岩下 朋世
写真:畠中 彩
マンガ家の水野英子を発起人として、1999年から2000年にかけて開催された「少女マンガを語る会」。『ベルサイユのばら』『ガラスの仮面』『ポーの一族』など、現在でも名作として読み継がれる作品が立て続けに生まれ、少女マンガに革新が訪れた時代として知られる1970年代より前にあたり、それまで十分に語られてこなかった1950年代、60年代の少女マンガ。この座談会では当時の少女マンガに関わったさまざまな人物をゲストに招き、この時代に焦点が当てられました。本稿では、この座談会に参加し、記録集の制作にも携わった米沢嘉博記念図書館のヤマダトモコ氏に、マンガ研究者である岩下朋世氏がインタビュー。「少女マンガを語る会」の概要と1950年代、60年代の少女マンガの変遷を明らかにします。
――今日は「少女マンガを語る会」(以下、「語る会」)についてお話しいただきたいと思います。マンガ家の水野英子先生を発起人にさまざまなマンガ家や編集者も参加した座談会で、1999年から2000年にかけて全4回行われた。それをまとめた『「少女マンガを語る会」記録集』(以下、記録集)が2020年に出たということですね。
ヤマダ そうですね。記録の最終が2000年で、記録集が出たのが一昨年です。
――記録集が出るまで実に20年越しということで。以前から「語る会」についてはいろいろとうかがっていて、調査にも一部協力させていただきました。2020年に刊行された記録集の時点では科研費の成果報告書としてのものだったわけですが、この度、青土社から『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』として出版されるということで、おめでとうございます。
ヤマダ ありがとうございます。
――この「少女マンガを語る会」、そしてその記録集。どちらも多くの点で重要な意味のあるものだと思いますが、特にいろいろなことの「起点」になったものとしての「少女マンガを語る会」についてうかがえればと考えています。「起点」というのは、具体的には、参加者の先生方のその後の活動にとっての起点というのが一つ。「語る会」に参加して自身の活動を振り返ったことをきっかけに、自作についてあらためて語ることになって自伝をまとめられたり、あるいは「語る会」でのつながりをきっかけに作品が読み直されたり、復刊につながったりしました。それが、これまであまり顧みられてこなかった1950年代、60年代の少女マンガの再評価の動きにも関わってもきたわけです。つまり、「語る会」はマンガ研究、特に少女マンガ研究における、少女マンガ史の再検討の「起点」でもあります。それからもう一つ、ヤマダさんご自身のその後の仕事にとっても「語る会」に協力されことは大きなきっかけ、「起点」と言えるのではないかと思います。そうした「起点」としての「語る会」についてうかがっていきたい。
まずは、この記録集に寄せられた文章でも書かれていますが1、「少女マンガを語る会」が成立した経緯、そこにヤマダさんがどういうふうに関わられたのかをお話しいただければと思います。1998年に川崎市市民ミュージアムで開催された「少女まんがの世界展」を水野英子先生がご覧になられたことが一つのきっかけとのことですが。
ヤマダ 水野先生とそれ以前にも一度お会いしたことはあったのですが、まとまってゆっくりお話しさせていただいたのはこのときが最初でした。初めてお会いしたのは『少女クラブ』(講談社)のマンガ家さんや編集さんが集まった「少女クラブ同窓会」(1998年1月28日開催)です。
――このイベントについては、「20世紀の少女まんが」特集が組まれた『COMIC BOX』1998年8月号(ふゅ〜じょんぷろだくと)の記事でも水野先生のインタビューが掲載されていますね。この号にはヤマダさんの商業誌デビューとなる評論「まんが用語〈24年組〉は誰を指すのか?」も掲載されています2。
ヤマダ 「語る会」でも話題になっていますが、この当日に石ノ森章太郎先生が亡くなられていたという。このイベントに私も行っていて、そのときにお会いしていたんです。でもそのときは、そんなにいろいろ話はしていなくて。
――「少女クラブ同窓会」で初めてお会いして、その後「少女まんがの世界展」の際に水野先生が来てくださったのですね。
