塚田 優
写真:北浦 敦子
小説、マンガ、アニメ、ゲームなどにおいて「悪役令嬢」というワードが定着化しつつある昨今。始まりは、2012年に「悪役令嬢」という言葉が最初にタイトルに冠された『悪役令嬢後宮物語』の連載が小説投稿サイト「小説家になろう」で始まったことでした。そんな「悪役令嬢」について、批評家のきりとりめでる氏と白江幸司氏、アーティスト、俳優の遠藤麻衣氏が包括的に議論します。前編では、「悪役令嬢もの」がどのようなジャンルなのか、どう物語が展開されていくのかを明らかにします。

――今現在、いわゆる「悪役令嬢もの」はどれくらいの数があり、どう受容されているのでしょうか。物語のスタイルも含めおさらいすることから議論を始めたいと思います。
きりとり 私は「悪役令嬢もの」のコミカライズやマンガや縦スクロールのウェブトゥーンの作品を追っていて、これらの形式の作品だけでもすでに900タイトル以上です。日本と韓国で特に多くつくられていて、小説を原作にマンガ化・ウェブトゥーン化されるケースがほとんどです。アニメ化作品も現在10作を超えてきました1。すべてを網羅するのは難しいのですが、このジャンルの一端をまとめようと、私は今日座談会に参加してもらっている方も含むメンバーで『悪役令嬢百科:乙女ゲーム転生【初版】』(パンのパン、2025年)というデータベース的な冊子も制作しました。
「悪役令嬢もの」のなかでマーケット的に成功した作品でいうと『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』(山口悟、一迅社、2015年~)2は小説の累計発行部数が600万部を超えています。コミカライズの『悪役のエンディングは死のみ』(作画:SUOL、原作:Gwon Gyeoeul、ウェブトゥーン、2020年~)はアメリカでも2023年にウェブトゥーンから書籍化された作品のなかで、その年の売り上げベスト16にランクインしています。翻訳の関係で半年程度のラグはありますが、さまざまな国で同じものを楽しみ、読者の一部は制作にも参与するという状況が生まれています。そういった意味でこの座談会は「悪役令嬢もの」を消費者における創造性を認めるコモンカルチャーとして捉え直す機会にできればと思っています。
ではそもそも「悪役令嬢もの」がどのようなジャンルなのかについてです。ライターの七夜なぎが型として三つの特徴を挙げています3。一つ目は現代社会を生きる主人公が物語の悪役として転生する。二つ目が転生する先は乙女ゲーム4や少女マンガの世界であることです。後述しますが、小説の世界の悪女に転生する設定も多いです。三つ目が主人公=悪役令嬢が断罪されたり、没落する運命を回避すべく行動を起こすことです。
この定義に私の関心から付け加えるなら、転生した悪役は公爵令嬢や皇妃といった高位貴族で、舞台が諸地域の貴族社会や階級制度を混合的に模していることになりますが、型というのが言い得て妙で、この物語形式を土台としたり、この型の反復からさまざまなジャンルが派生・活性化しています。例えば近年の「婚約破棄もの」というジャンルは、主人公=悪役令嬢が自身の悪事を理由に婚約を破棄されるという断罪の常套手段から発展している部分があるのですが、「悪役令嬢もの」から「婚約破棄もの」と言い表すことで、主人公の階級は侍女や平民にも敷衍可能になります。さらには、転生や死に戻りも含まないものも同列に扱えるようになります。
この連載はその後、KADOKAWAなど実際に「悪役令嬢もの」をつくっている会社へのインタビューが行われるのですが、その中でもスマホ向けマンガ・小説配信アプリの「ピッコマ」の取材回で示されているとおり、韓国で「悪女もの」が隆盛しているということは非常に重要です。これは日本の「悪役令嬢もの」と同様、「悪」とされた人物が起死回生をはかるという構造は同じなのですが、転生先の多くが小説の世界であり、学園よりも社交界や会社経営の比重が大きいなど、さまざまな違いがあります。また、信じていた人物に裏切られ死に追いやられた後に、タイムリープで生き返り復讐に生きる「死に戻り」の作品も極めて豊かです。
