工原と森の作画法を洗練させて後続作品で実践し、後進に精力的かつ論理的に伝えた人物が新人時代の宮崎らを指導していたからである。それは大塚康生である。
大塚はディズニーの作画技術の基礎を説いた教本であるプレストン・ブレア著『Animation: Learn How To Draw Animated Cartoons』(1949年)を独力で翻訳・複写し、それらの応用を担当シーンで実践的した9 。大塚は、あらゆる優れた作画の先行例から学び、それらを吸収・統合しようと努力した稀有なアニメーターであった。大多数の若手にとって、即興的にスタイルを崩す大工原や、不変のスタイルを貫く森は、彼方に仰ぎ見る存在であった。これに比して、大塚は共に語らう「兄貴分」であった10 。結果として、大塚は初期東映動画に集うアニメーターたちのイデオローグであったと評価できる。
宮崎は大塚を通じて、大工原の技術を間接的に享受していたと言える。
宮崎駿が設計する「空間」は多彩なギミックに満ちており、上へ下へと忙しく行き来する縦型の舞台は極めて魅力的だ。再び宮崎自身の言葉を引こう。
僕にとっての本当の漫画映画の面白さというのは、一つの世界を作って、その空間を使い切って、起承転結ここでおしまい、というのが、一番見てて楽しく、自分でもやる気が起こる世界だなあと。漫画映画ってのは嘘なんです。嘘だから大きな嘘ついて、でも本当のことも少しは入ってるなあという感じがあるといいなあと思う
『また、会えたね!』151〜152ページ
『長靴をはいた猫』(1969年)の魔王ルシファーの城(デザインのまとめは美術監督の土田勇)、『どうぶつ宝島』(1971年)の海賊船ポークソテー号やグラタン号、『未来少年コナン』(1978年)の三角塔、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)のカリオストロ城、『天空の城ラピュタ』(1986年)のラピュタ内部、『千と千尋の神隠し』(2001年)の油屋など、宮崎が考案・設計した縦型の舞台は枚挙にいとまがない。いずれも外界と隔絶された密室であり、舞台そのものが物語と密接につながっている。その場所を忙しく動き回るキャラクターは懸命であるほど滑稽で愛おしい。
これらは、独力で築き上げたものではなく、先行作品の成功例を総括し凝縮したものだと考える。その源泉をたどってみたい。
『カリオストロの城』の中盤、ルパンは北の塔に幽閉されたクラリスを救出すべく、急勾配の青い三角屋根を登っていく。その斜め上からの俯瞰の構図は、高さや危うさが強調され強烈な印象を残す。この前後の画面設計が、ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』(1952年)のタキカルディ王国の高層階に酷似していることは有名だ。二作品の舞台である城は、延々続く外階段で上階と下階が結ばれている点も共通している。グリモーは特定の人物に感情移入させない群像劇として演出しており、全体状況が客観的に描写される。しかし、宮崎演出は主にルパンに寄り添って設計されており、表層的な絵づくりは似ていてもシーンから受ける印象はかなり異なる。
実は、このシーンの源泉と思しき作品はもう一つある。東映動画の長編第二作『少年猿飛佐助』(1959年)の修行シーンである。佐助が戸隠山の高い崖を登るシーンの俯瞰、遠く離れた岩山を飛石のように軽快に渡って行く真横のレイアウト。これらは『カリオストロの城』の当該シーンとよく似ている。その上『少年猿飛佐助』の演出は、どちらかと言えば主人公寄りだ。
この作品の演出は大工原章が担当した(クレジットでは薮下泰司と共同演出だが、場面設計は大工原が中心だったとされている)。大工原は上下に展開する縦の空間、手前から奥へと広がる深い空間を頻繁に用いて、その中を動き回るアクションを得意としていた。
大工原が作画監督を務めた長編『わんわん忠臣蔵』(1963年)の後半では、ジェットコースターを舞台に高所落下の危機や、迫り来るコースターの恐怖などが盛り込まれている。このシーンは『天空の城ラピュタ』前半のスラッグ渓谷を走る軽便鉄道の追っかけから谷底への落下に至るシーンに似ている。『わんわん忠臣蔵』は、宮崎が東映動画に入社して初めて動画を担当した作品であり、何らかの刷り込みがあった可能性が考えられる。