ヤマダ この頃は「少女まんがの世界展」の準備や「まんが用語〈24年組〉は誰を指すのか?」を書くなかで、1970年代より前の作品を調べなくては駄目だと考え始めていた。そういう関心があったところに水野先生がこられて、1970年代より前の「少女マンガの歴史が何も記録がないから記録をとりたいと思う、お手伝いしてくれないですか」とおっしゃられて。自分の問題意識とも重なっていたので、私が質問役になって、マンガ研究仲間の当時川崎市市民ミュージアム漫画部門の学芸員だった細萱敦さんや、同僚、というか先輩研究者の秋田孝宏さんと一緒に、いろいろとお手伝いをした。それが始まりです。私がやったことはそれだけで、当時は水野先生が自分で記録をまとめるつもりでいらしたんです。しかしなかなか実現が難しく、そのうちに出版社探しとか、テープ起こしをまとめる作業や注記の指定を入れその調査などもするようになった。
――1970年代以前への関心ということでは、1998年の「少女まんがの世界展」の際には同時に開催されたという「出版資料にみる少女まんが展」も開催されており、それもその契機になったのではないでしょうか。
ヤマダ 「出版資料にみる少女まんが展」は私が最初に監修・キュレーションした展示です。この展示の内容は後にフランスのアングレーム国際マンガ祭にも持っていきました(2001年開催の第28回における日本特集内での「少女マンガへの誘い展」)。「少女まんがの世界展」のほうは企画会社から持ち込まれたものでした。公的機関での少女マンガの展示という意味では、おそらく日本で初めてに近いすばらしい展示でしたけど、集英社系(集英社と白泉社)中心の展示だったので、それだけでは少女マンガの世界とは言えない、さすがに限定されすぎだろうと思って、その横のギャラリーでもっと幅広く少女マンガを扱ったものを資料だけでたどる展示をやりたいと言ったらできることになったんです。
――「出版資料にみる」とあるのは、そういう経緯もあって原画などは使っていないからということですね。明治・大正からの少女雑誌あたりから歴史をたどっていく内容で、赤本マンガも紹介されていますね。
ヤマダ 川崎にあった赤本です。少女雑誌については所蔵がないものは、マンガ誌では無いですが最初の少女誌といわれる『少女界』創刊号(金港堂書店、1902年)を弥生美術館から借りたり、独立してまだ千里中央にあった頃の大阪府立国際児童文学館からも貴重な資料を借用したりしました。この展示では戦前から現在の少女マンガまでを紹介したのですが、1970年代以前の少女マンガについては、まだまだ全然たりていないと思っていました。ちなみに、おそらく公的な施設で最初にコミックマーケットを紹介したのはこの展示だと思います。コミケ参加者の中心は男の人だと思われているかもしないけど、実は女性の参加者のほうが多かったことを資料をもとに伝えました。
――そのことは「マンガにはなんだか見えない階級があるみたい」(『草思』2004年10月号、草思社)でも書かれていますね。
ヤマダ 水野先生は「少女まんがの世界展」とその横のギャラリーでやっていた「出版資料にみる少女まんが展」を見て、その帰りに寄ってくださったみたいです。「出版資料にみる少女まんが展」では『少女クラブ』のところで水野先生の『黄色いリボン』やU・マイア(石ノ森章太郎・赤塚不二夫との合作ペンネーム)を紹介していたんですが、「少女まんがの世界展」では1970年代より前の作家は誰も紹介していなかったので、先生も何か感じてくださったのかもしれないです。
――当時は、70年代以前、1950年代、60年代の少女マンガというものが、あまり視界に入っていなかったところはありますね。今でもそうかもしれませんが。
ヤマダ 今では電子書籍もいろいろと出て、水野先生たちの作品が読めるようになっていますが、当時はこのままでは本当に読めなくなってしまうという危機感がありました。
――そうですね。特に60年代やそれ以前に活躍された先生方だと、やはり連載したものが単行本にまとまるという時代ではない。
ヤマダ 少女マンガの新書版の単行本出版の流れが67年以前にはないので。私が小さい頃は、マンガは世の中ですごく馬鹿にされていて、さらに少女マンガはもっと軽く見られていた。だから、このままの状態では少女マンガの歴史が残らないんじゃないかという危機感がありました。98年になってもです。今では電子書籍でかなり読めるという信じられない世界が展開しているけれど、それでもただモノだけあっても、古いものが好きという人でもないとその価値がわからない。