転生先のメディアは異なれど、マンガや乙女ゲーム、小説はどれも物語メディアです。もちろんそのなかでダンジョン探索といった異質な要素が入ることもありますが、英訳すると両方ともヴィラニー(Villany)、つまり悪役になるので、今日の議論ではあえてまとめて取り上げていきたいのと、特に両者における「階級」という社会構造への意識があることを示したいので、転生の有無にかかわらず「悪役令嬢もの」と私個人としては名指ししたいと思います。それによって「悪役令嬢もの」の隣接ジャンルを飲み込んでいく器としての包容力や、そこで描かれる階級的な差や、物語に登場する女性表象を通じて、その現代性について考え直してみたいと思っています。


遠藤 「悪役令嬢もの」と「悪女もの」の違いでいうと、私は圧倒的に後者を読んでいます。すでに読んで結末を知っている小説の世界に転生するという設定に惹かれて、フルカラーで縦スクロールの韓国のウェブトゥーンにのめり込んでいきました。一番最初に読んだのは、『ある日、お姫様になってしまった件について』(作画:Spoon、原作:Plutus、ウェブトゥーン、2017〜2025年)だったと思います。
物語の舞台としては、中世や近世のヨーロッパを模したものが多く、アジアが舞台になることもあります。自分の読んでいるものを分類すると、現実世界で死んで小説の世界に転生するタイプ、バッドエンドを回避するために死に戻るタイプ、あとは特に転生も死に戻りもなく、中世や近世を舞台にした物語、があります。
フェミニズムの観点でおもしろいのは、「悪女」が主人公になる点でしょうか。『悪女は砂時計をひっくり返す』(作画:Antstudio、原作:SANSOBEE、KADOKAWA、2021~2025年)が、わかりやすいと思うのですが、少女マンガの王道としての純粋で無垢なヒロイン像が冒頭で否定されます。純粋さはむしろ世間知らずの愚かさとして描かれ、そのために周りに騙されて、義妹を陥れようとした悪女として処刑されてしまうんです。そして、死に戻るとむしろ先回りして「悪女」性を実装し、復讐する、というヒロイン像の更新の物語として読めます。
きりとり たしかに、「悪役令嬢」に転生してしまった主人公たちや、「死に戻り」の主人公たちはもとの悪役令嬢や前世と違って、嫉妬で怒り狂わず、他人を思いやり、勉学に励み知的で……といった「善さ」によって断罪を回避する系統も多いので、その点をずらし続けた『悪女は砂時計をひっくり返す』は重要な作品ですね5。
遠藤 通常なら愛情に基づくと思われがちな母と娘などの対人関係が、利用価値の有無によって冷徹に扱われているのが印象的でした。生きるためのこういった計算高さって、少女マンガでは忌避されてきたというか、いつか痛い目に合う「悪役」として描かれてきたと思います。また、「死に戻り」で興味深いのは、やり直すことで人生が上手くいく一方、成長するにつれて前世の記憶が失われていくというファンクションがよく使われることです。このネガティブな設定は、具体的に3パターンくらいあって、まず前世の過ちを忘れて幸せになってしまう自分が許せないパターン、次に前世での罪を忘れてしまうと、同じ過ちを繰り返してしまうのではないかと恐れるパターン。そして最後に、もとの現実世界を忘れてしまうことで戻れなくなるのではないかと恐れるパターンに分類できると思います。例を挙げると、『皇帝が時計の針を巻き戻した事情』(脚色:HWAYOUNG、作画:YONGKKE、原作:blooming bouquet、ウェブトゥーン、2021〜2023年)は、幸せな自分が許せないのと、かつ、同じ過ちを繰り返すことを恐れていますし、『悪女を殺して』(作画:Haegi、原作:Your April、ウェブトゥーン、2021〜2024年)、そしてきりとりさんが先ほど挙げていた『悪役のエンディングは死のみ』では、もといた世界が本当にあったのかどうか、その確信がときどきゆらぎます。
