佐藤 恵美
日本のメディアアートの現在を、学校という視点から大学教員の対談で紹介するシリーズ。今回は東京藝術大学を取材します。1887年に東京美術学校として創立以来、130年以上にわたり芸術文化の礎を築いてきました。その長い歴史のなかでも、比較的新しい二つのセクションがあります。1999年に美術学部に新設された「先端芸術表現科」と、2016年に大学院美術研究科に設置された「グローバルアートプラクティス専攻」。それぞれの担当教員である八谷和彦氏と毛利悠子氏に話を聞きました。
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——東京藝術大学(以下、藝大)には、「メディア」や「情報」と名のついた学科や専攻はありませんが、メディアアートをどのように教えていらっしゃるのでしょうか。
八谷 先端芸術表現科(以下、先端)は、既存の絵画学科や彫刻学科といった特定の領域にとらわれず、多様な領域を視野に入れた学科としてスタートしました。ですので、学部ではとにかくいろいろなことを教えています。写真、立体制作、電子工作、映像、パフォーミングアーツなど授業は多岐にわたります。僕はそのなかで電子工作の授業を担当したり、メディアアートの歴史を紹介する講義なども持っていたりします。ただメディアアートを教えている、という感覚はなくて。自分は「メディアアーティスト」という肩書きを名乗ってはいるのですが、学生にメディアアーティストになってもらおうとはあまり思っていないんです。毛利さんも作品はメディアアート的なものをつくったりされますが、肩書きも違いますよね。
毛利 「美術家」という肩書きを使っています。私は多摩美術大学(以下、多摩美)の情報デザイン科を卒業したあと、先端の大学院に2004年に入りました。ですので、学部生のときにサウンドアートやキネティックアートなどは技術として習得していて。さらに勉強したいと思ったときに、先端を選んだのはパフォーミングアーツやビジュアルアーツなどいろいろな専門の先生や学生がいて、分野を超えて勉強できるし議論できるという噂を聞いたからです。私が学生だったのは20年くらい前ですが、その大きな枠組みは今でも変わっていないのではないかと思います。
八谷 2003年に大学院の先端芸術表現専攻ができたので、毛利さんは二期生でしたよね。1999年に先端ができた当時、僕は教員ではありませんでしたが、既設の学科を改組するかたちで教員が集められたそうです。必ずしも始まりがメディアアート一色ではなかったんですよね。僕は「先端は別名『その他』の学科」といっているんですけれど。
毛利 私が多摩美に入学したのが2000年で、いろいろな大学で情報学科が新設された時期でした。藝大の長い歴史のなかで、先端は1975年にデザイン科ができて以来の新しい学科だった。多摩美のほか武蔵美のデザイン情報学科、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]ができたのも2000年前後です。学生時代を振り返ると、「メディア」とか「情報」といった言葉が掲げられていても、そのなかでどんな美術やデザインが学べるのか、新しいジャンルのなかで何ができるのかは、それぞれの大学が手探りで考えながらスタートしていたのではないかと思います。
――メディアアートを目指したい学生の方に向けては、個々の研究室で対応をされているということですか。
八谷 そうですね。ただ、僕の研究室には、コンピュータで動く作品をつくる学生もいますがマンガやアニメーションを描く学生もいます。学部では、いろいろなことをやって自分に合うのをみつける、というスタイルなのであまり何かにしぼった教え方はしていないんです。
毛利 日本に限った話ではなく、ここ20年ほどで「ニューメディア」を扱うアーティストが増えました。「ニューメディア」という言い方自体がすでに時代がかっていますが、映像や音などといった、いわゆる写真以降の新しいメディウムを指す言葉です。いまや現代美術の展覧会で映像作品をみないことはないくらい当たり前の表現ですが、昔はそうではなかったんですよね。
2000年代、映像作品がつくれる学科はそれだけで「売り」になって、「行ってみたい」「のぞいてみたい」と学生が集まったと思いますが、いまの大学生は、子どものころからスマホが手元にあって教わらなくても映像がつくれる世代です。20年前はまだ「女性が電子工作なんて?」という時代でした。秋葉原は男性ばかりの街で、私が電気屋でハンダゴテを買おうとしたら「ステンドクラスのハンダゴテは売っていませんよ」なんて言われたこともありました。こうした時代の変化と同じように、アートの教育も変わってきていて、メソドロジーよりも哲学を教えることが必要になってきているのではないか、と。