――積極的な関心を持っている人でないとたどり着けない。
ヤマダ 積極的な関心を持とうにも、いまだに「少女マンガって目がすごくキラキラしてて古くさいもの」と見られてしまう。揶揄だけがスライドして、すべての年代の少女マンガに当てはめられてしまう。
――そうそう。「目が大きい」というのはいまだに言われますね。確かに大きいんですが、大きくて何が悪いのかと言いたい。
ヤマダ 大きいけれど、意味があるんですよね。この間、とある大学でゲスト講師としてお話ししたときに昔の少女マンガを見せたら「昔のマンガって、みんなこういうふうに目が大きくって似たり寄ったりだけど、今のマンガはそれぞれ違っている」と言う学生がいて、「いや、目が大きいといっても、一つずつ見ると作家ごとに違いがあるんだよ」と説明して、当時の先生たちに話を聞くと「私たちの頃はバラエティーがあったよね」と言うのだという話をすると「えー!」という反応でした。みんな何となく目立つものだけ、揶揄されるような部分だけ見て、そういう時代があったと結論づけてしまう。「少女マンガはそういうもの」という思い込みがちゃんと中身を見ようとするときに邪魔をする。70年代より前の少女マンガに素晴らしいものはなかった、70年代にすごいことが起こって素敵なものがいっぱい出てきたという言説に惑わされてしまう。
――70年代史観というか「花の24年組」史観というか。そういうものは今でも根強く残っていますよね。
ヤマダ 史観ですらないのかも。私はかつてマンガ専門書店で働いていたのですが、同僚の自分より若い子に少女マンガの話をしたら萩尾望都を見ても「いや、こんなまつ毛がキラキラしたものではなくて、私は吉田秋生が好きなんだ」なんて言う。少女マンガへのレッテルのようなものがいろんなところに移動している。そんななかで70年代より前の少女マンガは埋もれてしまっている。岩下さんも「手塚治虫は少女マンガの起源」だとよく言われるけど、言及されるのは『リボンの騎士』ばかりだと指摘されていますよね。
――手塚だったら『リボンの騎士』だけが評価されて、あとは全部すっぽ抜けて70年代に直結されてしまう。今でもそういう部分あるかなとは思いますが当時はより顕著だった。そういう状況に一石を投じたという意味でも1950年代、60年代の作家の発言を「語る会」で集めていったのは重要なことです。
ヤマダ 「語る会」のおかげかどうかはまったくわからないけれど、第3回にオーディエンスとして弥生美術館の方が参加していて、その後に弥生美術館で「牧美也子・水野英子・わたなべまさこ展」(2000年10〜12月)、「倉金章介・上田としこ・今村洋子」展(2001年7〜9月)が開催されたりもしました。倉金先生以外は「語る会」に参加された先生方です。花村えい子先生やわたなべ先生も、先生ご自身で自伝を出版なさいました。ちばてつや先生が自分を語る本のなかで少女マンガのことをきちんと語られるようになったことにも「語る会」の影響があるんじゃないかなと思います。
――わたなべ先生は2008年に『まんがと生きて』(双葉社)を花村先生は『私、まんが家になっちゃった!? 漫画家・花村えい子の画業50年』(マガジンハウス)を2009年に刊行されていますね。ちば先生も『ちばてつやが語る「ちばてつや」』(集英社、2014年)ではかなり少女雑誌での仕事についても話されています。いろいろと見えない影響があった。
ヤマダ だったらいいなと思います。
――一方で、水野先生はもともと自分たちの世代の記録を残しておこうという意識を持ってらっしゃって「語る会」の発起人をされ、その後も積極的にずっと発言されていて、トキワ荘に集った作家たちによる少女マンガ作品を集めた『トキワ荘パワー!』(祥伝社、2010年)を『少女クラブ』の編集者だった丸山昭さんと監修されたりもしています。
ヤマダ あの本については、「少女マンガパワー!-つよく・やさしく・うつくしく-」展(川崎市民ミュージアム、2008年)のタイトルがよかったので、使っていいかしらってわざわざ聞いてくださいました。この展示タイトルは、カリフォルニア州立大学の徳雅美さんがもともとの名付け親です。