記憶の忘却というファンクションについて、ジャック・ハルバースタム『失敗のクィアアート 反乱するアニメーション』(藤本一勇訳、岩波書店、2024年)に興味深い指摘があります。同書で彼は、忘却はクィアな生を新しく始めるためのきっかけになるといっています。つまり家族や異性愛的な家父長制と結びついた資本主義に代表される、強固な連続性を伴ったシステムの外部に行くことが難しい場合、忘却が、違うやり方を始めるきっかけになるのではないかというものです。しかも「悪役令嬢もの」における忘却は、それが自分の意志に反して起きてしまうこともポイントです。「悪役令嬢もの」の主人公は、ほとんどが、この先に起こる結末を知っていて、自分の意志や主体性によって望ましい未来を勝ち取ろうと行動するんですが、じつは、そういった主体的な行動よりも本人が怖れている「忘却」の方に未来の可能性があるというのは、大変示唆的だと思います。
「悪役令嬢もの」は、家父長制的な中世の封建社会を背景に、運命に抗う女性が描かれている場合が多いです。そう説明すると、エンパワメントな物語として読めそうですが、実際には、「結局何も上手くいかないんだ」と絶望を感じる物語も多いです。私は、エンパワメントよりもそういうネガティブな描写をしている方に好きな作品が多いです。つまり、主体性や能動性による成功の物語――ネオリベ的な自己実現の物語への偏重をときほぐすような、シャドーフェミニズム的な「悪役令嬢もの」に私は可能性を感じています。

白江 忘却の主題はノベルゲームにおけるループの主題と非常に似ているなと思いました。かつて90年代から10年代にかけて隆盛したノベルゲームでは忘却する・される展開やループのたびに主人公の人間性が摩耗していくといった展開が頻出しましたが、そこでは社会秩序や階級の主題はあまり積極的に推進されませんでした。その後、ノベルゲームのあとでウェブ小説が注目されていくんですが、男性作家が書いて主に男性読者が読んでいるウェブ小説では、社会秩序と生存の問いは中心化しつつも、全体的に逃避や願望充足の側面が際立っていきます。具体的には、王や大貴族に認められて立身出世するか、大貴族などの上位者の庇護のもとでのんびり悠々自適な自営業生活をするといった傾向が濃くなります。この方向性にハーレムがしばしば付随しますね。他方でダンジョンやバトルを延々廃人プレイのように繰り返すものもあるんですが、この二つは乱暴にまとめると、ワークライフバランスの理想を打ち出すものと、破綻した自棄的なワークライフバランスを美的に打ち出すものだといえます。いわば、男性向けノベルゲームではロマンス志向はあったが社会秩序は除外され、男性向けウェブ小説ではロマンスはより願望充足的にイージーなものになりつつ、社会秩序は立身出世やスローライフに回収されていきました。この情勢と比べると、女性読者に読まれているウェブ小説やウェブトゥーン作品では、ロマンスと社会秩序や階級に関して新たな批判的認識が見られるように思います。
気になったのは忘却とロマンスがどの程度関連しているのかということです。というのも男性向けノベルゲームだと、この両者が往々にして不可分になっています。つまり相手を忘れたり、相手から忘れられると悲恋になるとか。そういうパターンが多く男性向けノベルゲームは自己への問いが希薄になりがちです。壊れている主人公、過剰に献身的である主人公、周りの人間関係に屈託のある主人公というのはよく出てくるし、そうした視点人物と外的環境の齟齬はノベルゲームのユーザーインターフェースと相性がいいため、大きな主題に発展したとはいえ、そうした取り組みについて主体性やエンパワメント、抵抗といったふうに論じた言説はほとんど現れなかった。ここには00年代の言説の秩序と10年代以後の感受性の変容もあって、「悪役令嬢もの」では別のフェイズの取り組みが生まれているように思います。男性向けウェブ小説では、この種の主人公のモチーフを引き継ぐか、軽くして願望充足性を高めるかの二つに分岐しました。