八谷 自作に電子デバイスを自然と組み入れる学生も増えています。この前は日本画の学生から、「VRで何かやりたい」という相談がきたんですが、それが健全で良いことだと思っています。メディアアートの学生を全部うちが引き受けようと思っていないですし、ほかの研究室や他学科の学生でも技術的な相談など応えるようにしています。藝大はみんなで学生を育てるといった感じなので。
――方法ではなく哲学的なことを教えるために、例えばどのような授業をされているのでしょうか。
毛利 私はグローバルアートプラクティス専攻という、大学院生を対象にした専攻で働いています。先端よりもさらに新しく、英語で受験生を受け入れるセクションです。3分の2くらいが外国籍の学生です。ジャンルもさまざまで、世界に間口を広げて今日的な表現活動をシェアしながら考えていくような専攻になっています。私たち教員も方法論を教えるというよりは、その表現への姿勢や態度を学生とシェアしています。
例えば、この前「彫刻に音を入れたい」という学生がいたのですが、音の要素といっても無限にある。なので「そもそも音を出したいのはなぜ?」というディスカッションから始めました。話を聞いていくと「それなら音ではなく身体表現でもいいんじゃない?」と。それで作品の例としてダムタイプのビデオを一緒に鑑賞しながら話していく。すると学生は「すごくおもしろいけれど、今生きている時代はこうだから、こういう作品をつくりたい」といった具体的な話に転がっていきます。そういったことを積み重ねる、チュートリアル的な授業がほとんどです。
それからワークショップもします。何もアイデアが浮かばないときは「まずは体を動かしてみよう」と「コンタクト・インプロヴィゼーション」という即興パフォーマンスの方法を使っています。ジャンルも国も違うので、共通点は身体なんですよね。これは、Aさんが思いついた動きを表現し、次にBさんがその動きを真似してもいいしまったく別の動きをしてもいい、というように繰り返していきます。それが苦手だと思う学生もいれば、おもしろいと思う学生もいますが、まずはとりあえずやってみる。そして話していく。ほぼネゴシエーションですね。一方的に答えを出すのではなく、お互い調整しながら答えを導き出しています。
八谷 学部の学生と、大学院生は少し違うかもしれないけれど、藝大のミッションの一つに、良いアーティストを輩出することがあります。でも、良いアーティストが何かはいろいろな解釈がありますよね。アートは教えることが難しい。テクニックや歴史は伝えることができますが、どうやったら良いアーティストになれるかは直接的に教えられなくて。だからこういう人を育てたいというのはあまりないけれど、なるべく本人のいいところを認めつつ、のばしつつ、その人がやりたい活動をできるようにするのが、我々教員のミッションだと思っています。学生はアーティストではなく一般の就職を選んでもいいと僕は思いますし、メディアアーティストを育てることを意識したこともなくて。
毛利 今「メディアアーティスト」と名乗る人は少なくなったかもしれませんね。
八谷 僕はよく「メディアアートは溶けた」と言っています。普通のアートに溶けてなくなり、広がっていったという意味ですが、その言葉自体なくなってもいいと思っています。アーティストは何をつくってもいい。そのくらい間口を広く考えています。
――ある一時代には、メディアアートという言葉を旗にすることに意味はあったけれど、消失しつつある感覚ということですね。
毛利 トランジションした感覚はありますよね。もともと、表現として新しいことにチャレンジしたいというのはアーティストであれば誰でも考えることだと思います。で、新しいチャレンジができる余白がないように見えた時代の転換点に、「メディアアート」のようなキラキラした名前が出てきて「ここに行けば何かができるかも」と思わせてくれた。新しいジャンルにチャレンジするために、新しい名前が必要だったのではないか、と。今は時代も変わり、デバイスが社会のなかに溶け込むようになりました。
八谷 今の時代にテクノロジーを使っているからといって、肩肘はらないですものね。毛利 映像や音にチャレンジしているアーティストは以前よりもいっそう増えているし、表現活動としては当たり前になりました。さきほど八谷さんが「溶けた」とおっしゃいましたが、それが近いですよね。
――文化庁メディア芸術祭も25年目の2022年度で終了しました。テクノロジーを踏まえたアートをどう見るのか、転換期かもしれませんよね。
八谷 メディア芸術祭が終わることに対して反対する人が予想以上に多かったのをみて、愛されていた芸術祭だったのだと改めて思いました。
