川﨑 寧生
日本、そして海外において、そのあり方がたびたび話題となるビデオゲームは、「社会と折り合いをつけながら存在している」といえるでしょう。本稿ではそのなかでも、世界各地で特に規制を受け、国ごとに大きく変容していっているゲームセンターに焦点を当てます。前編では三つの国の実際の例から、各国のゲームセンターが、過去から現在にかけて人々からどのように捉えられたか、またそれを受けてどのように変わっていったのか、を考えます。
現在、ビデオゲームは世界的に遊ばれている娯楽文化である。例えばそれは、産業の売上が26兆8,005億円と非常に高いこと(角川アスキー総合研究所、2023)や、この市場が主に北米、欧州、東アジアなど各国に及んでいること、また日本では、東京オリンピックでの活用、観光や教育、地域振興などでの活用など、多岐にわたる。多くの国で、ビデオゲームは社会に根付いた身近な文化となっているといえるだろう。
このビデオゲーム文化は、世界の流れとして、往々にして社会と折り合いをつけながら根付いていった。そのなかでは、各国の異なる社会状況から統制を受けるケースも珍しくなく、その結果行われる規制によって大きく影響を受け、変化、あるいは衰退していくこともある1。日本ではビデオゲーム文化が当たり前のように存在しているが、他国ではそうではない形で違いが現れている場合が多い。
この文化の違いについて、他国のことをよく知らないプレイヤーでも身近に感じることはあるだろう。特にわかりやすい事例としては、中国における2020年代初頭における、突然のビデオゲーム関連の規制と解除2や、性的・暴力的ゲームに関する世界各国の規制の差異3が挙げられる。国の意向によってゲーム文化が異なる形で管理・統制されうることが目に見えてわかることと思われる。
今回はそのなかで、特にビデオゲーム史の初期から存在し、各国で規制を受けて、国ごとに大きな変化をしている、「ゲームセンター」の世界でのありようについて見ることで、ゲーム文化が社会状況の変化や、そのなかで受ける社会統制にいかに影響され、変化していくのかについて考えてみることにしよう。
なお、2020年から現在まで続くCOVID-19の流行によって、全世界的に、ゲームセンターを含めた家の外の娯楽文化全般が、該当の産業やCOVID以外の社会状況による要因を抜きにして、大きな打撃を受けた。そのため、ゲームセンターにまつわる状況も大きく変化している可能性が高い。しかし、日本以外の国におけるゲームセンターや家の外における直近のゲーム文化の情報はさまざまな要因により整理が難しい。そのため、本記事では2020年以降の状況は一旦置いて紹介していることを提示しておく。
また、今回対象とする「ゲームセンター」は、主に「場所や客層に応じた硬貨投入型娯楽機器によって、遊び(プレイ)を中心とした多様な文化を形成することが出来る娯楽施設」(川﨑、2022、239ページ)である。あくまでアーケードゲーム機が設置されている施設全般をゲームセンターと考えることにすること、ご承知願いたい4。
世界的に「ゲームセンター」という場所が最初に現れたと言われるのは欧米である。そのため、現在も産業自体は残っており、各地でアーケードゲームが設置されているが、その様相は大きく異なる。本記事では簡単に、アメリカのゲームセンターの歴史を社会的な動向を主軸に追いかけることで、日本との差異を考えてみる5。
アメリカでは19世紀末から20世紀初頭にはゲームセンターに類する施設である、「Penny (Game) Arcade」が生まれていたとされている。エルキ・フータモ(2005=2015)6や、スティーブン・L・ケント(2001)によると、19世紀後半に現れた多種多様な娯楽機器が、19世紀末に「Penny Arcade」として商店街にコーナーとして設置された。その後、Penny Arcadeは20世紀初頭における「ピンボール」ゲーム機7の誕生と流行を契機として「Game Arcade」と呼ばれるようになった。そして、『Pong』(Atari、1971年)をはじめとするビデオゲームの躍進も含める形で、Game Arcadeはアメリカ全土に広がっていった。日本においても、そもそもGame Arcadeがゲームセンターの原点の一つである8。
他方で、各種Arcadeはいくつかの理由によって批判され、法規制や排斥運動などもされてきた。その要因は主に二つある。