物語序盤で主人公が社畜として限界を迎えているといったよくある冒頭も継承の一つで、この場合は現代世界に見切りをつけて別の世界での幸福が始まる前振りとして位置づけられてしまう。『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』(理不尽な孫の手、「小説家になろう」、2012~2015年)がしばしば男性読者で評価が高いのは、前世の自分にこだわってしまうことで主人公の主体性と願望充足の両方の側面を達成しているからだと思います。しかし、高評価されている作品であってもロマンスと社会秩序、主体性の問いが先鋭化したかというとそうではない。『無職転生』でもハーレム願望の充足は堅持されていますし。
ただ、『無職転生』にせよ『理想のヒモ生活』(渡辺恒彦、「小説家になろう」、2011年~)や『異世界迷宮でハーレムを』(蘇我捨恥、「小説家になろう」、2011年~)にせよ、2011、12年ごろはポルノを喚起させるタイトルやワードを強く出さないとランキング上位に上がれず、書籍化で選ばれるのもそういったバイアスが強くかかっていました。書籍化される版元やレーベルが男女別に振り分けられたとか、アルファポリスから書籍化されたため「小説家になろう」投稿版が削除されて消えてしまった情勢なども2010年代初頭には目立ちますね。『転生したらスライムだった件』(伏瀬、「小説家になろう」、2013~2015年)は書籍化段階でより全年齢的、メジャー作品を狙うようにキャラクターデザインが調整されたり、その後は書籍化をとりまく状況も変化しています。日本で「悪役令嬢もの」がジャンル形成される上で『謙虚、堅実をモットーに生きております!』(ひよこのケーキ、「小説家になろう」、2013年~)のランキング上位入りが大きな役目を果たしたとよくいわれますが6、これもそうした潮流の変化の一つなのでしょう。「悪役令嬢もの」のなかでも最初にアニメ化されたのが、比較的憎悪や攻撃性の乏しい『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』だったのも、巧みな選択に当時思っていました。そういったマイルドな調整が男性向け市場、女性向け市場それぞれに進行しつつも、ロマンスやソフトポルノの願望充足を保持したジャンルが継続しているのですが、「悪役令嬢もの」には男性向け作品とは異なるが別の先鋭化が起きているように思えます。例えば先ほど挙げた忘却ですが、「悪役令嬢もの」における忘却も、ロマンスとは不可分なのでしょうか?
遠藤 特定の対象を忘れたり思い出したりすることでロマンスを描くという作品は、「悪役令嬢もの」ではあまり見かけませんね。ですが、忘却とロマンスが関連する物語もあります。例えば、前世の記憶の想起と忘却を繰り返す主人公は、精神疾患だと看做されて、孤立した存在として描かれることがあります。そんな主人公を見捨てない唯一の理解者が現れるかどうかが、ロマンスとして描かれる。『この結婚はどうせうまくいかない』(原作:CHACHA KIM、絵コンテ:CHOKAM、作画:Cheong-gwa、ウェブトゥーン、2022年〜)がそうです。『リセッティング・レディ』(脚色:白雨、作画:太空、原作:茶書鎭、ウェブトゥーン、2022年〜)もそうですが、こちらは主人公の狂気が強烈で、サスペンス要素の方が強いです。
きりとり 私自身は作者と読者のジェンダーやセクシャリティを前提とした作品読解について、そもそも推定が難しいと考えており検討してこなかったのですが、作者と読者のアイデンティティ、ジェンダー区分とともにあるマンガや文学作品の分析がいままで欠落してきたと批判的に取り組まれている白江さんならではのまとめ方だと思いました。たしかに『無職転生』は家族が幸せに生活を営むことと家族全体の武力の研鑽が一致していくといいますか、ワークライフバランスが奇妙な習合をみせていき、納得的に読めますよね。
