『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』刊行記念 米沢嘉博記念図書館・ヤマダトモコ氏インタビュー[後編]

岩下 朋世

写真:畠中 彩

「少女マンガを語る会」に関して、米沢嘉博記念図書館のヤマダトモコ氏にマンガ研究者である岩下朋世氏がインタビューする本稿。発起人・水野英子が同会を立ち上げるに至った経緯と、2020年に完成した『「少女マンガを語る会」記録集』について話された前編に続き、後編では1950年代、60年代の少女マンガの変遷を具体的な作家、作品をみながらたどっていきます。

左上から時計回りに、今村洋子『クラスおてんば日記 第1集』(きんらん社、1958年)、水野英子『銀の花びら』(講談社、1959年)、ちばてつや『江戸川乱歩全集 魔法人形』(あかしや書房、1959年)、ちばてつや『ユカをよぶ海 銀の花びら』(講談社、1959年)、水野英子『愛の秤 水野英子イラスト詩集』(白泉社、1977年)、今村つとむ『災厄の宝石 お嬢さん探偵シリーズ』(つばめ出版)
©️ちばてつや

少女マンガを描いた女性作家、男性作家

――これまで「少女マンガを語る会」(以下、「語る会」)および『「少女マンガを語る会」記録集』(以下、記録集)刊行に至る流れや、それらがマンガ研究などに与えた影響について話していただきましたが、ここからは「少女マンガはどこからきたの?web展~ジャンルの成立期に関する証言より~」(以下、「少女マンガはどこからきたの?web展」)で使われたりした資料を見ながら、改めて1950年代、60年代の少女マンガの流れをヤマダさんにおうかがいできればと思います。

ヤマダ 今回準備した資料はほとんど現代マンガ図書館のものなので、皆さんに見にきていただければいいなと思います。現代マンガ図書館と米沢嘉博記念図書館の蔵書検索が統合されたのですごく便利になっています。

――今回の準備のために検索してとても楽しかったです。

ヤマダ そうでしょう?

――1950年代は女性のマンガ家が少なくて男性が少女マンガを描いていた時代と言われることがありますが、ヤマダさんはその時代から活躍している女性の作家はいたんだという話をよくされていますよね。例えば、上田トシコ先生はまさにそうした作家の一人で、実は戦前にすでにデビューされていた。ヤマダさんは上田トシコ先生について、少女マンガの歴史を考えたときにどういう位置付けで考えていらっしゃるんでしょうか。

ヤマダ もちろんとても重要な作家です。上田先生は松本かつぢ先生に憧れてマンガ家になった。マンガ家になろうという強い意志をもって、マンガの世界に自分で飛び込んだ当時の女性としては数少ない意識的な作家さんだと思います。活躍の主な舞台が少女雑誌だったというのも大事です。女性作家という意味では、「語る会」で上田トシコ先生も言及なさっている『サザエさん』で有名な長谷川町子先生がいますが、長谷川先生は新聞マンガの作家で、歴史の流れとしてはちょっと違う。

――長谷川町子も、もちろん少女向けの雑誌にもたくさん描いてはいますが、上田トシコのように少女雑誌をメインフィールドにしていたわけではないですね。

ヤマダ 上田先生は、少女マンガ家について考えたときに重要な、ポツンといる大きな星の一人だと思いますね。

――上田先生の代表作といえば『フイチンさん』(1957~1962年)ですが、この作品は僕も本当に好きなんです。こんなに絵が素敵なマンガはないというぐらい。ともあれ、1950年代からすでに活躍されていた女性の作家たちがいるというのは強調しておきたいことですね。

上田としこ『フイチンさん』講談社、1958年

ヤマダ お題目のように昔は男性しかいなかったと言われてきたわけですが、50年代後半には少女雑誌には女性のマンガ家がいて、彼女たちは星みたいにキラキラ輝いていた。実際に雑誌を見ると大事にされているのがわかるんです。

