中野 晴行
東日本大震災と新型コロナウイルス。二つのピンチを乗り越えて地域おこしに取り組んでいるのが、宮城県石巻市の第3セクタータウンマネージメント機関「株式会社街づくりまんぼう」です。石ノ森章太郎の原画などを活用・展示する「石ノ森萬画館」の指定管理者でもある同社が取り組む地域おこしについて取材しました。
宮城県石巻市は、県庁所在地の仙台市からおよそ50km、JR東北本線と仙石線を経由する「仙石東北ライン」を使えば約50分の距離だ。人口は2023年7月1日の推計で13万4,416人。仙台に次ぐ県内2番目の規模だが、減少傾向が続いている。また、県の指定する広域行政推進地域では、東松島市、女川町とともに石巻都市圏を構成する。
市の中央には、岩手県を源流に、宮城県登米市で新北上川と分岐した旧北上川が流れ、江戸時代には北上川を利用した河川舟運と千石船を使った海運の拠点として、奥州1の二大貿易港の一つに数えられていた。
現在も農業・漁業・製造業が主要産業で、米は宮城米の代表産地。漁業では石巻港が全国第5位の水揚げを誇っている。製造業は、水産加工業と東北最大の造船メーカーである株式会社ヤマニシをはじめ、造船や港湾プラントが中心。また、日本の書籍用紙の4割を生産する日本製紙株式会社(旧十條製紙)石巻工場があることでも知られている。
石巻市の中瀬地区に『サイボーグ009』(1964年)や『仮面ライダー』(1971年)の作者・石ノ森章太郎の原画などを収蔵展示するマンガミュージアム「石ノ森萬画館」2が誕生したのは、2001年7月23日。石ノ森自らデザインした宇宙船をイメージした建物が印象的だが、このミュージアムで注目したいのは、開館と同時に設立されたタウンマネージメント機関の第3セクター株式会社街づくりまんぼう(以下、街づくりまんぼう)が指定管理者となって、ミュージアムの運営とミュージアムを軸とした街おこしを同時に推進している点だ。
2021年から街づくりまんぼうの代表取締役を務める木村仁氏に、石ノ森萬画館と石巻の街づくりに関してうかがった。
木村 街づくりまんぼうの設立は石ノ森萬画館のオープンの半年前になります。当時は、ミュージアムのような箱物は、自治体が直接運営することが多かったのです。そんななかで、第3セクターの街づくり会社をつくって、そこが運営しようというのは冒険だったかもしれません。しかも、街づくりまんぼうは、施設の運営だけが目的ではなく、マンガで街おこしをする、マンガで街を元気にすることが目的なのです。館の運営のほかに、収益事業と、街づくり事業を併せ持っているのです。
そもそも、街づくりまんぼうの前身は、1995年頃から「マンガで石巻を元気に」と訴えてきた有志でつくった市民団体なんです。その流れで、初代社長には商店会の会長が就任しました。私も元は広告代理店の営業マンで、営業拠点をつくるために石巻に通ううちに市民団体の方たちと仲良くなって、こちらに転職したのです。今でも、職員には市からの出向者はいません。もちろん、市といい距離を保ちながら、お互いのいいところをうまく生かしながらやらせていただいていますが、自治体中心の第3セクターとは少し異なるわけです。
これは、石ノ森萬画館開館に至る経緯とも関係している。
1995年、石ノ森章太郎は代表世話人を務めていたストーリーマンガ家の団体「マンガジャパン」(現在は一般社団法人マンガジャパン)のメンバーとともに先述の日本製紙株式会社石巻工場を視察するために石巻を訪れた。1938年に宮城県登米郡石森(いしのもり)町(現在は登米市)に生まれた石ノ森にとって、石巻は自転車で数時間をかけて映画館に通った第2の故郷とも言える土地だった。その故郷が往年の賑わいをなくしていることを知った石ノ森に、当時の菅原康平市長が「マンガによる街おこし」への協力を要請した。石ノ森は快諾し、のちに、マンガジャパン会員の里中満智子やちばてつや、矢口高雄らも応援を表明したのだ。翌1996年度に市は「石巻マンガランド基本構想」を策定した。この時点ではすでに、石ノ森萬画館は街づくりと切っても切れない関係になっていたのだ。