――記録集刊行までの長い道のりを確かめるにあたって、自分も過去のメールを見直したりしたのですが、ヤマダさんと初めて「語る会」についてやりとりしたのが2011年の夏頃です。それでヤマダさんが大阪の国際児童文学館に調べものに来て、図書の家の方と一緒に会った。
ヤマダ あのときは多分1〜2週間泊まっていたんですよ。
――僕も国際児童文学館に行って調査を手伝ったりしましたが、その時点で文章のならし作業はかなり進んでいたと記憶しています。第2回の分ぐらいまではかなり現状に近い状態のもので読ませていただいた。しかし、そこから記録集にまとまるまでさらに10年ほどかかったというところですね。
ヤマダ 水野先生の当初のイメージとしては『別冊太陽 子どもの昭和史 少女マンガの世界Ⅰ・Ⅱ』(平凡社、1991年)のような、きれいで華やかな、図版がいっぱい載っている本を出したいとおっしゃっていたんですね。でも米沢嘉博さんが監修したこの本は、まず新評社の『戦後少女マンガ史』(1980年)があって、その図録的意味合いが強かった。それもあり、また文章や註が充実し、図版は基本引用として使ったものを出してから絵の多いムックを出したほうが、権利問題も解決しやすいのではないかと考えたんです。でも、註をつけるといっても一人では調べきれない。それが大きく動きだしたのは少女マンガ研究者の増田のぞみさんが科研費をとってこられたことがきっかけです。月刊誌全盛だった時代の少女マンガ家の証言をまとめるというテーマで、増田さんとしてはいろいろと構想もあったと思うんですが、私から「そういうテーマであれば、実はずっとまとめられていない記録があって……」と提案したんです。それで増田さんが参加してくれたことで註などの調査や執筆について、貸本に関する部分を非常に厚くしてくださったコレクターで研究家の想田四さん、少女マンガサイトを運営し、現在は編集した書籍も多くある「図書の家」さん、優秀な少女マンガ研究者で、今は熊本大学の准教授となった日高利泰さん、ライターで編集者の粟生こずえさんにいくばくかの謝礼を出す形で協力をお願いできた。
――錚々たる面々が協力しているだけあって、註の充実ぶりには驚くべきものがあります。これは感動的ですよね。
ヤマダ 若い読者にもわかる内容にしたくて、わからなさそうなところには全部註を入れようと思ったらそうなったんです。
――例えば貸本周りの出版社について知りたければ、この記録集を読むのが一番手っ取り早い気がします。そのような今後の手引きに使えるような註がすごくたくさんある。そういう意味では、この20年間のマンガ研究、もっと限定して少女マンガ誌研究の蓄積が結実している。早いうちに出ていたらここまでの密度にはならなかったかもしれません。
ヤマダ マンガ家の先生方の発言もかなり細かく見直しました。作家生活のなかでの悲しかったことや嬉しかったこと、エピソードそのものは合っていても、時系列がずれていたりすることが多いんです。代表作のときの思い出とかぶってしまっていたり。
――みなさんキャリアも長いですし、ひたすらマンガを描いてばかりいたという日常でしょうから、記憶がごっちゃになってしまうこともありますよね。
ヤマダ 先生たちは話をするのが仕事ではないので、それはそれでいいんです。この時期のことを聞かれたり話したりする機会もそうなかったでしょうし。でも、いろいろな人の話を付き合わせて調べていくと、その経験はこの時期で、すごく悔しかった出来事はこの頃で、嬉しかったのはこの頃で、というのがわかってくる。本当のことが見えてくる。そうやってわかったことは反映しました。そのほうが資料として強いものになるので。もちろん刊行の際には、先生やご遺族に内容を確認していただきました。
――そうした姿勢には、ヤマダさんの研究者としてのスタンスが深く関わっていると思います。
ヤマダ そもそも私のもともとの文章が、本編より註のほうがいっそ役に立つような文章が多くて、それが如実に出ているかもしれないです(笑)。
――それが大事なところですよ(笑)。ヤマダさんは「語る会」が行われていた時期から『プータオ』2000年夏号(白泉社)の「私が「マンガ研究者」を名のるわけ」や『コミック・ファン』12号(雑草社、2001年)の「まんが研究について気になること」で、従来のマンガの批評、研究では参照した資料や文献を明示せず、これまで積み重ねてきた議論が顧みられないことへの危惧を示されていましたよね。