――水野英子先生なんて、最初からスター作家ですよね。『少女クラブ』(講談社)でカットなどを描いて大事に育てられて、満を辞しての長編連載が『銀の花びら』(原作・緑川圭子、1957年12月号〜1959年12月号)で、しかも手塚の『火の鳥』の『少女クラブ』での最終回の次のページに載っている。以降は講談社の少女雑誌だと『なかよし』(講談社)を主戦場にしていくことになった手塚の、まさに後継者的な位置付けです。

ヤマダ わたなべ先生も牧先生もかわいい絵の描ける超売れっ子だった。そういう様子を見ると、確かに男性作家もいっぱいいるけれど、女性作家がいなかったというのは間違いで、少なかったかもしれないけど、すごく大事にされていた。

――数は少なくても、誌面を見ると女性作家の位置付けはかなり重要なものだったということですね。

ヤマダ 当時の雑誌はマンガの本数がそもそも少ないですしね。女性の作家の数が少ないと言っても、5:4とかですよね。10いたら6:4とかですよ。

――一方で、男性の作家についても、手塚などもそうですが、その作家の仕事を振り返って考えるときに、少女雑誌で描いていた時期のことはあまり顧みられない。僕としてはこれも結構問題かなと思っています。

ヤマダ 本当に。女性作家、男性作家、ともにすごく影響しあっていたと思います。一方に男子しかいないお鍋があったとしたら、男女いるお鍋があって、それが少女雑誌だった。そこで互いに影響されあったことが、その後のマンガの発展に影響を与えたのではないか。なぜならば、石ノ森章太郎先生もちばてつや先生も松本零士先生も、みんな感情表現がうまい。かわいい女の子を描くのがうまいし、心の動きを描くのがうまい。それって少女マンガで学んだんじゃないの?というのが私の持論です。

――それは僕も感じるところです。松本零士先生だと、それこそ牧美也子先生と夫婦合作という形でやられて、影響関係を与え合っている。ちば先生についても少女マンガの人気作家だったことがすごく重要だと思います。ちばてつやについては、橋本治も「完全な少女マンガ家だった」と評していて、少年マンガへと進出してもそのスタイルをほとんど変えなかったと指摘していますね1

ヤマダ ちば先生は貸本マンガの『魔法人形』(あかしや書房、1958年)がきっかけで少女マンガを描いてみたらと言われたんですよね。

――江戸川乱歩が原作の探偵ものですね。女装した小林少年が出てきて、これがとてもかわいらしい。ちば先生は『復讐のせむし男』(日昭館書店、1956年)が最初の単行本でしばらくは貸本マンガで仕事をされていた。その後、少女雑誌で仕事をするようになって、主に『少女クラブ』で活躍することになる。『少女クラブ』での最初の連載が『ママのバイオリン』(1958~1959年)、続いて『ユカをよぶ海』(1959~1960年)とたちまち人気を獲得していく。

ヤマダ 『ユカをよぶ海』はこれでちば先生が少女マンガに開眼したという作品ですね。少女マンガだからって男の子と区別して無理に「女の子」らしく描かなくてもいいと気づいた。

――「女の子だからこういうふうに描かなくちゃ」と思ってかよわく描かなくていい。主人公がいじわるな男子をピシャリとひっぱたくところを描いたら非常に人気が出たという作品ですね。ただ、ちば先生は「かわいそうなマンガなんか描かなくていいんだ」と思ったというようなことも言われていますが、それでもかわいそうな話なんですよね。「ユカをよぶ海」なんかも、最後やっと主人公のユカちゃんが幸せになったって思ったら、お父さんがひっそり死んでいってしまう。ユカちゃんはそれに気付かない。そんな終わり方になっている。実は結構かわいそうな話なんですが、ただ、その環境に流されない、けなげに耐えるばかりではないキャラクターになっている。

