音を極める――メディア芸術の音を創造した人々 第5回 作曲家・鷺巣詩郎[前編]

不破 了三

アニメーション・特撮・ゲームなどのメディア芸術の世界における「音」の表現を切り拓いてきたクリエイターにお話をうかがうインタビュー連載「音を極めるメディア芸術の音を創造した人々」。今回は、アニメーション・特撮制作会社「ピー・プロダクション」の御曹司として育ちつつ音楽の道に進み、21歳でアルバムデビュー後、作曲家・編曲家として多くの作品を手掛けている鷺巣詩郎氏が登場。幼い頃からアニメーション・特撮・音楽業界をつぶさに見てきた視点から、自らの歩んできた道とメディア芸術の今後について、語り下ろしていただきました。

連載目次

初のリーダーアルバム『EYES – 鷺巣詩郎with Somethin’ Special』のLPレコードジャケット

家中がエンターテインメントにあふれていた幼少期

――幼い頃の鷺巣さんと音楽との出会いについてお聞かせください。

鷺巣 私の場合、生まれた家がマンガ家で特撮作家の父親うしおそうじが経営する映像制作会社「ピー・プロダクション」でした。まったく特殊な環境で生まれ育ったのです。信じられないかもしれませんが、当時はマンガを読んではいけないとか、テレビは1日に1時間までとか、いずれも子どもに悪影響という社会認識だったのですが、何せウチの場合は「家業」ですから、逆にマンガ読み放題、テレビ見放題、音楽聴き放題だったわけです。しかも見る側、聴く側ではなく「つくる側」のアニメ・特撮スタジオですから、セル画の撮影室や録音ブースまでも家の中にあって、家族以外のプロの方たちが常に家庭のなかに出入りしているきわめて特別な状況でした。ですので物心ついたときには、すでに家の中にあらゆるエンターテインメントがあふれていて、好むと好まざるとにかかわらず、その激流のなかを毎日泳いでいたような印象です。音楽もそのなかの一つだった、ということですね。

もう一つ。家の近くにカリタス学園の修道院があってよく遊びに行っていたんですが、みんなで聖歌を歌ったり、ピアノの手ほどきをしてくれたり、音楽的な環境が揃っていました。さらにそのとき、のちに世界的なヴァイオリニストとなる久保陽子さんがカリタス学園の女子寮に住んでいたので、直々にヴァイオリンを教えてもらっていました。高校生の久保先生が1962年にチャイコフスキー国際コンクールで3位になり一躍時の人となった……ちょうどその頃です。まだ幼稚園児だったので深い記憶はありませんが、とてつもなく巧い先生にヴァイオリンの手ほどきを受けているんだ、というありがたみを子ども心に感じていました。誰もが音楽教室に通えるようになった日本の情操教育の発展期に、私はテレビや映画のプロの世界、本場の教会の作法のもとで、幼い頃から生活の一部として音楽に触れることができた。一言で言うと、とても「ずるい」環境だったんだと思います。

――その頃に好きでよく聴いていたのは、どのような音楽ですか?

鷺巣 マセているとは思いますが、小学生になるとだんだんジャズが好きになってきました。幼稚園ぐらいから父親に連れられてたくさんの映画を見に行っていた影響です。父が仕事のために見なければいけないあらゆるジャンルの映画に「おっ、詩郎も行くか?」と連れて行かれたわけです。どう考えても4~5歳の子どもが見るような映画じゃないものまで含めてね。大人の女性の魅力を表す妖艶な音楽、もっと突っ込んで言えば淫靡な音楽に惹かれたわけです。普通ジャズが好きになるには、ある程度の歳になってレコードを集めて聴いたり、演奏を見に行ったりする経験があったうえだと思いますが、私が好きな音楽としてジャズを選び取ったのは、父親に連れられて見た映画、そのなかで流れていた音楽から好きになったんだと自覚しています。

――やはり実家のお仕事からの影響が大きいわけですね。

鷺巣 テレビというメディアが子どもを支配する割合が、今とは比べものにならないほどデカい時代です。もちろん録画などできませんから、決まった時間にテレビの前に正座して目を皿のようにして見て、次の日学校に行くとみんなで論争するわけですよ。7~8歳の頃、虫プロさんの手伝いでアニメ『鉄腕アトム』(1963~1966年)を、10歳の頃には特撮ドラマ『マグマ大使』(1966~1967年)を自分の家で描いたり、撮ったりしていたわけですから、放送翌日にあれがどうだった、これはどうなるんだ?という話になるんですけど、そのとき私がふと「これウチでつくっているんだよ」と言っちゃって教室中、いや職員室まで大騒ぎになりました。まったくイヤなガキだったと思いますよ(笑)。その頃、もうすでに見る側・聴く側の感覚ではなく、つくる側の感覚になっていたんだと思います。