一つ目はピンボール機の賭博機器のイメージ付与とマフィアによるマネーロンダリングである。先述したピンボール機は現在、技術介入度が高い「フリッパー」機9が主流である。しかし、「フリッパー機」が開発される以前のピンボール機は、弾を打ち出した段階で球を操作できなくなるため、運の要素が強いゲームであった。そのうえで、Bally社の『Rocket』(1933年)など、「Pay Out」方式と呼ばれる少額の硬貨が戻る可能性がある形式のピンボールが多数製作されたことにより、ピンボール機を賭博機器であるかのように捉える風潮が生まれた。
同時に、マフィアがマネーロンダリングのためにピンボール機を利用したため、アメリカ全体で、ピンボール機は賭博機を設置している賭博施設であるという風潮が生まれた。結果として1930年代から1940年代にピンボールの排撃運動が起こり、なかにはニューヨーク市のように1976年まで完全な追放令を出すケースもあった。これら賭博に関する問題は、先述した「フリッパー」機の誕生と産業による周知の努力により少しずつ解消された。結果として、1970年代頃には、ピンボール機に対する賭博に関するイメージは払拭されていった。
他方で、おそらく現在まで残り続けている問題が、青少年保護や非行への対処の問題である。Game Arcadeは、前身であるPenny Arcadeの時点ですでに、「ペニー・アーケードはしばしば道徳的に問題ありとされ、不品行さらには感染症の土壌である」10という批判が存在していた。フータモによると、この批判は初期の映画館に対するものと同種であるとされながらも、映画館の風評は1910年には払拭されたが、Penny Arcadeは上記のマイナスイメージを払拭することができなかったという。
この風評は大なり小なり続いており、1960年代から1970年代にはGame Arcadeの主な客層は若者層、特に不良や非行少年(delinquent)となっていたと考えられる。当時のことを記述している文献では、1960年代から1970年代において、ピンボール機やArcadeが題材となるメディア作品の主人公が社会的に問題のある若者たちだったことが描かれている11。
この流れのなか、トリスタン・ドノヴァンは、1970年代以降、ビデオゲームが流行し始めると、改めて国内全体にGame Arcadeにおける非行(主に犯罪や薬物中毒)の懸念と、長時間のゲームプレイによる心身の影響への懸念が現れ、結果さまざまな州、市において新たに規制が設けられていったと記述している12。
カーリー・A・コクレクは、上記の流れで起きたArcadeへの規制の手法を提示している。アメリカの規制における一つの特徴として、規制の有無のレベルにまで、州や市によって規制手法や導入期間の大きな差異が存在している。例えば規制を設けなかったアイオワ州オタムワ市の例や、ウィスコンシン州のマーシュフィールド市のように1983年から31年間、アーケードゲーム機を完全に追放した例がある。ほかにも賭博機器の規制条例でゲーム機の設置規制を試みた市や、年齢制の入場規制を敷いたうえで組織犯罪とのつながりを警察がチェックした市もある13。
また、これ以外にも、青少年保護関連の問題についてはゲームそのものの暴力性の問題も存在しており、特に『Death Race』(Exidy、1976年)や『Mortal Kombat』(Midway、1992年)の排撃運動はゲーム産業にも大きく影響を与えている。
結果として、上述のマイナス的な社会的イメージをGame Arcadeは払拭することはできなかった。そのためか、産業は別個、完全に親子連れ向けのクリーンなイメージを持つ「Family Entertainment Center(FEC)」を打ち出し、推し進めていくことになる14。
現在、上記の問題を含む複数の要因15によって、アメリカにおけるゲームセンターは、Game Arcadeのような、青少年向けの娯楽施設という文化をほぼ失ったとされる。現在は主に、「Family Entertainment Center」のように完全に親子連れ向けの、飲食店やテーマパークの併設型のゲームコーナーとするケースや、「Barcade」のようにバーと併設する形で大人向けの懐古的施設として経営するケース、あるいはゲームミュージアムという形で文化を保全する施設として残すケースが主体となった16。ただし、なかにはFECとして経営しながらGame Arcade的場所を保存する活動や、対戦格闘ゲーム文化の流れからGame Arcadeを維持しようとする流れも存在しており、青少年向けの娯楽施設というあり方を残そうという流れ自体は継続していると考えられる17。
以上のように、アメリカでは産業そのものが誕生し、成長する歴史のなかで、さまざまな社会状況や、近隣する問題と関わり、結果的に本来の場所のあり方を産業側が完全に切り捨てる形で変容した。このなかでは、ゲームセンターやその周辺にもとからあった問題だけではなく、マフィアの問題や青少年の問題など、大きな社会的問題が影響するケースも多い。
