塚田 優
1960年代半ばから美術批評を軸に執筆や翻訳を行った評論家・日向あき子の言説を振り返る本稿。後編では、書き手としての主体によりフォーカスしながら議論を展開します。日向が女性美術評論家として先駆的立場にありながら、仕事の内容が美術批評ともフェミニズムとも異なるベクトルを有していた点に着目します。その思想はメディアとアートの関わりを探求した結果、ポストヒューマン論とも共鳴する地点にたどり着きます。
ここまでメディア論、イラストレーション、ポップ・アートといったトピックや、ほかの評論家との比較によって日向の言説を歴史的に位置付け直してきたが、ここからは書き手としての主体によりフォーカスしながら議論を展開していく。まず俎上にあげたいのは、エロティシズムについてである。日向の初期ポップ・アート論や、処女作『ニュー・エロティシズム宣言』(荒地出版社、1970年)では、エロティシズムが重要なモチーフとなっていた。本節では、そのことをテーマとし、議論をさらに深めていきたい。ただ急いで付け加えておかねばならないのは、そのエロティシズムはセクシャルな表象に着目しながらも、その向こう側にフロイトが提唱するところのエロス、生への欲動があり、その関心は人間存在の生命のあり方へと向けられていたことだ。だからこそその思想は、後年ポップ・マニエリスムやにっぽん・ポッピズムへと展開していった。このように日向にとってのエロティシズムは、彼女のポップ・アート論における一つのアクセントとして位置付けることが可能であるのだが、一方でこのエロティシズムというモチーフは、それ自体として個別にジェンダー論やフェミニズムに関連付けて考察する必要があるだろう。
しかし先に述べておくならば、日向は女性の美術評論家として先駆的な立ち位置にありながら、女性に固有な表現を言説化することはなかった。中嶋泉は「エロスと美術 1960-80――岸本清子の創作をみる」においてこうした日向の矛盾した態度を指摘しており、日向がウーマン・リブやフェミニズム的思想を持っていたことを認めながらも、「実際の書き物において彼女は、ニキ・ド・サンファルなど欧米の女性の作り手をわずかばかり取り上げるだけで、日本の女性作家を新たにエロス論の表現者とみなすことは滅多になかった1」と明言する。そして日向の『ニュー・エロティシズム宣言』における記述を踏まえながら、次のように総括するのだ。
女性による「女性の自然、女性のエロティシズムにふさわしい女性像」は同時代美術になかったと言い切り、さらに「男性的視点」に貫かれていない女性主体による表現の可能性にも疑問を呈した。2
中嶋はこの論考の註において、60年代当時は「フェミニズムアートがいち早く花開いた米国ですら、女性の批評家が『女性の問題』に取り組む義務や意義を感じてはいなかった」と触れ、日本の美術界もまた男性中心主義が根強かったことを補足しているが、結果的に女性のための固有の言説が生み出されなかったことを問題視している。たしかに日向の批評には、女性作家を積極的に取り上げようという意志は見受けられず、フェミニズムの視点からすると価値のないものなのかもしれない。しかしだからといって、それはフェミニズムとまったく切り離されたものではないし、それとの距離感を踏まえながら、日向の思想を探ることは一定の意義があるだろう。むしろ中嶋が「矛盾」と表現したものの内実について本論では積極的に考察したい。門田秀雄の回想によると、女性美術評論家としての苦労はやはり存在していたようであり3、男性原理が支配的な社会のなかで、先駆者たる日向はどのような考えを持っていたのだろうか。日向は前編にも紹介した「ポップ・アート=エロティシズム=未来学」を、次のような言葉で締めくくっている。
女性の感性と思考という言葉をくり返したが、女性の思考なるものはない。もしあるとすれば、行間にあるだろう。今日、思考とか論理はすべて男性に属しているものであり、それをあやつることによってしか、なにごとも表しえない。4