大塚康生は、東映動画創設に動画として参加。短編『こねこのらくがき』(1957年)では森班、長編『白蛇伝』では大工原班で指導を受けた。大塚は『少年猿飛佐助』で正式に原画に昇格し、同作で大工原が試みた俯瞰の画角を以降の作品で発展させた。
同時期に大塚は、『白蛇伝』で演出を担当した薮下泰司に、「『白蛇伝』で主人公たちが画面の右手から左手に動くケースが多いのと、俯瞰など複雑な構図をとられないのは何か特別な事情があるのでしょうか」という質問をしている。これに対し、薮下は「芝居や歌舞伎などの舞台の約束から影響されているのだと思います。それにアニメーターは右利きの人が多いので、左向きの顔が描きやすい、といったこともあるでしょうね。俯瞰や極端なあおりはキャラクターが崩れたり、不自然なポーズになることが多いので避けるようにしています。それだけではありません。アニメーション映画の観客は幼児が中心ですから、複雑な画面にはついてこられなくなることは避けなければなりません」と答えたという11 。
大塚には、もっと複雑で高度な画面づくり、大人の鑑賞も前提とした作品づくりがあっても良いのではないか、といった疑問もあったと思われる。この問題意識こそ「漫画映画」の発展にとって、極めて重要であったと考える。
大塚は、長編第三作『西遊記』(1960年)のラスト牛魔王と悟空の決闘シーンで、より高所にカメラを上昇させ、空中から撮影したかのような俯瞰を描いている(同シーンではディズニー式の潰し・伸ばしの誇張「ストレッチ&スクオッシュ」も導入している)。長編第六作『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)では、月岡貞夫と共に真下から見上げるアオリや、崖を這うように奥へと高速移動するカメラワークなど、斬新な空間作画を次々と導入した。結果として、その活力に満ちた変幻自在の作画は、幼児たちだけでなく10代の子どもたちを魅了し、結果的に観客の年齢層を引き上げた。高低差のある画面構成と舞台の構築は、その後のアニメーションに多大な影響を与えた。
『長靴をはいた猫』の後半、三つ首のドラゴンに変身した魔王ルシファーが、主人公ピエールとペロを階段の下から追いかける大塚が担当したシーンがある。その直後、階上の跳ね橋に逃れたピエールたちと、階下で橋の開閉をコントロールするルシファーの「上下」が連動する。縦空間の密室と物語が見事につながり、高低差によって劣勢と危険が瞬時に観客に伝わる。宮崎が設計した舞台を大塚がおもしろがって膨らませ、腕を奮って完成させたシーンである。こうした宮崎の高低差を活かした構想は、この作品を起点に以降の作品でも繰り返される定番となっていく。その元は大工原の即興性と開拓精神を引き継ぎ、森の設計思想と複合させて高次に引き上げた大塚の功績が大きかったと考える。
よって、宮崎演出による「漫画映画」の頂点と言うべき『未来少年コナン』と『カリオストロの城』の作画監督を大塚康生が担っていたことは、極めて重要である。宮崎の作品には、大塚から受け継いだもの、大塚の技法を独自に発展させたものが息づいている。
なお、2000年代となってから、「漫画映画」を冠した大きなイベントが2件あった。2001年6月から7月に東京都写真美術館ホールで開催された特集上映プログラム「宮崎駿 漫画映画の系譜 1963-2001」と2004年7月から8月に開催された東京都現代美術館の企画展「日本漫画映画の全貌 その誕生から「千と千尋の神隠し」そして…。」である。どちらも大塚康生が監修を担当した。
さかのぼれば、大塚の師は大工原章、大工原の師は芦田巌、そして芦田の師は大石郁(郁雄)である。森康二の師は言うまでもなく政岡憲三だ。奇しくも、大石と政岡という戦後「漫画映画」の対照的な二つの潮流の遺伝子が、宮崎の中で息づいていることになる。
過去の宮崎作品の宣伝で「漫画(マンガ)映画」と銘打たれた作品が二つある。