研究者の藤本由香里は、家族を主題としてきた少女マンガが恋愛へ傾倒していった萌芽を、男性主人公が家族愛に恵まれなかったことを唯一理解したヒロインが男性主人公に対し「私こそはあなたに暖かな家庭をつくる」といった宣誓に見出します7。悪役令嬢ものにスライドすると、男性・権力者の心的安全を主人公がつくり出さないと自分が殺されてしまうということが契機となるも、最終的にはその努力がだれかとの愛へと変異するといえます。この愛へのバランスを崩すと、少女マンガはサスペンスへと傾倒していくという幅の体現が、悪役令嬢もののスペクトラムを生んでいるということですね。愛とはじゃあ何なのかと主人公が切り詰めるとサスペンスになる、これを『リセッティング・レディ』は実に見事に形になっていると思います。連載中なので最後が楽しみです。
忘却だけでなく、死に戻りや転生者としての究極的な孤独や心身への負荷に対する登場人物の在り方はロマンスや友情の分岐としてたくさんの作品を盛り上げてきたと思いますが8、『この結婚はどうせうまくいかない』は主人公の死に戻りでの苦悩が極めて丁寧に描かれているため、主題としてのサスペンスと愛と家族がクリシェとして上滑りすることなく、読者の心を掴んだのではないでしょうか。

遠藤 「私こそはあなたに暖かな家庭をつくる」というのは、『僕らがいた』(小畑友紀、『ベツコミ』、2002~2012年)や『アオハライド』(咲坂伊緒、『別冊マーガレット』、2011~2015年)がそうですね。『この結婚はどうせうまくいかない』では、そのジェンダーロールの反転がうかがえます。ただ、「悪女もの」は、少女マンガ的なビルディングスロマンとは違って、ロマンスの成就を主人公の精神の成熟、つまり大人になるための正しい成長の物語としては描かないんですよね。常に死に怯えてはいるものの、安易にロマンスによる全人格的な救済を待たないというか。
また、物語を語り継ぐ営みそのものに内在する「忘却」に注目した作品として挙げたいのが、死に戻りや転生のない「悪女もの」である『彼女の沈清』(原作:seri、作画:biwan、ウェブトゥーン、2017〜2020年)です。韓国の有名な孝行娘の民話「沈清伝」における余白を、想像力によって補完する物語です。作者は、民話のなかで語られず、人々の記憶から忘れられてきた部分に目を向け、二人の女性主人公同士のロマンスを想像し、丁寧に描き出していきます。元の民話は家父長制や異性愛規範に強く支えられていますが、このマンガは、そうした構造における忘却を起点に、別の物語を立ち上げた優れた例だと思います。
きりとり あと、ロマンスと忘却が分裂している例として突出していると思ったのは、現代日本の学園を舞台とした『麗子の風儀 悪役令嬢と呼ばれていますが、ただの貧乏娘です』(原作:ベキオ、マンガ:otakumi、キャラクター原案:ミト、KADOKAWA、2020年~)です。主人公の麗子は高校生なのですが、ある同級生から突然、この世界は乙女ゲームのなかで、麗子は諸悪の根源たる悪役令嬢だと学校で言いがかりをつけられます。麗子も周囲もその同級生が妄想にとりつかれているとして基本的には取り合わないのですが、麗子は認知症の祖母の介護経験から同級生の言いがかりに対し否定せず、同調することにしていきます。とはいえ、麗子自身は貧困下のヤングケアラーとして生きてきたなかで、現実を妄想的に読み替えたり、目の前の現実からすぐ無関係な事象へと思考をスライドさせるなど、フィクションを通して自分を守ってきた人物です。ここでの忘却はロマンスのトリガーというよりも、まずは生きのびるための抵抗の手段やケアされるべき状態として明確に描かれていますね。
白江 男性権力者の心的安全をつくることで主人公自身が安全を確保するというのは「私にだけやさしい暗殺者/私にベタ惚れのヤクザ若頭・ヤンキーのボス」類型として、今でもいろんなエンタメにみられますね。