ヤマダ 我慢しているのではなくて、「何を!」と思っている。理不尽だと思ったらちゃんと言い返す。自我がある。

――里中満智子先生は、そうした主人公のキャラクターにリアリティを感じてちばてつやという名前だけど絶対女の人だってずっと思っていたとしばしば話されていますよね2

ヤマダ ちば先生が男性だとわかった後も、女性の心を持った男性なのではと思っていたという。そのくらい女の子の心を捉えていたということですよね。私は里中先生などの証言を読むまでは、女の子に人気があったというのはあまり実感できていませんでした。それこそ、あんまりキラキラしてないですから。『あしたのジョー』など少年誌にいってからの作品の人気はよく知っていたけれど、少女マンガ作品についてはわかっていなかった。私がちばてつやの少女マンガは人気があったんだなと実感したのは、貸本を見るようになってからです。ちば先生のそっくりさんがものすごくいっぱいいるのに気づいた。こんなに人気だったのかと。望月あきら先生が雑誌デビューした頃の絵柄も似ていると思います。みんなが「この人の感じや画風を取り込むことができると売れっ子になれる、女の子が求めているのはこれだ」と思っていたのだとわかりました。

――そういう意味では、女性作家がずっといたことの重要性と同時に、男性作家がその後の少女マンガにつながるような表現に与えた影響の大きさも指摘できそうですね。高橋真琴先生もそうですし。

ヤマダ 表現については、男女にかかわらず互いに影響しあっていたんだろうなと思います。「語る会」の記録を読むと、先生方は高橋先生のことは意識していなかったみたいなんですよね。源流が高橋真琴先生の部分もあるでしょうし、素敵だと思ったものは取り入れて、それこそお互いジャズを演奏するように表現しあっているうちに、みんなが思うようないわゆる「少女マンガっぽい」表現になっていったんでしょうね。

――高橋真琴先生の仕事は「マンガ」として意識されてないということもあるでしょうね。60年代以降はほとんどイラストの人になっている。

ヤマダ 当時からマンガの人には「あなたは絵物語、イラストの人」、イラストの人からは「あなたはマンガの人」って思われていたと本人もおっしゃっています。ご本人としてもマンガでもイラストでもない、何か新しいものを生み出そうと思っていらした。

――こういうスタイルの絵で「マンガ」として扱われているのが新しかったんですね。それまでは絵のスタイルでマンガと絵物語を分ける判断基準のひとつだったのが、そこを突破した。ある時期までは、こうした叙情画的なスタイルの絵だったら絵物語と言われるものだったのが、1950年代末頃からこういうスタイルでも「マンガ」と呼ばれるようになっていく。その流れを後押しした人の一人なのかなと思います。

ヤマダ そうだと思います。みんな高橋先生みたいな絵になる。それは藤本由香里さんも分析なさっていますけど、当時の少女マンガを見ると本当にみんな「高橋真琴」になっていく。

高橋真琴『琴姫悲願』セントラル文庫、1955年

――びっくりするぐらいそっくりな人がいる。すごい影響力で、高橋真琴先生はこういうスタイルのまま女性向け中心でずっとかわいい女の子を描いている。

ヤマダ かわいい女の子を描きたかった。最初は赤本ですよね。『赤い靴』(榎本法令館、1953年頃)では、表紙も自分で描かれています。

――貸本では、表紙はマンガ家自身が描いていないものも多いですが、高橋先生の場合は自分で表紙を描かれているものが多いですね。その頃から絵のスタイルも確立しています。

ヤマダ でも、最初の頃は表紙の絵と中身の絵は違っているんです。中身は当時でいう「マンガ」の絵。

――そこがだんだんと区別がなくなっていく、表紙に描いているような絵でも「マンガ」として通用するようになっていく。それが50年代後半、1956、7年ぐらいでしょうか。

ヤマダ 雑誌デビューする頃には、そうなっています。

――高橋真琴はいわゆる「スタイル画」と呼ばれる表現に関してもかなり影響力があったということになりますよね。藤本由香里さんは『のろわれたコッペリア』(『少女』1957年12月号、光文社)の三段ぶち抜きの表現をその嚆矢として位置付けています3。スタイル画と瞳の中の星は誰が最初なのかというのはしばしば議論になりますね。