――そうした環境のなかで育ちながら、早いうちからピー・プロダクションの仕事のお手伝いもされていたそうですが。

鷺巣 小学生の低学年から手伝いをしていましたが、ガキが現場をウロウロしていたら邪魔で危ないこともわかっていました。社長の息子がジーっと仕事を見ていたら、やりにくいってのもありますしね(笑)。そういうことも心得ていたので、自分にできることは何かを考え、まずは使いっ走りからやりました。出前の蕎麦さえ食べる時間もない現場ですから、作業しながら片手で食べられるものを買いに行かされるわけです。当時はもちろんコンビニなどありませんし、おにぎりもサンドイッチも売ってなかったので、パン屋のコッペパン、もしくは肉屋の焼き鳥ですね。コロッケとか揚げ物はダメなんです。手が油っぽくなるから。菓子パンも個別に包装してあるものは両手で袋を開けなくちゃいけないのでダメ。とにかく片手で掴めて、なおかつ手が汚れないものを買ってこいと言われるわけです。コッペパンにいろいろ挟んでもらったりして、子どもなりに工夫しながら買い物係をしていたのが、まず一つですね。

次は絵を描く手伝いです。小学生高学年ですでにいっぱしのアニメーターでした。マンガ家である父親の膝の上で2~3歳から見よう見まねで描いていましたから、自分よりマンガのうまい子どもなんているわけないくらいの自信を持っていました。そりゃもう即戦力ですよ。主にセル担当です。セルに描線するトレースの作業から何から、この頃はすべて手描きでした。トレースが乾いたらセルを裏返して色を入れていく。モノクロのアニメでしたけど何種類ものグレーを使い分けて色彩感を出す必要がありました……そういう現場に入ってさらに上達し、しまいには小学生の私が新入りの大人に教えてやってる(笑)みたいな。テレビアニメ『ドンキッコ』(1967~1968年)や『ちびっこ怪獣ヤダモン』(1967~1968年)の頃ですね。

中学生になると、周囲も気を遣わなくなります。「この社長の息子はどうやらまともに仕事をする気があるらしい」と、歳の近い若いスタッフともどんどん仲よくなっていきます。次に高校生になったら、事業部門をある程度まかされるようになりました。要はデパートの屋上や遊園地でやる着ぐるみショーの制作ですね。脚本を書いて、着ぐるみをあてがって、セリフを録音して……全部パッケージにしなきゃなりませんから、父親に「音楽も詩郎がつくれ」と言われて、自分で作曲して録音までやりました。父親やスタッフが番組をつくる様子を毎日そばで見ていたので、そのなかに音楽を選ぶ作業があることもわかっていました。こういうふうに作曲家に依頼するんだなとか、こういうふうに音楽を選んで場面に合わせるんだなとか、そういうシステムのほうを先に知っていたのです。普通は高校、大学を出てから目標にするようなことを、高校生の分際ですでに経験したというか、達成しちゃったということですね。

ピー・プロダクションの特撮、アニメ作品の主題歌・挿入歌を総括したうえ、鷺巣詩郎氏による新録音曲も収録されているCD-BOX『うしおそうじ(鷺巣富雄) ピープロ全曲集』(2017年)

作曲・編曲に注力した中学・高校時代

――まさに早熟の少年時代ですが、そうしたなかで音楽の道を選び取ることになるきっかけやタイミングなどは、いつ頃訪れるのでしょうか。

鷺巣 そういう環境で育って、父の会社の仕事をいっぱしにこなせてしまうと……「もう普通の仕事に就くのは無理」と中学生にして悟っちゃうわけです。だから「父の跡を継ぐか?」「自分のやりたい別の道はあるか?」と、普通の仕事以外からの選択肢になるな、と思いはじめたんです。つまり「音楽の道もアリだな」と少し意識するようになったんです。