このように、ゲームセンターはその歴史のなかで、大きな社会的影響を受ける、あるいは与えるケースが多い。そして、社会からの影響を受けた結果、ゲームセンターという形がほぼ残らなかったケースもある。それがドイツである。ここでは、筆者が2018年4月から5月後半までドイツに赴いて調査した状況や、そのなかで収集した文献資料、そして先行研究から簡単にドイツのゲームセンターである「Spielhalle」のありようを紹介する18。なお、本記事では1980年代のことについては西ドイツを中心に語る。東ドイツについては政府が主導してアーケードゲーム機を製作していた19が、稼働の経緯や設置状況が全体的に不明であるため、紹介は以上にとどめておく。
ドイツにアーケードゲーム機が導入された時期は不明であるが、1980年代初頭からビデオゲームに関する議論が行われ始めており、恐らくはその頃には導入されていたと考えられる。議論のなかでは主に、青少年保護の観点と、ビデオゲーム機が賭博機器かどうか、という観点の議論がなされていた。規制や排撃運動についての議論の詳細は不明であるが、当時はアメリカや日本でも青少年保護の観点からゲームセンターが問題視されており、またドイツでは賭博について、国が許諾する形で基本的には合法とされていた20。これらを中心に、アーケードゲーム機と賭博機器が混同されて問題視されたことも一因と思われる。ともあれ、最終的に1985年2月に、青少年保護法(Jugendschutzgesetz)によって規制がなされることとなった21。
青少年保護法では主に第8条において、Spielhalleと利得可能性があるゲーム(賭博機器)、そしてビデオゲームの規制の記述が書かれている。すべてを説明すると長くなるので簡潔に説明すると、まずこの法律では16歳未満の青少年のSpielhalleの立ち入りや保護者なしでの家の外におけるビデオゲーム利用を禁止している。そのうえで、賭博機器とビデオゲームについての規制事項を提示し、これらの機器は青少年が利用するような公共の場所では基本設置できないように書かれている。
また、最後の第5項では「人間や動物に対して暴力的あるいは性的な行為が含まれるゲーム、そして戦争を称揚したり、矮小化するようなゲーム機は、子どもや青少年がアクセスできる場所に設置してはならない」(原文訳)とまとめている22。この条文のように、ほぼ当時のアーケードゲームは青少年が遊ぶ場所において設置できないようになっていた。
このように、ドイツではSpielehalleに主に設置されるものは賭博機器とビデオゲームであるとしたうえで、青少年が遊べないように徹底して管理していた。結果として、Spielehalleは完全に大人向けの場所となったうえで、収益率が賭博機器より低いビデオゲーム機は設置されづらくなっていったと推測される23。結果として、現在、ほぼ賭博機器主体の娯楽施設全般が現在「Spielhalle」と呼ばれるようになったと考えられる24。
事実、2018年当時において、ビデオゲームやほかの大型ゲーム機を主軸とする、硬貨を投入して遊ばせるタイプのゲームセンターは、ドイツで確認した限りでは手で数える程度しかなかった25。
最終的に現在、ドイツに、日本やアメリカにあるようなゲームセンターと呼べるような場所はほぼない状況にある。公共の場所で主に稼働できるのは親子連れ向け、6歳以下の子ども向けの教育目的のゲームが主に置かれているFECのみであると考えられる26。他方で、入場料を取得して無料、あるいは兌換不可能なトークンで遊ばせるタイプの手法で法を回避して遊ばせる場所は幾らかある。そういった場所では対戦格闘ゲーム文化の存続や、ミュージアム的なあり方を残している27。また筆者が確認したのは2018年であるため、2023年現在は状況が変わっている可能性もあることを留意したい。
このように、同じ英語圏の欧米諸国であっても、社会環境の違いによって、異なる社会統制が生まれ、大きくゲームセンターに盛衰の変化があることがわかる。最後に本記事では、日本に近く、ゲーム文化だけではなく、ほかの文化も含めてお互いに大きく影響を受けあっているアジア諸国のうち、特に韓国について目を向けてみる。ただし、韓国におけるゲーム史の研究は主に韓国語で書かれているため、日本語や英語で書かれたものはかなり少ない。そのため、本記事で紹介できる範囲は限られることをご了承願いたい。