ヤマダ 瞳の星については、「語る会」のなかでも水野先生が語られていますね。「少女マンガはどこからきたの?web展」のテキストでも書きましたが、水野先生が描く星は瞳の中心にあるけれど、高橋先生の瞳の星は真ん中じゃなくて周囲の虹彩のところにあるんです。写真を撮ったときに入るハイライトの星なんでしょうね。ひとくちに「瞳の星」といっても違いがある。

貸本、恋愛、ファッション……少女マンガをめぐる多様な観点

――貸本マンガの少女マンガについても、「語る会」ではかなり豊富に語られていますね。

ヤマダ 例えばむれあきこ先生はご自分で単行本一筋よっておっしゃっていますね。ここでいう単行本は、貸本の単行本のことなんですけど。

――そうはいっても雑誌にも細かい作品も含めて実はたくさん描かれていますよね。

ヤマダ そうですね。それにデビューは新聞で「みやざきあきこ」という名前で描いていた。「語る会」に来てくださったことでそういうこともいろいろ知って、本当に大量に描かれていて仰天しました。「少女マンガはどこからきたの?web展」の解説でも書きましたが、『露のあしたに』(1959年)は若木書房の「ひまわりブック」シリーズの一番目に刊行された本なんですよ。第一冊目の作家として登用するということは、その頃にもう「少女マンガといったらこの人」という作家だったんだなというのがわかります。それからずっと若木の200ページぐらいある描き下ろし単行本を大量に描かれている。でも、原画は残っていないとおっしゃっていました。

――この頃の原画は残っていないことが多いですよね。特に貸本マンガの単行本の場合はそもそも作家の手元に戻ってくるものじゃない。

ヤマダ 戻さないのが普通だった。

――ほぼ感覚としては買い取りですよね。

ヤマダ ですね。話は変わりますが、冊子の記録集の表紙図版や「少女マンガはどこからきたの?web展」のチラシでは、作家の先生方はデビュー順に並んでいます。

――デビューについては、どれをデビュー作とするかという問題がありますね。

ヤマダ 先生たちが思っているデビューと、本当にデビューされた年が違っていたりする。

――本当にその本が出版されたのかわからなかったりもしますね。

ヤマダ わたなべ先生はそうですね。上田先生の場合は、戦前の仕事は自分ではデビューしていたとは思われていない。あれはデビューにカウントしてないとおっしゃるんですよね。でもこちらではカウントしてしまう。

――今村洋子先生も一体どこからがデビューなのだろうかとなりますね。実際には今村先生が描いているけれど、父の今村つとむ名義だったりする。

ヤマダ 「お嬢さん探偵」シリーズが今村洋子先生の出世作だったと私は思います。このシリーズでは名前が今村つとむ単独ではなく、両方の名前が表記されていく。お父さんの描く女の人がいまひとつだから「こういうのがかっこいいんだよ」と教えてあげたら「じゃあお前描け」と言われて描いたという。タイトル文字も明らかに今村つとむさんと全然違う。「お嬢さん探偵」というところも、いかにも洋子先生のおきゃんな感じですよね。

――今村先生は『少女』連載の『クラスおてんば日記』(1957〜1958年)で男の子との関係を描いた。そういう点でもすごく重要な作家ですよね。

ヤマダ 男子に負けていない感じでね。

――『クラスおてんば日記』が発展していって、代表作のひとつである「チャコちゃんの日記」シリーズ(1959〜1970年)になっていく。チャコちゃんではクラスの男の子に点数をつけるというエピソードがありますね。

ヤマダ ひどい女子ですよね(笑)。

――「長島くんは100点!」みたいな(笑)。普通にかっこいい男の子に興味を持つ女の子が描かれる。少女マンガのなかでは1950年代から60年代にかけて、恋愛をどう描くかというのはすごく重要なテーマですね。当時はあまりおおっぴらに描けるものではなかった。

ヤマダ 今村先生は「語る会」で、主人公が男の子の気をひくためにわざとハンカチを落として拾わせるというシーンを描いたら「おまえは色情狂か」という投書が来たという話をされています。それでもう描いたら駄目だと言われるのかと思った。でも、当時の『少女』の編集長は、後に『女性自身』(光文社)とか『微笑』(小学館)を立ち上げて「女性誌の神様」と言われたりもする黒崎勇さんで、「そうでなくちゃ」という主旨のことを言ってもらったと。