『天空の城ラピュタ』ではポスターにキャッチコピーとして「愉しきかな 血湧き 肉躍る 漫画映画」と刷り込まれた。また、『紅の豚』(1992年)では、企画時に記された「演出覚書」に宮崎自ら「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」と記している。『紅の豚』について宮崎は「本来は子供たちに向けて作るべき」と後ろめたさを語っていたが、作品は中年対象でも善意と楽天性を失っておらず、子どもたちにも広く支持された。
世紀を跨いでアナログがデジタルに変わり、アニメーションの表現領域は拡張し、個々の描写はさらに精緻を極めることが可能となった。それでも宮崎作品がいまだ他の追随を許さず、孤高の存在たり得ている根拠の一つは、底流に「手描き」で表現することへのこだわりや、善意を核とした古典的な「漫画映画の志」が息づいているからではないか。
大工原は晩年、筆者に以下のように繰り返し語っていた。
「物語のおもしろさを見せるのなら実写でもいい。動画は動画にしか出来ないものを見せるべきだ。自分が一番おもしろいと思う動画は宮さん(宮崎駿)の作品だ。頭の大きなお婆さん(『千と千尋の神隠し』の湯婆婆)のデザインは一目で誰でも注目する。観客に向かって迫るようなカットもいい。寄せ集めのような変な城がガチャガチャ動く(『ハウルの動く城』〔2004年〕)のも好き。いつも奇想天外なものが、予想外の動きをする。あれこそ本当の動画のおもしろさだ」
大工原は宮崎を自身が創始した技法や技術思想の継承者として認め、影ながら応援していた。
公開中の宮崎の最新作『君たちはどう生きるか』(2023年)は、本稿で触れた「少年に対する善意」を核として「縦型密室」を舞台としている。目眩くイメージの連鎖で綴られた展開は一見難解に思えるが、普遍的な「往きて帰りし物語」を踏襲しており、骨子は明快だ。物語の整合性やシーンのつながりより「即興的なおもしろさ」を優先的に追求するという点では、むしろ「漫画映画的」だ。ただし抽象的寓意が重層的に散りばめられている点は、単なる娯楽作品とは言い難く、進化形または変異種のようにも思える。
『君たちはどう生きるか』の主な時代設定は「戦争がはじまって4年目(1945年)」であり、主人公の少年・眞人は11歳(1934年または1933年生まれ)だ。パンフレットには「自伝的ファンタジー」と記されているが、1941年生まれの宮崎監督はこの時代はまだ幼児のはずだ。眞人はむしろ1931年生まれの大塚の歳に近い。そこに先輩世代への憧れや敬意も感じる。
あえて括れば、前半の丁寧な日常描写は森康二的であり、後半の奇妙なキャラクターたちは大工原章的であり、二つの世界を行き来するアオサギ男は大塚康生的なコメディリリーフだ。二足歩行の擬人化された鳥たちも「漫画映画」的デザインだ。
森は1992年、大工原は2012年、大塚は2021年に逝去した。もし存命であれば、3人とも『君たちはどう生きるか』をおもしろがって観たのではないか。
宮崎は40年以上前に次のように語っていた。
かつて漫画映画を切り拓いた先輩が、自分達の世界を作るために考え出した技術とか手法とかを、俺達は今の状況に適応させて安っぽくやってるだけじゃないかっていう思いがあるんです。経済的条件は、劇場がほとんど市場としてないに等しいんで苦しいけど、でも諦めたくないですね。……見た少年が、家へ帰って来てね、呆然となってて一言も口に出さない。もったいなくて、他人に喋れないんだよな。泣きたいくらいの憧れをかきたてられて……。そんな漫画映画、いつか作りたいなァ……って
『また、会えたね!』152〜153ページ
宮崎は、傑出した劇場用長編を精力的に監督し続け、日本の映画興行記録を塗り替え、「漫画映画」の底力を見せつけ、市場の勢力図さえ刷新した。初めて7年の長期制作を経て完成した本作は、長年の夢の実現であったのかもしれない。宮崎は、近年自身の作品を「通俗文化」の末裔であると繰り返し語っており12、「漫画映画」もその構成要素の一つと考えているようにも思える。
82歳の宮崎が渾身の力で紡いだ「通俗文化」である「漫画映画」のバトンが、日本のアニメーションに担う次世代に受け継がれることを願う。
脚注
※URLは2023年8月29日にリンクを確認済み