木村 「マンガで街づくり」と言っても、当時はまだ全国的にも事例がなく、はじめのうち、住民もピンときていませんでした。成功するかどうかわからない、と反対する人も多かったんです。そういうときには、とにかくいろんなことをやって、仲間を増やすことに尽きると思うんです。これは、私がまだ石巻に来る前ですけど、最初に生まれた市民団体は、石巻の民話をマンガで伝える会でした。メンバーはごく少数だったそうです。そういう小さな団体が地道な活動を積み重ねることで仲間を増やしてきたわけです。
マンガ的発想って、ご存じですか? 固定観念とか先入観とか見た目とかに左右されないで、物事をあらゆる角度から見たり、考えたり、本当に柔軟な発想で考えてやっていこうということです。マンガの世界では、瞬間移動したり、自分の意思で雨を降らせたり、現実にはできないことが何でもできますよね。だから、この自分たちが今やっていることも何でもありだと。だったら、できない理由を挙げるのではなく、これをやるためには、何をどうすればいいのかを考えてやろう。そういう想いで活動を続けてきたのです。
そのなかでも、やはりありがたかったのは、石ノ森先生たちマンガ家の先生がたの応援ですね。石ノ森先生は残念なことに1998年1月にお亡くなりになりましたが、マンガジャパンの先生方が後押しをしてくださって、出版社にも声を掛けていただきました。石ノ森先生の著作を管理する石森プロさんも全面協力してくださいました。石ノ森ファンのみなさんの応援もありました。そうした支援が市民にも伝わって、少しずつですが確実に機運が高まっていきました。
こうして、2001年7月23日の石ノ森萬画館オープンにこぎつけたわけです。オープニングセレモニーには、石ノ森先生のご親族や石森プロ関係者、ちば先生はじめマンガ家の先生方など多数の参列をいただき祝福されました。ここに石ノ森先生がいらしたら、と思ったことを今でも覚えています。
石ノ森萬画館の開館に先がけてJR石巻駅から石ノ森萬画館に続く「石巻マンガロード」を整備。石ノ森マンガのキャラクターモニュメントなどが設置された。また、2003年からはJR東日本とのコラボで仙石線に石ノ森マンガのキャラクターラッピング電車「マンガッタンライナー」(1編成4両)を運行。駅も改装されて石ノ森キャラクターのモニュメントなどを設置し、「マンガッタンカフェえき」もオープンした。
また、2004年には、石森プロ監修のもと、石ノ森が残したラフスケッチをベースにした石巻のヒーロー「シージェッター海斗」を街づくりまんぼうと石森プロの共同プロジェクトとして誕生させた。
その後、石ノ森萬画館の来場者も順調に増えて、2010年11月3日には200万人を突破した。
そんな矢先に石巻を襲ったのが2011年3月11日に発生した東日本大震災だった。
木村 あの年は石ノ森萬画館の開館10周年でした。記念事業として、同じ東北の横手市増田まんが美術館と夏に合同企画展をやることが決まっていて、増田まんが美術館の職員がちょうど石巻まで打ち合わせに来られていました。魚市場の近くの食堂で食事を終えたときに地震が起きて、慌てて戻ってきたら北上川の水位が下がっていることに気づきました。これは津波がくると思い、と二人ともすぐに車で高台に逃げました。ぎりぎり助かった、というところですね。
石ノ森萬画館に戻れたのは2日後。萬画館もですが、街は大変なことになっていました。10日くらいして社員が片付けのために萬画館に集まってきてくれて、少しずつ片付けはじめました。社員もみんな被災者です。家の片付けもしなきゃないのに、ここの方が落ち着くと言って、集まってきてくれた。いつ再開できるかわからないし、もしかしたらもう再開できないかもしれない……。そんなことも頭をよぎりましたが、その心配をかき消すかのように、毎日みんなで泥をかき出していました。
こういう状態では萬画館の運営どころではありませんので、3月31日に全員を会社都合解雇ということにしました。そうすれば、失業保険がもらえます。でも、次の日も、その次の日もみんな萬画館の片付けに来てくれて……。何か目標が欲しくて、毎年ゴールデンウイークに開催していたイベントをその年もゴールデンウイークに実施することにしました。イベントを目標に片付けしよう。イベントをやって、終わったら萬画館を閉めるから、自分たちの家のことをやりなさいと。