――有名なエピソードですね。『クラスおてんば日記』は読者からのお便りをマンガにするという企画ですが、この頃は他にも読者の手紙とか読者が経験した悲しいお話をマンガにしたり読み物にしたり。これも少女雑誌の伝統ですよね。

ヤマダ それがすごく売れた。『クラスおてんば日記』は貸本マンガのきんらん社から単行本になっていて、途中からは今村洋子先生ではなく別の作家が書いたものになるのですが、20巻以上出ています。

――少女マンガにおける恋愛の開拓者としては水野英子先生も非常に重要ですね。『少女クラブ』で、『銀の花びら』に続いて連載した『星のたてごと』(1960〜1962年)では、男女のロマンスを積極的に描こうされている。この時期の作品としてはかなり挑戦的ですよね。『銀の花びら』で描かれるのは兄と妹との関係だったわけですが。

ヤマダ 『星のたてごと』ははっきり恋愛ですよね。

――男性キャラクターの描写も意欲的です。体格もよくてしっかり胸板が厚く、男性的な魅力がある。

ヤマダ かっこいいんですよね。スラッとしていてハンサムで。

――そういう男性像を描いて、しかも恋愛対象として提示したというのはやはり先駆的ですね。

ヤマダ 本当に。それから、水野先生について後進のマンガ家さんたちがおっしゃるのはスケールの大きさです。当時の少女マンガには身近な題材のものが多かったなかで、ダイナミックで、貧しさを忘れさせてくれる内容で、ちまちましていないのがみんな好きだった。ドレスのドレープがかっこよくて。一方で、例えば牧先生とかは身近な話を描くのですが、とにかく絵がかわいい。

――牧先生の絵は当時の誌面で見ると「これは来たな」となりますよね。これは人気になるに決まっていると。圧倒的なかわいさです。

ヤマダ 舞台は日本がほとんどなんですが、ちょっと上を見ている凛としたところがあって魅力的なんですよね……。

――着ている服も華やかだったり、出てくる家も立派な建物だったりするんですよね。

ヤマダ 日本の女の子だから、目はちょっとおとなしいんですよね。大きも少し小さめで。当時の女の子がマンガにすごく影響を受けてバレエを習うだとか、そういう影響力があったのが牧先生ですね。この頃、牧先生の夫の松本零士先生は「松本あきら」という名前で少女マンガを中心に描いていて、二人で合作もなさっていたわけですが、1970年代に入って『男おいどん』の前後ぐらいでブレイクする前は、牧先生の方が人気あったのではないかと思います。

――それくらい当時の人気は圧倒なものがあった。

ヤマダ どの雑誌でも描いていますからね。清楚な感じだけど、ちゃんと理想があるというか、内に秘めた強い気持ちがあって、みんながこういうふうになりたいと憧れる女の子を描いていた。『りぼん』(集英社)1967年10月号の『着せ替え人形リカちゃん』新発売時の広告には、監修者として牧先生の名前が出ています。このときのパッケージや箱、リカちゃんハウスの正面には牧先生の絵が入っている。

――まさに当時の少女たちの憧れを体現したのが牧先生の描く少女だったということですね。絵がかわいいというだけでなく、そのファッションも人気だった。『りぼん』連載の『マキの口笛』(1960〜1963年)では毎号のように「マキちゃんスタイル」として、主人公の着ている服を読者に本当にプレゼントする企画もありました。

左上から時計回りに、牧美也子『母恋ワルツ 想い出集1 牧美也子』(東光堂、1957年)、『りぼん』1966年2月増刊号(集英社)、望月あきら『花つみ日記』(東京漫画出版社、1957年)、望月あきら『すきすきビッキ先生』(集英社、1968年)、牧美也子、さわさかえ・佐和野桂原作『白鳥の湖』(集英社、1969年)
Ⓒ牧美也子/零時社