そもそも韓国において、家の外でビデオゲームはどのように導入されているのだろうか。シン・ジュヒョン(2020)によると、韓国にビデオゲーム機が導入され、議論され始めたのは1970年代後半であるとされている。基本的にゲームセンターが原点であり、「電子娯楽室(ジョンザ・オラク・シル)」と呼ばれていた(シン、2020、26ページ)。シンによると、主に『スペースインベーダー』(タイトー、1978年)と『ギャラガ』(ナムコ、1981年)がきっかけとなり、国全体に広がっていったという。
これらゲームセンターに関する文献資料は確認が難しいため、本記事では詳細な記述は控える。しかし、恐らくは2000年代までは日本と同様のゲームが遊ばれ、「鉄拳」シリーズ(ナムコ)や「ザ・キング・オブ・ファイターズ」シリーズ(SNK)なども遊ばれていたと思われる。これについては、上記作品の強い韓国人プレイヤーが、「闘劇」など日本全国的なアーケード対戦格闘ゲーム大会において結果を残していることや、当時の『アルカディア』『闘劇魂』などの専門雑誌における特集で紹介されていたことからも垣間見える28。
また、2000年代以降における家の外でのゲーム産業において大きく拡大したのが、1996年に生まれた「PC房」と呼ばれる施設である。この「房」とは韓国語で「部屋」、という意味を持ち、余暇文化を嗜む場所として1990年台に再定義された場所であり、ほかにもカラオケやマンガ、家庭用ゲーム機などの「房」が存在していた29。PC房は文字通りPCを主軸とした、韓国におけるインターネットカフェと呼べるような場所である。しかしPC房は日本のネットカフェのような静かな空間ではなく、多数の人々やカップル、友人たちなどが集まりPCゲームを遊ぶという、PCゲームを通じたコミュニケーション空間となっていた。平田知久(2019)の調査分析を見ると、2000年代には韓国全土にPC房が存在し、主にネットゲームを遊ぶ空間として、さまざまな活用法がなされていたことがうかがえる30。
このような形で、韓国の家の外におけるゲームプレイ空間は1980年代から2000年代にわたって広がっていったとされている。他方、シンによると、韓国ではビデオゲーム導入時点から、「子どもの勉強を妨げる」、あるいは「中毒と暴力を引き起こす」として問題視され、青少年に悪影響を及ぼすということが主に議論されてきた31。韓国では、基本的に勉強こそが正義であり、それを阻害するゲームは無価値な存在である、という認識が主体であったという。最終的にシンは、結果として保護者がいる家の中でゲームをプレイするのが難しく、韓国では家の外におけるゲーム文化が醸成し、先述のような形で広がったとまとめている32。
なお、現在の韓国ではPCゲームからモバイルゲームへと市場が移行しつつある33。これもまた、家庭内ではゲームプレイが難しいゆえの変化の一つということができるだろう。
以上のように、ゲームセンターは欧米をはじめとして、世界各国で展開されている。そして、そのゲームセンターや周辺の環境だけを見ても、ゲーム文化は大きく変容していた。場所によっては、元の形から大きく変容するか、完全に衰退し、消失している。他方で、受容されたゲームセンター文化が、ある人々にとっては非常に重要で、残さなければならないものであるとして、保存・保全活動がなされている姿も見ることができるだろう。
また、今回紹介した国々のゲームセンター文化は、いずれも「青少年保護」の観点と、「賭博との関わり」の観点で特に問題視され、排撃運動や法規制を受けている。これはこの三国が特殊というわけではなく、世界全体的に起きていることは、先行研究や文献資料からもある程度明らかとなっている34。
そして、例えばアメリカでは賭博に関する意識や州と市の法的拘束力の問題、ドイツでは賭博に関する認識と青少年保護に対する強い意識、そして韓国では教育的観点から見たゲーム文化に対する厳しい目線など、各国において、さまざまな社会的・歴史的差異から異なる影響を受け、ゲームセンター文化が変遷していることが見えるだろう。
以上を踏まえると、ゲーム文化を考える際に、歴史学や社会学など、異なる目線で物事を見て、そのつながりを踏まえて考えることが大事だといえる。これを踏まえて次は、我が国、日本のゲームセンターの変遷と経緯を追うことで、他国との差異や、日本のゲームセンターと社会との関わりの一端について考えていくことにしよう。
脚注
参考文献(論文・書籍)
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平田知久、2019『ネットカフェの社会学 日本の個別性をアジアから開く』慶応義塾大学出版会。