ここで日向は「女性の思考なるものはない」と述べ、この論考が書かれた1967年当時の男性中心主義をある種の諦観とともに書き、筆を置いている。しかし仮定による留保を差しはさんでいることから、その言明は躊躇のない断言ではないはずだ。実際1970年の『ニュー・エロティシズム宣言』には、女性の性愛についてあるがままに語った詩人、森崎和江の妊娠から出産に至る快楽について触れながら「出産の経験はないが私も妊娠したことはあり、わずかの経験と想像からおすに、全身浮上の如き快感なのだろう5」と自らの体験を引きながら、女性でしか持ちえないエクスタシーについて踏み込んだ発言をしている。
同書は別の箇所でもスーザン・ソンタグについて触れながら「今後は批評においても、女性のアイデンティティ(自己同一性)にもとづいた発言が相当重要性をもつにちがいない6」と述べているのだが、一方ですでに中嶋の論考を通じ確認したように、女性の表現に固有性を見出すことは断念されていた。しかし『ニューエロティシズム宣言』を詳しく読むと、この欠落はむしろ議論を先に進めるための意図的な選択とも考えられるだろう。同書では、ポップ・アートが提示するエロティシズムについて、私たちの感覚に次のような変容をもたらすことが述べられている。
もしもこのポップ・アート以後のアートをエロティシズムという観点からみるとすれば、芸術がそうなったのと同じくエロティシズムも特別なものでなくなる。つまり空気そのもの、日常の生活経験そのものがエロティックになることにより、是が非でも追い求めて手に入れるという風のものではなくなる。いつでもどこでも偏在するとすれば当然のことで、こういう状況は多分原始時代に近いのかもしれない。7
ここで日向は、芸術の日常化にともないエロティシズムもまた日常化すると述べている。彼女にとって性の解放はポップ・アートのみならず「性の日常性を当然とするヒッピー的な若いジェネレーション」ともつながっており、これらの現象に対し日向は「女性の自己同一性を含むエロティシズム」の先取りを見るのである。
では原始時代の、つまり女らしさ、男らしさといったジェンダーが発生する以前に似ているとされる「ニュー・エロティシズム」とはいったい何なのだろうか。これに関しては『ニューエロティシズム宣言』の結論部分で、精神分析理論を援用し説明がなされている。いわく、日向はニュー・エロティシズムを、ジークムント・フロイトの理論を独自に展開させた精神分析家、ヴィルヘルム・ライヒが『セクシュアル・レボリューション 文化革命における性』(小野泰博、藤沢敏雄訳、現代思潮社、1970年)において述べるような、性的なオーガズムが充足し、抑圧のない、性本能が自律している状態だと語る。そしてそれは、フロイトの提唱する性エネルギーの抑圧が昇華されて、思想や芸術の原動力となる従来のエロティシズムとは異なるものとして位置付けられるのである。こうしたライヒの思想は、当時「若い知識人や学生のなかに拡まり、フロイド(ママ)に変わって支持されはじめている8」と述べながら、日向は次のようにニュー・エロティシズムの世界を言祝ぐのである。
現実原則が優先しないエロティシズム。快楽原則が優先しないエロティシズム。暗がりの中の、みみっちい報酬としてのエロスではなく、無垢の白い光の中のエロスがニュー・エロティシズムである。われわれの呼吸する空気そのもの、環境そのものがエロティシズムにみち、エロスが日常的であるような世界。9
このように日向は、エロティシズムを糸口にしながらもジェンダーの問題をすり抜けて、新しい性のあり方を夢想する。そしてその根拠となるのは、自然も人工物も問わず日常のあらゆる事象を芸術とするポップ・アートが「物や機械を人間と等価にしたのと同じく、男性の対象にすぎなかった女性を男性と等価においたこと10」にある。こうしてみると日向の議論は、「ジェンダーという言説実践が先行して、その後にセックスという『実体』が事後的に構築される11」というジュディス・バトラーによる「おんな」の解体以後の議論や実践が積み重ねられているポスト・フェミニズム時代を迎えている現代からすると、オプティミスティックにもうつるだろう。だが日向のニュー・エロティシズムは、こうした性差を超えたエロティシズムの地平を見据えていたのである。