音楽的な時代背景もありました。1966年のビートルズの日本武道館公演をきっかけに、米英のバンドが続々と武道館でコンサートをやるようになるんですが、私の中学は武道館のすぐそばだったので、学校帰りにほとんど見に行きました。もちろん学校では禁止されていましたけど、当時の雰囲気は黒船来襲と同じ感覚で、どんどん押し寄せてきたので見に行くっきゃなかったんですよ(笑)。

さらに中高一貫校だったんですが、私が中学1年のとき、のちにジャズ・ギタリストになる渡辺香津美が高校2年のクラスにいました。学園祭も中高合同だったのでその演奏を聴いたんですが、すごかったですね。そのあとすぐ高校在学中にリーダーアルバムを出したくらいですから。その演奏を見て、プレイヤーとしてジャズを志すんだったら、このぐらいうまくないとダメなんだ……ならば自分は演奏者ではなく作曲や編曲をする側でジャズに関わろう、と思うようになりました。いわゆるブラバンに入ってオルガンを弾いたり、フルートやサックスを吹いたりもしましたけど、だんだんと自分で(音楽を)書く活動に集中していくようになります。授業中もほとんど音楽の理論書を隠れて読んでいました。なので私は中学、高校時代を通じて、あまりバンドを組んだ経験はないんですよ。その代わり、バンドをやっている友人のために洋楽を耳コピしてあげたり、譜面を書いてあげたり、そういう作業を請け負っていました。

それでもやはりミュージシャンシップを持つためには、エチケットとして最低限の演奏能力は持っていないといけないと感じて、アルトサックスはかなり力を入れて練習しました。高校3年は受験で部活禁止になるので、その1年間はジャズサキソフォニストの中村誠一に習いに行きました。ほかの講師陣もピアノが本田竹広、ギターが渡辺香津美、ベースが池田芳夫、ドラムがジョージ大塚。中村誠一の都合が悪いと大友義雄が教えてくれる、当時第一線の現役ジャズメンばかりのスクールでした。その少しあとにはジャズピアニスト/作編曲家の佐藤允彦1にジャズアレンジを、現代音楽作曲家の佐藤聰明2に管弦楽法を教わっています。いずれも本当は何年もかかるようなカリキュラムを、頼み込んで特別に数カ月で教えていただくような無茶なお願いをしました。あつかましいですよね。

――仕事として音楽に関わるようになったのは、先ほどのお話のようにピー・プロダクションでの着ぐるみショーの音楽が最初でしょうか?

鷺巣 いや、ほぼ同時に別な音楽仕事も始めていました。高校在学中です。昔の言い方で「箱バンのトラ」というやつ。バンド演奏付きの、いわゆる夜のお店でメンバーに欠員が出ると「今夜、渋谷の何とかって店に行ってくれ」みたいに電話がかかってきて、サックス一つ持って行くんですよ。要するに演奏者の緊急補充です。オーケストラボックスに入るビッグバンドのこともあれば、コンボバンドのこともあって、そういう現場でミュージシャン同士のつながりができるわけです。つぎに「お前、譜面書けるんだって? じゃあコレ頼む」みたいにアレンジの仕事までもらえるんですよ。当時はアイドルのコンサートでもバックはすべてビッグバンドでしたから、洋楽カバーなんかをアイドルチックにアレンジし直す必要があって、そういう仕事が舞い込むわけです。高田みづえや石野真子のステージアレンジなんかをずいぶんやりました。

それからCM音楽の演奏の仕事ですね。これは1時間のレコーディングで済むので、例えば「目黒のモウリスタジオに朝10時に来て」と言われて午前中はレコーディング、午後だけ高校に行くとかね。すでに仕事優先の高校生活になっちゃっていました。なので高校生のくせにかなり金持ちでしたね。スタジオから学校に行くときもタクシーで乗り付けたり(笑)。