ヤマダ 牧先生は、この後に大人の女性向けのマンガに移られて、そこでも多くの作品を描いているのですが、みんなあまり知らない。牧先生のすごさをわかっていない。

――レディースコミックの先駆者でもあるわけですね。1950年代から60年代に少女マンガで活躍されて、後に大人の女性向けマンガで多くの作品を手掛けた作家としてはわたなべまさこ先生もいますね。わたなべ先生も初期の頃からストーリーテラーで人気もすごかった。少女マンガでの恋愛描写の発展という点でも重要な仕事をされている。

ヤマダ ちょっと大人の、主人公のお母さんのような目上の人の恋愛を描いていて。

――主人公は本当に小さな子どもだけど、お姉さんや親の恋愛や結婚について描いている。すごく大人っぽい関係を描くんですよね。例えば『はだしのプリンセス』(1966年)では主人公の父親である小国の大公と日本人女性との恋がストーリーの軸になっています。

ヤマダ 素敵なんですよね、特に女性が。わたなべ先生は、外国が舞台で、金髪で色がすごく薄くて、ドレスがゴージャスで、この家に住んでみたいと思わせるような世界のなかで怖いことが起こるというような話がすごくうまい。

――代表作の一つ『ガラスの城』(1969~1970年)などはまさにそういう話ですね。一方で生活感のある世界の描写も達者ですが。表現上のスタイルだと、横顔の描写について「鼻の下の線」が描かれないのが特徴だと「語る会」での質疑で作曲家で少女マンガについての著書もある青島広志さんが指摘されていますね。

ヤマダ わたなべ先生は「自分では描いているつもりなのよ」と言いつつ、見てみたら「確かに描いてないわね」って…。素敵な先生なんですよ。表現という点では、わたなべ先生は「瞳の星」を描かなかったのですが、虹彩の部分の線が独特で、その点は工夫したとおっしゃっていました。

――「星」を描かないにしても、やはり少女マンガにとって瞳の表現は重要ということですね。そうした点も含めて、直接的にスタイルが似ている人はあまりいない気がするものの、わたなべ先生も後進への影響力がかなりあって、萩尾望都も悩んだらわたなべまさこ先生のマンガを読み返すと話されていますよね4

ヤマダ 萩尾先生は、わたなべ先生はコマ割りがすごくうまくて、コマ割りに迷ったらわたなべ先生のマンガ読むとおっしゃっていますよね。展開がわかりやすくて上手。

上田トシコ先生がおっしゃっているのですが、わたなべ先生、水野先生、牧先生、この3人が出てきたときにもう私は駄目かしらと思ったというほどです。勢いがあって、質、量ともに優れていて、この3作家が「少女マンガらしい少女マンガ」を描く先生の代表格だった。

「少女マンガを語る会」で語られなかったこと

――「語る会」の記録、そして「少女マンガはどこからきたの?web展」も、1950年代、60年代の少女マンガについて語るときにはすごく重要な資料に今後なっていくと思います。ただ、その一方で、参加した作家や編集者の人たちが限られているので、語られていない側面、ここからは見えてこない側面もある。ヤマダさんとしては、今後語られるべきこと、掘り下げられていくべきこととしてどのようなものがあると思われますか。

ヤマダ この時期の少女マンガにとって重要な作家としては、手塚治虫や石ノ森章太郎については参加した先生方がけっこう話をされているんですが、ほかにも楳図かずお先生や横山光輝先生はとても大事だと思います。『王家の紋章』(1976年〜)の細川智栄子先生も月刊誌時代にはデビューされていますしね。

――楳図かずおについて語られていないという点でいうと、少女マンガにもいろんな流れがあるなかで、「語る会」メンバーではわたなべ先生はこのジャンルの大家と言えますが「こわいマンガ」の系譜についてももっと掘り下げていく必要がありますね。吸血鬼ものについては私設図書館「少女まんが館」の中野純、大井夏代による『少女まんがは吸血鬼でできている 古典バンパイア・コミックガイド』(方丈社、2018年)のような本もありますが。