ヤマダ 当時は「オタク」と言われている人たちはみんな「マンガ研究者」と言えばいいのにと思っていました。今でも自分は米沢嘉博記念図書館の職員ではあっても、教員ではない。研究者番号があったりもしないから野良研究者、フリーの研究者なんですが。「語る会」については、こうやって本にまとまる状態になるまでは野良研究者の私が担当していて、本にまとまってからは、展示をつくれる図書館職員としての私が入り、展示をつくったという形です。
――それが現在も公開中の「少女マンガはどこからきたの?web展~ジャンルの成立期に関する証言より~」ですね。展示のタイトルがそのまま記録集の商業出版時のタイトルにもなりました。
ヤマダ 水野先生が、ずっと本のタイトルにしたいとおっしゃっていたタイトルだからです。展示となると、これもまたキュレーションという編集が入って、施設の展示スペースに入るだけの展示をつくるわけですが、突然新型コロナウイルスの影響で原画を借りに行けなくなってしまった。そのためウェブで発表することを館のスタッフが提案してくれ、ものすごい速度で先生方にお願いして今の形になりました。館スタッフのサポートと、先生や関係者の皆さんの寛大さと、この業界での長い経験があったから乗り切れました。
――ヤマダさんは「野良研究者」とおっしゃいますが、マンガ学会の発足が2001年ですし、「語る会」をやっていた2000年頃は、マンガ研究にはただマンガが好きでやっている「野良研究者」がほとんどだったと言ってもいいのではないでしょうか。そういう研究者たちのつながる場として、この頃には2000年代のマンガ研究・批評上のさまざまな成果を生み出す「漫画史研究会」もすでに活動していて、そこにヤマダさんも参加されていた。
ヤマダ 「出版資料から見る少女マンガ展」にも「漫画史研究会」の名前が協力として入っています。「漫画史研究会」と団体っぽく名乗って会合以外の具体的な活動をしたのは、この展示のときだけだと思います。
――漫画史研究会をテーマにした宮本さんとヤマダさんの対談3では、当時は在野の研究のほうが進んでいる状態で、そうした在野での蓄積をアカデミズムに橋渡しすることが意識されていたという話をされていましたね。
ヤマダ 在野とアカデミズムの橋渡しは今でも大切です。日本マンガ学会などの若い人たちにもそれはずっと引き継いでいってほしい。在野でやっている人たちを大事にしないと、研究が果つるというか死ぬと思います。
――そういう意識はこの記録集にもすごく反映されていて、註の執筆などに協力しているメンバーには、在野で研究されている方とアカデミックな場に所属する研究者が入り混じっていますよね。
ヤマダ そうですね。声をかけて乗ってくれた人が集まったら自然とそうなったということです。
――アカデミックな領域での研究も進んでいて、もちろんその成果もここに生かされていると思うのですが、それだけではなくてアカデミズムと在野が垣根なく交流し続けていることの大切さもあらためて感じます。想田四さんなんか大活躍してくださっていますよね。
ヤマダ 申し訳ないくらいに。本当にありがたいです。
――在野研究とアカデミズム、双方の力が結集しているという点でも、マンガ研究のこれまでがここに集約されている気がします。これが本になって読まれて、いろんな形で広がっていくのはとても意義深いです。在野で関わっている方といえば、図書の家さんはいまや少女マンガ研究に欠かせない人たちですよね4。
ヤマダ 図書の家さんは「語る会」の前にすでにお会いしていて、記録集を出したいという私を最初からずっと応援してくださいました。先ほどから話題に出ている「少女まんがの世界展」に図書の家のメンバーである岸田志野さんがお友達と来てくださったのが最初の出会いです。そのときに岸田さんは「バレエ展をしたい」という話を熱心になさっていて、私は当時自分でつくっていたルーズリーフに書いた簡単なバレエ・マンガのリストをお渡しした。
――それが後の「バレエ・マンガ ~永遠なる美しさ~」展(京都国際マンガミュージアム、2013年)につながってくるのですね。
ヤマダ 結果的にね。当時はバレエ・マンガ展をしたいと言っても全然実現しないから好機を持っていた。その後、京都国際マンガミュージアムの学芸員の倉持佳代子さんが現れて、バレエ展をやろうと思うんだけど、総合監修をしてくれないかと依頼してくださった。倉持さんというピースが大事だったんでしょうね。それで図書の家さんも一緒にやることになり合宿した。