アルバムデビューと同時期に劇伴音楽にも進出

――その後、いよいよ作曲家・編曲家としての本格デビューとなるわけですね。

鷺巣 すでに結構な量の仕事をしていたし、今さら音楽大学に行く時間なんてもったいないと思っていたんですが、100%進学を謳う高校だったので、「頼むからどこか受験してくれ」と先生に頼み込まれました。結局、大学には入ったんですが、それは一つだけの動機です。山野楽器主催の「山野ビッグバンドジャズコンテスト」です。審査員の一人であるジャズ界の巨匠・前田憲男3に自分のアレンジやオリジナルを聴かせて、認めてもらいたいじゃないですか……やっぱ。授業には1時間も出なかったけど、ビッグバンドや軽音楽部に入ってアレンジをやりまくり、ほかの大学のまでガンガン書いていました。「鷺巣に譜面を書いてもらうと賞が取れるぞ」みたいな噂になって、審査員受けの良いドゥービー・ブラザーズやスティーリー・ダンのコピー譜をつくってあげたり、バンドを指導してしっかり賞を取らせたりとか、要するにコンテスト荒らしみたいなことをやっていたんです(笑)。ビッグバンドのほうは2年生でコンテストに出場して審査員賞を獲得しました。当時、オリジナルのスコアを書いて出場する学校なんてほんの一握りで、それもプロのアレンジャーに委託して譜面を書いてもらうのが普通でしたが、こっちは全曲自分で書いたスコアで賞を取ったんです。「そこらのプロ顔負けの良いスコアだ」と前田憲男大先生にお墨付きをもらえたので、これで目的は果たせたと思い、大学はやめました。

その頃BIGBOX高田馬場の最上階に「ビクター・ミュージックプラザ」という音楽学校も兼ねた施設があって、「スイングジャーナル」4後援のマンスリージャズコンサートが毎月行われていたんです。権威ある雑誌だし、そのレギュラーバンドになるのはステータスでもありました。「ザ・スクエア(現:T-SQUARE)」も1年間レギュラーをやって、次の年にファーストアルバム『Lucky Summer Lady』(1978年)を出すことにつながったぐらいです。ちなみそのアルバムには私もキーボード兼アレンジャーとして参加しています。そのザ・スクエアの次の年のレギュラーを私のバンド「サムシング・スペシャル(Somethin’ Special)」が務めることになったんです。

それまで自分のバンドを組んだことはなかったのですが、本当に良いメンバーが集まってくれました。ザ・スクエアの伊東たけしも掛け持ちで参加してくれましたし、ゲストには、のちに同業者になる笹路正徳5、本多俊之(サックス奏者でもある)、ギタリストの秋山一将、シンガーの宮本典子なども来てくれて……本当に楽しい1年間でした。メンバーに女性ヴォーカルもいてパフォーマンスはもちろん見栄えもよく、ジャズ/フュージョンだけでなくポップスとしての評判も立ったので、よく芸能事務所やレコード会社の人たちが見に来てくれました。結果、そのなかの一社と契約したわけですが、そのたった1カ月後にはもうレコーディングしていたので、トントン拍子でしたね。それがデビューのリーダーアルバム『EYES – 鷺巣詩郎with Somethin’ Special』(1979年)です。当時21歳でした。

――アーティストとしてアルバムデビューされるのとほとんど同じ時期に、映像作品の音楽にも進出されていますね。

鷺巣 デビューアルバム『EYES』の原盤権の一部を持った毎日放送(MBS)傘下のミリカ音楽出版(現:ミリカ・ミュージック)から、デビューアルバム発売後すぐドラマ音楽の仕事の依頼がありました。それが若尾文子主演の『旅立ちは愛か』(1979~1980年/MBS系)です。撮影も見学して若尾さんにもご挨拶しましたよ。プロデューサーに「彼女がより美しく見える音楽をつくってくれよな!」とハッパをかけられ、若尾さんにも「よろしくね」とか言ってもらって。22歳の新人に優しくしていただきました(笑)。それでまぁ夜10時台の大人の不倫ドラマが劇伴音楽のデビューになったわけですから、すごく痛快でしたよ。幼少時に父と一緒に大人びた映画を見たときの、あの独特のモヤモヤとした感覚を今こそ創作に生かせるんだと思うと嬉しかったですし。ピアノが笹路正徳、ドラムが青山純、サックスが伊東たけし、といつもの気心の知れたメンバーを集めてドラマの音楽までをも録音できる幸せを感じました。アーティストとしてアルバムデビューした直後に劇伴の仕事なんて……と思う人もいるかもしれませんが、最初にお話ししたとおり、私はそういうテレビ番組をつくる現場のなかで育ち、その苦労も知り尽くしているので、ドラマであろうが、アニメや特撮であろうが、それを躊躇する気持ちなんて一切ありませんでしたね。自分のアルバムの仕事と、そういう劇伴の仕事を分け隔てて考える発想が、まずなかったです。