Huhtamo, Erkki, 2005, “Slots of Fun, Slots of Trouble: An Archaeology of Arcade Gaming,” in Joost Raessens and Jeffrey Goldstein eds., Handbook of Computer Game Studies, Cambridge, MA: The MIT Press, pp. 3-21.(太田純貴編訳、2015「愉快なスロット、困ったスロット――アーケードゲームの考古学」『メディア考古学 過去・現在・未来の対話のために』NTT出版、107~146ページ)
川﨑寧生、2022『日本の「ゲームセンター」史 娯楽施設としての変遷と社会的位置づけ』福村出版。
Kent, Steven L, 2001, The Ultimate History of Video Games: The Story behind the Craze That Touched Our Lives and Changed the World, Roseville, CA: Prima Publishing.
Kocurek, Carly A., 2015, Coin-Operated Americans: Rebooting Boyhood at The Video Game Arcade, Minneapolis: University of Minnesota Press.
増川宏一、1983『賭博III』法政大学出版局。
齋藤純子・渡辺富久子、2015「ドイツにおけるカジノ規制―ゲームセンターとの比較の観点から―」『外国の立法』No. 265, 2015年9月、69~117ページ。
シン・ジュヒョン、2020「韓国の多様化するシリアスゲームに関する社会文化的研究―「ゲーム」と「教育」の対立を超えて―」博士論文、立命館大学。
Wolf, Mark J. P., ed., 2007, The Video Game Explosion: A History from PONG to PlayStation and Beyond, Westport, Connecticut: Greenwood Press, 2007.
参考文献(ニュース記事)
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森口拓海、2023「2021年、韓国ゲーム市場規模は史上初となる20兆ウォンを突破 2022年には22.7兆ウォン(約2兆4,000億円)に達する見通し」PickUPs!、2023年1月12日、https://pickups.jp/global/53194/。
OTOMARU、2023「「暴力表現と規制」で読み解くビデオゲーム史【前編】」IGN、2023年2月26日、https://jp.ign.com/videogame-history/66039/opinion/。
ロイター編集、2023「中国のゲーム人口、過去最高の6.68億人 規制緩和で回復」ロイター通信、2023年7月27日、https://jp.reuters.com/article/china-gaming-idJPKBN2Z70ID。
Walker, Ian, 2017「Super Arcade:あるアーケードの苦難と再生」レッドブル、2017年4月17日、https://www.redbull.com/jp-ja/super-arcade-a-tale-of-struggle-and-rebirth-2017-15-04。
Williams, Alex, 2019, “The Last of Manhattan’s Original Video Arcades,” NY Times, January 14, 2019, https://www.nytimes.com/2019/01/14/style/old-arcades-new-york-chinatown-fair.html.
발행일、2004「”자고나면 곳곳에 PS방”」etnwes、2004年3月30日、https://www.etnews.com/200403290072。
「90%が無許可営業だった 台湾の遊技場閉鎖 警察汚職で発覚、AMゲーム場の条件改善へ」、アミューズメント通信『ゲームマシン』No. 522、1996年7月15日号、1面、電子アーカイブ版参照、https://onitama.tv/gamemachine/archive.html。
参考文献(統計資料)
角川アスキー総合研究所、2023『ファミ通ゲーム白書2023』。
※URLは2023年11月14日にリンクを確認済み