だがここで疑問なのは、当時の日向はすでに国内外の女性解放運動について無知ではなかったはずなのに12、なぜこうした超越的な議論を展開したのかということだ。それは彼女がウーマン・リブおよびフェミニズムについて違和感を感じていたことに理由がある。『ニュー・エロティシズム宣言』から5年後に出版された『性の自然革命』(じゃこめてい出版、1975年)ではフェミニズム周辺のさまざまな論者が紹介されているが、日向自身は、当時盛り上がっていたウーマン・リブにあらわれているのは男のように自由になりたいという男性化の欲求が見出せることに触れたうえで、その戦略について「間違っているように思う」としながら次のように続けている。
女が男化するのは、男の価値を過大評価しすぎているのである。もしも「女のタタカイ」なるものがあるとすれば、男性的価値を無化する方へはたらくほうがいい。私が、ゲバルトやウーマン・リブよりもヒッピー的なパワーを高くかうのもそのためだ。彼らは男性的な仕事や成功の神話を認めず、理性的、合理的なものを優先させる価値観に反対する態度を持っている。13
このように日向は70年代当時のウーマン・リブについて距離感を表明し、さらに続く箇所では「男に媚を売る女もまたある意味でオトコ化している」と述べ、家父長制における女性の振る舞いも批判している。『性の自然革命』は、ラディカル・フェミニスト、アン・コートが女性の性的快楽について述べた「膣オーガズムの神話」に対するティ=グレース・アトキンソンの反論を紹介したり、シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』の検討、ノーマン・メーラーの男根主義批判など、作品のディスクリプションをベースにした『ニュー・エロティシズム宣言』よりも理論的側面が強く、日向のフェミニズム観を検討するには重要な著作であると言えるだろう。
日向の回想によると70年の『ニュー・エロティシズム宣言』は、日本にアメリカのウーマン・リブの一報が入って間もなくの出版であったため、「ウーマン・リブのかくれた教科書14」となっていた。それもあってか、エリザベス・ゴールド・デイヴィス『ファースト・セックス』を1973年に、そして性解放の書として当時広く読まれていたジャーメン・グリアの『去勢された女』を1976年に日向は翻訳することになるのだが、1975年の『性の自然革命』は、そうした周囲からの依頼や期待に対する応答の側面もあったのではないだろうか。だがしかし、ここで表明されている立場は『ニュー・エロティシズム宣言』とほぼ同様のものであり、むしろ次のようなあっけらかんとした記述によって、処女作よりもはっきりと日向の姿勢を際立たせることになった。
男のホモ・セクシュアルもいいが、女のホモ・セクシャルもいいし、バイ・セックス(異性愛・同性愛の両方のセックスを好むもの)もいい。もちろん伝統的な男と女のくみあわせでもいいというふうに、古代的な多様な性が復活することが望ましい。これを性の乱れとか、退廃とか終世的症状という見方をするのはよろしくない。15
そして日向は「プラトンでさえ『饗宴――エロスについて――』の中に、古代的な多様な性のありようを書き残している」と続け、議論をさらに展開していく。こうしたフェミニズムに対する距離感は終生変わることはなく、最後の著作となった『ウイルスと他者の世紀 エイズ意味論、エイズ芸術』(中央法規出版、1997年、以下『ウイルスと他者の世紀』)ではフェミニズムについての章があるのだが、同時代のフェミニズムについて日向は「拡散期に入っている16」と述べ、上野千鶴子、アンドレア・ドウォーキンらを検討しつつ、その後議論はトランス・ジェンダーやポスト・モダン論、教育におけるジェンダー問題などが数珠つなぎにされ、フェミニズムは相対的にしか扱われていない。このように日向にとってのフェミニズムとは、自らの議論を展開させるための材料としてあり、そのためか女性美術評論家として先駆者的な立ち位置にありながら、女性固有の美学を主張することや、女性美術家と積極的に協働することもなかった。現在ではフェミニズムの観点から数多くの美術史や制度の見直しが行われているが17、そんな情勢にあって日向の名前が顧みられないのは、以上のような彼女のデタッチメントな姿勢に、その原因があるのではないだろうか18。