ヤマダ 「語る会」が続いていればそういう話もあったと思います。第1回、第2回とやって、貸本や赤本のことが全然わからないぞという話になって3回と4回では貸本を描かれている先生や出版社の方に来ていただいた。この後が続いていれば、ジャンルの話までたどりつけたでしょう。でも、そういう意味では今も途中だと思えばいいのでは。続きはみんなが調べるんです。まだまだ楽しいことが残っているという。

――記録集を読んで「なるほどな」で終わってはいけない、この続きをちゃんと考えてないといけないですね。

ヤマダ この時期の少女マンガに興味がある人がもっといてくれたら。比べたらいけないかもしれないけれど、1950年代、60年代頃の少年マンガについてこういう豪華メンバーでやっていたら、ワーッと盛り上がっていくつも本が出ていたんじゃないかという気がします。

――もっとこの時期の少女マンガに興味を持つ人が現れてほしいですね。そういう意味では、記録集を読んで「あの話がないじゃないか、この話がないじゃないか」という意見がどんどん出てきてほしい。

ヤマダ そう思ったらぜひ調べてほしいです! お願いします。私も展示で怪奇マンガの展示(「米沢嘉博の『戦後怪奇マンガ史』展〜怪奇・恐怖マンガの系譜1948-1990〜」明治大学 米沢嘉博記念図書館、2018年)をやるなど、あっちこっちに断片化しながらいろいろしているのですが……。

――少女マンガの歴史という点では、「別マまんがスクール」で後進の育成に大きく貢献した鈴木光明の展示をされていますよね(「別マまんがスクールの成立と鈴木光明展」明治大学 米沢嘉博記念図書館、2014年)。

ヤマダ 鈴木光明先生は50年代に活躍なさって、10年で身体を壊されてやめられたのですが、その後に後進指導をなさって、有名な少女マンガ家さんを数多く育てている。「語る会」でも註で名前が出てはきますが。

――今でも少女マンガ雑誌にはマンガ教室のようなものは載っていて、新人育成という点のあり方は少年誌などとは異なる面がある。「語る会」でフォローできていない部分についてもヤマダさんはいろいろとやられていますよね。

ヤマダ そういうふうに、断片的にやっていることをつないでパズルのように必要な部分を綺麗に埋めることができるといいのですが。

――少女マンガの歴史という点では、戦前についても見ていく必要もありますし、1980年代以降、米沢さんが『戦後少女マンガ史』(新評社、1980年)でまとめた内容以降についても意外にきちんとまとまっていないんですよね。実はそこが一番手薄かもしれない。1950年代、60年代については「語る会」の記録も出てだいぶ埋まってきたことになるかもしれませんが、でも80年代から90年代、それから今世紀に入って以降となってくると、頼れる見取り図がないという状況だと思います。1990年代から2000年代の少女マンガについて、『りぼん』や『ちゃお』(小学館)といった雑誌については杉本章吾さんなどの研究もありますが、まだまだわかっていないこと、まとめられていないことがたくさんありますね。

ヤマダ 非常にざっくり言ってしまいますが、1980年代になるとレディースコミックの世界があって、90年代になるとBL(ボーイズラブ)が盛んになって、さらにレディースコミックからTL(ティーンズラブ)と言われている若い世代の性についてもう少し掘り下げて扱ったものが出てくる。そうしたジャンルについて、特にBLについてはかなり論じられているんですが、逆にど真ん中の少女マンガについての研究、というか掘り下げは非常に薄い。

――近年だと「女性マンガ」というくくりで考えた場合には論じられる機会もあるかもしれないんですが、そうやって読者層も扱われるトピックも幅広くなっていったときに、ど真ん中というか、むしろ今では傍流かもしれませんが、同時代の「ふつうの少女マンガ」についてはきちんとわかっていない。

ヤマダ いや、大人向けの「女性マンガ」もわかっているのかと言えるかどうか。売れているものを星座のようにつないでいくことはできるけれど。

――そういうふうに考えると、「今の少女マンガ」についてのことは本当にまだまだ語られていないことだらけですよね。作家の言葉を集めるのももちろん必要ですし、考えないといけないことはいっぱいある。