津波に流された土砂や瓦礫は石ノ森萬画館の1階部分を完全に埋め尽くしていた。幸い2階にあった原画などは無事だったが、モニュメントは2体が流されていた。当時の写真などを見ると再開はかなり難しい印象だった。しかし、2012年の春には予算も含めて再開の目処がたった。
木村 このときもマンガ家の先生方の後押しやファンのみなさんの声援が力になりました。国も動いて、市議会でも予算をつけてもらえました。「みんなが避難所で暮らしているときに、萬画館を再開してどうするつもりだ」と言う人たちもいましたが、被災者みんながそれぞれのフィールドで一生懸命頑張っていました。そんななかでたまたま萬画館がタイミングよく再開できることになっただけなので、胸を張って再開に向けて全力で頑張りました。とにかく、早く明るい話題を提供したい、賑わいを取り戻したい、石巻に人を呼びたい、と。
2012年11月17日に石ノ森萬画館は再オープン。マンガ家の先生方や支援者のほか、萬画館の再開を待っていた方々3,000人以上が駆けつけてくれました。
さらに、2013年2月には1カ月休館して大幅な展示改修工事を行い、3月23日にリニューアルオープンを果たした。これには、マンガ家たちや全国各地のファンなどから集まった寄付が当てられた。
市街地の復興が進むとともに来場者も戻り、有料入場者は2013年には24万155人と、震災直前の2010年の17万7,092人を上回り、その後も17万人以上の有料入場者で推移、「平成ライダー20展」を開催した2019年には21万4,838人を記録した。
2020年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため3月3日から5月31日まで休館したことや、不要不急の移動を見合わせる人が増えたことなどの影響で、来場者数は激減。その後も、コロナ禍による苦戦が続いたが、2023年は回復基調だという。
取材の最後で、木村氏に今後の展望を聞いた。
木村 弊社は街づくり会社なので、萬画館に来館されるお客様を増やすだけでなく、石巻に来ていただいたお客様の滞在時間を長くするような仕掛けをしています。例えば、「超時空要塞マクロス展」(2023年)では展示室内でマクロスのクイズをやって特別な景品をプレゼントしています。また街中を回るスタンプラリーや、地元のお店と一緒にコラボメニューを提供するなど、展覧会と関連させてさまざまな企画を行っています。
木村 今、注力したいのは大げさな言い方かもしれませんが、人材育成です。子どもたちにマンガやアニメーションを好きになってもらう、と言うのか……。石ノ森萬画館の近くに2023年10月7日、マンガやアニメーション制作に興味がある小中学生や若者のための交流・創作拠点として「いしのまき MANGA Lab.ヒトコマ」をオープンさせました。液晶タブレットや専用の画材などを使ってマンガを描くことができる体験、外部講師を招いた創作体験などを開催する予定です。同時にこの施設を観光客のみなさんに立ち寄っていただき、交流が図れるスポットとしても活用していきます。
実は萬画館ができたことでマンガ家やアニメーター、声優などを志す地元の若者が増えているのです。例えば、『空飛ぶくじら スズキスズヒロ作品集』(イースト・プレス、2019年)で第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞されたスズキさんは、子どものときに萬画館で接した原画に感動してマンガ家を目指すようになったのだそうです。
木村 また、令和ライダー第3作の『仮面ライダーリバイス』(2021~2022年)で「仮面ライダーデモンズ」を演じた小松準弥さんは、2001年の開館記念イベントのときに仮面ライダー1号の藤岡弘、さんに握手してもらって「僕も仮面ライダーになりたい」と思ったのが俳優を目指す原点だったそうです。街づくりまんぼうとして、彼らのような子どもたちをサポートしていきたいと考えています。
まさに、街づくりは人づくりなのだ。「まんぼう」は、海に漂うように泳ぐのんびりした魚だが、木村氏の言葉からは、力強さが伝わってくる。石巻がマンガで賑わう街になる日はそんなに遠くないという気がした。
脚注
🄫石森プロ 🄫石森プロ・東映 🄫石森プロ/街づくりまんぼう
※インタビュー日:2023年7月29日
※URLは2023年9月15日にリンクを確認済み