――合宿やりましたね(笑)。私も参加させていただきました。
ヤマダ 1998年の「少女まんがの世界展」「出版資料にみる少女マンガ展」での出会いや、「まんが用語〈24年組〉は誰を指すのか?」の感想を通して、関係ができていった。図書の家さんは、もともとは萩尾望都を中心とした少女マンガを掘り下げるウェブサイトの研究会で、「図書の家」という名前も萩尾先生のマンガから取っているんです(『マージナル』に登場するアーカイブ施設の名前)。それでいつか萩尾先生のお仕事を一緒にしたいと話をしていた。それが後の『KAWADE夢ムック 萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母』(河出書房新社、2010年)での作品解説につながっていった。
――そうしたことをきっかけに図書の家の快進撃が始まっていくわけですね。『総特集 三原順 少女マンガ界のはみだしっ子』(河出書房新社、2015年)では特集全体を手掛けるようになり、今や少女マンガ関係の特集本といえば、図書の家という。僕も図書の家さんには常にお世話になっていて、『総特集 水野英子 自作を語る』(河出書房新社、2022年)でも解説(「なぜ水野英子は「女手塚」と呼ばれたのか? 銀の花びらひらくまで――水野英子と『少女クラブ』」)を書かせていただいたり。
ヤマダ あの水野先生の特集本は素晴らしいですよね。そこまでやる、という感じで(笑)。わたなべまさこ先生の本『総特集 わたなべまさこ 90歳、今なお愛を描く』(河出書房新社、2018年)や『かわいい! 少女マンガ・ファッションブック 昭和少女にモードを教えた4人の作家』(立東舎、2020)などの図書の家さんが関わった本については、「語る会」記録集の作業とお互いに貢献しあっているところがあるのではないかと思います。わたなべ先生の本には日高利泰さんも関わっている。むこうで調べたのがこちらにも反映されて、より充実したものになっている。
脚注
ヤマダ トモコ
1967年、富山県高岡市生まれ。マンガ研究者。マンガ関係の展示・インタビュー・ライター活動などを行う。主な仕事に『現代漫画博物館 1945-2005』(小学館、2006年)編集協力、「バレエ・マンガ ~永遠なる美しさ~」(京都国際マンガミュージアム、2013年)総合監修、「What Is Shōjo Manga (Girls’ Manga)?」(大英博物館「The Citi exhibition Manga」図録、Thames & Hudson、2019年)執筆、「水野英子――少女マンガの歴史をとりもどすための鍵」(『総特集 水野英子 自作を語る』河出書房新社、2022年)執筆など。2005〜2010年、川崎市市民ミュージアムにてマンガ担当嘱託職員、2009年より明治大学米沢嘉博記念図書館展示担当スタッフ、現・同館特別嘱託職員。2022年より芸術選奨選考委員。「少女マンガを語る会」第1回〜第4回座談会に協力、聞き手として参加。
『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』
著者:上田トシコ、むれあきこ、わたなべまさこ、巴里夫、高橋真琴、今村洋子、水野英子、ちばてつや、牧美也子、望月あきら、花村えい子、北島洋子
編者:ヤマダトモコ、増田のぞみ、小西優里、想田四
定価:2,860円(税込)
刊行日:2023年5月31日
発行:青土社
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3806
日本マンガ学会第22回大会
日程:2023年7月1日(土)、2日(日)
場所:相模女子大学 オンライン開催あり
7月2日にはシンポジウム「再検討・「少女マンガ」史」が開催予定。1960年代後半「以前」と「以後」、それぞれの時期を代表する作家や、復刻や編集の現場で活躍する方などを招き、「少女マンガ」史を編み直すことの意義が語られる。
https://www.jsscc.net/convention/22
※インタビュー日:2022年12月16日
※URLは2023年6月26日にリンクを確認済み
>『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』刊行記念 米沢嘉博記念図書館・ヤマダトモコ氏インタビュー[後編]