毛利 メディアアートに限らず、マンガが読めたり最新のアニメが見られたり、ほかの国でみない類稀な芸術祭だったとは思います。
八谷 僕はメディア芸術祭アート部門審査委員など裏方として関わっていたことがあるので、審査と展覧会双方ともに膨大な作業量で、文化庁と関係者は大変なリソースをさいているのをみてきました。でも、予算含むリソースは常に有限ですし、すべての事業を永遠に続けることはできません。25年経って見直したり、終わったりするのはある意味で自然なことだとは思います。個人的にはそのリソースをマンガやアニメ、ゲームのアーカイブなど今後重要になる部分に配分しないと、文化が散逸してしまうでしょうし、すでにそうなりつつあると思います。最近レトロゲームが好きで中古ゲーム屋にいったりしますが、外国の人が昔のソフトを爆買いしています。その反面、世界から注目されているこうしたカルチャーの、黄金時代をつくった人たちが高齢化したり亡くなっていたりする。日本のコンテンツの黄金期をつくったプレイヤーの再評価やマンガの原画、古いゲーム機などをきちんとアーカイブして文化として残していくというのが重要だと思うのです。
毛利 確かにこれからの日本を支えるコンテンツのアーカイブをきちんと残すことで、国や時代をこえて研究材料にもなると思います。
八谷 例えば海外からゲーム研究したい人が来たとして、見に行ける場所がほとんどないんですよね。マンガはミュージアムがいくつかありますが時代や作家など部分的な収集に限られています。須賀川特撮アーカイブセンターのように、その分野の作品や資料を網羅するようなミュージアムがないと、資料が散逸したり、捨てられたりといったことになります。一方で、メディアアートはまだ美術館に残してもらえますよね。毛利さんの作品も美術館にコレクションされていますし。
毛利 美術館ではさまざまなメディアに対する保存・修復・記録の研究が進んでいるので、サブカルチャーに比べるとメディアアートは美術作品として整備・アーカイブされてきたところがあります。
八谷 ただ、メディア芸術祭がコンペ形式だったことは、オールジャンルの新人作家の表彰場所としての機能もあったと思うので、本当に残念なのはそういう点かもしれません。
毛利 学生にとっては「賞をもらう」という目標設定になるので、それがなくなるのは大きいかもしれません。ただ、美術に限っていえば、ほかの賞や助成制度でもメディアやサイズの限定がなく、メディアアートを受け入れてくれるものも増えています。
八谷 和彦(はちや・かずひこ)
1966年、佐賀県生まれ。メディアアーティスト。東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授。九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)卒業後、コンサルティング会社勤務を経て、株式会社PetWORKsを設立。主な作品に《視聴覚交換マシン》(1993年)、《見ることは信じること》(1996年)のほか、『風の谷のナウシカ』(1984年)の劇中航空機を参考に、飛行可能な航空機を試作し飛行を行うプロジェクト「OpenSky」(2003年~)など。メールソフト「ポストペット」を開発。最近の個展に「「M-02JとHK1」~無尾翼機に魅せられて〜」(あいち航空ミュージアム、2022年)、展示企画に「HomemadeCAVE #3 Portalgraph showcase」(GINZA SIX、2022年)など。
毛利 悠子(もうり・ゆうこ)
1980年、神奈川県生まれ。美術家。東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻准教授。東京藝術大学大学院美術学部先端芸術表現科修了。コンポジション(構築)へのアプローチではなく、環境などの諸条件によって変化してゆく「事象」にフォーカスするインスタレーションやスカルプチャーを制作。近年の主な個展に「Neue Fruchtige Tanzmusik」(Yutaka Kikutake Gallery、東京、2022年)、「I/O」(アトリエ・ノールト、オスロ、2021年)、「Parade (a Drip, a Drop, the End of the Tale)」(ジャパンハウス サンパウロ、2021年)、主なグループ展に「第23回シドニー・ビエンナーレ」(シドニー、2022年)、「第34回サンパウロ・ビエンナーレ」(サンパウロ、2021年)ほか。
※インタビュー日:2023年1月25日
※URLは2023年4月12日にリンクを確認済み