女性主人公が「私こそはあなたに暖かな家庭をつくる」となるのは、ちょうど男性向けノベルゲームの恋愛が魂の救済を異性愛に見出し、かつ子どもが生まれ家庭を築くエンディングを迎える傾向をパートナー側から描くことでもありますね。男性向けエンタメをめぐる議論ではロマンスの中心化を問う土壌があまり豊かではなかったため、ロマンスを批判的に検討するとか、ロマンスが同時に家庭と生殖の秩序の再生産に組み込まれる面の検討はあまり進んでいるといえないと思いますね。恋愛、結婚、家庭形成という一連の過程が男性の場合「成熟」の意味を帯びた社会規範性とともに駆動しがちで、女性の場合に比べて「家父長制に組み込まれる」という批判的な視線が顕在化しない、あるいは、少し前までは特にそうだった、という面がある。
それに、主人公が精神疾患やケアが必要な境遇であるというのは昔のノベルゲームにもよく出てくるんですが、その境遇が引き起こすコンフリクトはプロットの上では和解に着地させる必要があって、そのためにロマンスを絡める、というのが多発したように思います。が、これは男性向けの宿痾というよりは、男性向けノベルゲームが参考にした、(女性向けを含む)ロマンス作品がさらに少し古い系統に由来していて、時代ごとのズレがこうして出てくる、というふうにも思いますね。また、ノベルゲームは「ロマンスに着地させなければならない」というのが、男性向け新世代ロマンスジャンルとして爆発的に求心力を持った代わりに、ロマンスに結合させるかたちでしか主題を扱えなくなったという呪縛を生んで、それが90~00年代の時代様式と結合してしまっている、という限界があるんでしょう。
脚注
きりとり めでる
批評家。1989年生まれ。デジタル写真論の視点を中心に研究、企画、執筆を⾏っている。著書に『インスタグラムと現代視覚⽂化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』(共編著、ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)がある。2022年に「T3 Photo Festival Tokyo 2022」のゲストキュレーターを務めた。最近の論考には「コンテンポラリー・アートの場としての長谷川白紙と過剰な装飾――アヴァンギャルドでキッチュ」(『ユリイカ』2023年12月号)など。
遠藤 麻衣(えんどう・まい)
アーティスト、俳優。コラボレーションやパフォーマンスを通して身体の政治性を探究するアーティスト。クィア・フェミニスト理論における「受動性」や「失敗」をパフォーマンスや映像で実践し、人間/非人間らの関係性を再創造している。近年は、ニューヨークにおける非制度的タイムベースド・アートをアーカイブするFranklin Furnaceのゲストリサーチャーとして調査を行ったほか、日本のストリップショー文化を再解釈し、踊り子の宇佐美なつとともに《オメガとアルファのリチュアル》(「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか」国立西洋美術館、2024年)を発表。2018年より丸山美佳と『Multiple Spirits(マルスピ)』を刊行。
白江 幸司(しらえ・こうじ)
批評家。1980年生まれ。筑波大学比較文化学類卒業。映像と美術、文学をめぐるメディアエコロジーとポピュラー文化表象、ポストモダン論を対象とした批評・研究活動を行っている。論考に「ノベルゲームの世紀転換期――「ノベルゲームのファンタスマゴリア」解題に代えて」(『Ghost Letters 02』2024年)、「波打ち際のラクー゠ラバルト――トラウマと存在-類型論」(『リミトロフ』5号、2023年)、「ノベルゲームのファンタスマゴリア――『魔女こいにっき』における行為と竜」(『新島夕トリビュート』2022年)、「フレドリック・ジェイムソンの種子――『ポストモダニズム』を読むための覚書」(『現代思想』2021年6月号)など。
※インタビュー日:2025年11月10日
※URLは2026年2月16日にリンクを確認済み
>過剰な反復と微細な差異――悪役令嬢転生ジャンルをひも解く きりとりめでる×遠藤麻衣×白江幸司[中編]
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