その後すぐセカンドアルバムの話になって準備をしていたんですが、急にレコード会社の担当から「ちょっと中断してこっちをやってほしい」と言われたのが、イタリア映画『ポールポジション2』(1980年/監督:マリオ・モッラ)の日本盤サウンドトラックの仕事でした。同じ事務所の先輩、惣領泰則6が音楽を手掛けた1作目の『ポールポジション』も愛聴していたので、その2作目をやらせてもらえるなんて……そりゃセカンドアルバムよりこっちを優先しよう!と即決しました。また同時期に東映映画『さらば、わが友 実録大物死刑囚たち』(1980年/監督:中島貞夫)の主題歌アレンジもやらせていただいたので、この2つが映画音楽の最初の仕事になりますね。

イタリア映画『ポールポジション2』の日本盤サウンドトラックのLPレコードジャケット

脚注

鷺巣詩郎(さぎす・しろう)
1957年、東京都生まれ。本名同じ。1978年、ザ・スクエアのデビュー作に参加して以来、これまで約30年間もの長きにわたり第一線で活躍し続け、驚異的なキャリアを誇る、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。80年代初頭のアイドル歌謡曲時代から、インストゥルメンタル・アーティスト、近年のシンガー・アーティストに至るまで広範囲にわたり何百何千もの楽曲、アーティストを手掛け、加えて、映画、TVなど、あらゆる映像音楽(サウンド・トラック)分野でも活躍。あわせて膨大な数のヒット作品を、絶えず世に送り出している。90年代よりヨーロッパでも活動、パリでのクラブ経営、英仏アーティストの楽曲も手掛ける。また、日本人作曲家として初めて韓国映画の音楽監督も務めた。近年の代表作はMISIA、平井堅、CHEMISTRY、エリーシャ・ラヴァーン、SMAP、ゴスペラーズ、葉加瀬太郎、『エヴァンゲリオン』シリーズ、『MUSA』『CASSHERN』『BLEACH』『進撃の巨人』『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』など。http://www.ro-jam.com/

※インタビュー日:2022年7月4日
※URLは2023年2月1日にリンクを確認済み

1 ジャズピアニスト、作曲家。1941年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中より頭角を現し、大野雄二、鈴木宏昌とともに「慶應ジャズピアノ三羽烏」と呼ばれた。大学卒業後、バークリー音楽院(現:バークリー音楽大学)に留学。帰国後初のリーダーアルバム『パラジウム』でスウィング・ジャーナル誌の「日本ジャズ賞」を受賞。以後、ジャズピアニスト、作曲家として多方面で活躍。
2 現代音楽作曲家。1947年、宮城県生まれ。独学で作曲を習得。1970年代前半より作曲活動を開始し、1980年には文化庁芸術祭賞を受賞している。1983年、エイジアンカルチャーカウンシルの招きでニューヨークに1年間滞在。その作品は、世界各国で演奏されている。
3 ジャズピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。1934年、大阪府生まれ。高校卒業と同時にジャズピアニストとしての活動を開始。作曲や指揮法は独学で習得したという。1955年に上京し、「西條孝之介とウエスト・ライナーズ」のメンバーとして活躍。以降、歌謡曲やテレビ音楽、映画音楽の作編曲などでも活躍。2018年没。
4 1947年にスイングジャーナル社から創刊されたジャズ専門誌。各種ジャズ盤やオーディオ機器のレビュー記事のほか、日本ジャズ界の発展に貢献した人物を表彰する「南里文雄賞」の主催など、戦後日本のジャズカルチャーを牽引した。2010年に休刊。
5 キーボード奏者、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。1955年、群馬県生まれ。1979年、清水靖晃らと結成したフュージョン/プログレ系のグループ「マライア」でメジャーデビュー。以降、スタジオ・ミュージシャン、コンポーザー、アレンジャーとして活躍。プリンセス プリンセス、SHOW-YA、UNICORN、PUFFY、スピッツ、コブクロなどを手掛けた名プロデューサーとしても知られる。
6 作曲家・編曲家。1949年、富山県生まれ。1969年、NHKの音楽番組「ステージ101」のレギュラーバンド「シング・アウト」にリーダー兼ギタリストとして参加。同年、「第1回合歓ポピュラーフェスティバル’69」に「涙をこえて」で出場して作曲グランプリを獲得、デビューシングルとなる。以降、歌謡曲やテレビ音楽、映画音楽の作編曲を手掛ける一方、自己のバンド「惣領泰則&JIM ROCK SINGERS(後にジム・ロックスに改名)」でも活動。

第6回 作曲家・鷺巣詩郎[中編]
第7回 作曲家・鷺巣詩郎[後編]

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