ヤマダ 私は女性史に詳しいわけでもない。マンガのなかでも少女マンガに詳しいというだけの人間なのですが、少女マンガの歴史というか、女性の歴史については結構掘り下げられてないところがたくさんあるんだと思います。それに、少女マンガだけでなく、マンガ自体が流し読みされる、とっておかなくてもいいものだったから、いろいろと掘り下げられていないことがある。技術史、印刷史のなかで見てみても、マンガは安くするために裏技をいっぱい使っていて、これが記録に残っていなかったりする。日本で出版している単行本のデータを海外の出版社に渡せばそのまま同じ単行本がつくれるかというと、いろんなローカルルールがあって、そのままでは出せないという話を最近聞いて、なるほど、と思いました。ここにも拾わないといけない歴史があるのだなと。マンガの世界は、やればやるほど歴史を取り戻す作業が必要なことがたくさんあるのだなと感じます。

――「語る会」記録集はまとまったわけですが、少女マンガの歴史を取り戻す作業は、またこれから始まっていくということですね。いっそのことヤマダさんに少女マンガ史の本を書いてもらえるといいのですが(笑)。

ヤマダ 一人だとつらいので、岩下さんが一緒にまとめる役をしてくださるといいなぁ(笑)。

左から、岩下朋世氏、ヤマダトモコ氏

脚注

1 橋本治「最も孤独な長距離ランナー――ちばてつや論」『熱血シュークリーム(上)』北宋社、1982年。
2 最近では日本漫画家協会のYouTube公式チャンネルで公開されたインタビュー(https://www.youtube.com/watch?v=9n9gOtEIS08)でもこのことについて話している。
3 藤本由香里「少女マンガの源流としての高橋真琴」『マンガ研究』vol. 11、日本マンガ学会、2007年。
4 萩尾望都『私の少女マンガ講義』(新潮社、2018年)など。

ヤマダ トモコ
1967年、富山県高岡市生まれ。マンガ研究者。マンガ関係の展示・インタビュー・ライター活動などを行う。主な仕事に『現代漫画博物館 1945-2005』(小学館、2006年)編集協力、「バレエ・マンガ ~永遠なる美しさ~」(京都国際マンガミュージアム、2013年)総合監修、「What Is Shōjo Manga (Girls’ Manga)?」(大英博物館「The Citi exhibition Manga」図録、Thames & Hudson、2019年)執筆、「水野英子――少女マンガの歴史をとりもどすための鍵」(『総特集 水野英子 自作を語る』河出書房新社、2022年)執筆など。2005〜2010年、川崎市市民ミュージアムにてマンガ担当嘱託職員、2009年より明治大学米沢嘉博記念図書館展示担当スタッフ、現・同館特別嘱託職員。2022年より芸術選奨選考委員。「少女マンガを語る会」第1回〜第4回座談会に協力、聞き手として参加。

『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』
著者:上田トシコ、むれあきこ、わたなべまさこ、巴里夫、高橋真琴、今村洋子、水野英子、ちばてつや、牧美也子、望月あきら、花村えい子、北島洋子
編者:ヤマダトモコ、増田のぞみ、小西優里、想田四
定価:2,860円(税込)
刊行日:2023年5月31日
発行:青土社
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3806

日本マンガ学会第22回大会
日程:2023年7月1日(土)、2日(日)
場所:相模女子大学 オンライン開催あり
7月2日にはシンポジウム「再検討・「少女マンガ」史」が開催予定。1960年代後半「以前」と「以後」、それぞれの時期を代表する作家や、復刻や編集の現場で活躍する方などを招き、「少女マンガ」史を編み直すことの意義が語られる。
https://www.jsscc.net/convention/22

※インタビュー日:2022年12月16日
※URLは2023年6月26日にリンクを確認済み

『少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録』刊行記念 米沢嘉博記念図書館・ヤマダトモコ氏インタビュー[前編]

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