しかし日向とフェミニズムとの関係は、今述べたようなエロティシズムではなく、むしろ「ポストヒューマン」をめぐる議論を経由させたほうが、よりその可能性を引き出せると私は考えている。そのことについて『ウイルスと他者の世紀』での記述を中心に考察してみよう。ポストヒューマンとは、伝統的な人間観が科学技術やメディアの発展、あるいは人道的な危機によって揺るがされている20世紀以降の社会において、それを再考するためのキーワードである。とりわけフェミニズムの文脈においてよく参照されるのは、ダナ・ハラウェイが1985年に発表した「サイボーグ宣言」である。ハラウェイはフェミニズムSFの発想も取り入れながら、機械と生物の境界の複数性や新しい切り口を提示し、大きな反響を呼んだ論者である19。
ポストヒューマンをめぐる議論は、メディアの発展を「人間の拡張」として謳ったマクルーハンのメディア論とも共鳴する部分があり20、それゆえ日向もまた、こうした人間の変容に思いを馳せていた批評家の一人であったことは間違いないだろう。
「ポップ・アート=エロティシズム=未来学」においては、ポップ・アートからメディアアートに至る流れを「インダストリアリズムに結びついた都市肯定の芸術」とし、「幾何学的パターンのオップ・アートは、機械の発情とでもいうべき金属的で硬質なエロティシズムを持つ」と書いている21。『ニュー・エロティシズム宣言』でも「最近のサイバネティックスやロボット学、あるいはサイボーグ学。またはその応用であるアポロ11号的な宇宙探検の最大の功績の一つは、人間のもつ心身構造が、いかに偉大な精密度によってでき上がっているかということに、改めて驚異の目を開かせた22」と述べ、続く箇所ではサイボーグにおける身体の可塑性に着目し、生殖器官は排泄器官と離れた位置にあったほうがいいのではないかとまで自らの空想を語っている。このように彼女のポップ・アート論には、機械と人間がハイブリッドされていく様相への着目があり、こうした新たな人間存在についての記述は、ハラウェイの提唱するサイボーグ・フェミニズムとも通ずる部分があるだろう。実際、日向は1991年に邦訳が出版されたハラウェイの「サイボーグ宣言」を含む論集『サイボーグ・フェミニズム』についても「全的な共感を持つ」と『ウイルスと他者の世紀』のなかで支持を表明している。その理由として、「同著のエレクトロニクス時代とフェミニズムの相関関係指摘」が「今までの(女性による)フェミニズムに欠落していた重要なポイント」であることをあげている。
しかし、続く箇所では「セクシャリティは情報時代のそれと言うより、機械時代のセンスだと思う」とあえて距離を置くようなコメントをしている。ハラウェイの「サイボーグ宣言」を読むと、「わたしたちが暮らしているのは、有機的な工業化社会から多様な情報社会へと至る以降の時代だ23」と述べられているように、情報時代についてもその射程に収められてはいるものの、日向はなぜかここであえて一線を引こうとしている。これについては『サイボーグ・フェミニズム』についての言及が収められている日向の『ウイルスと他者の世紀』の内容を踏まえることでその意図が理解できるだろう。同書はエイズウイルスについての関心から書かれたもので、エイズに関わり、主題とした芸術や芸術家、疫病、フェミニズムについての文章が収められている。ではなぜエイズがそこまで日向の関心を引いたのだろうか。ウイルスの恐ろしさについて述べつつも、彼女は次のように述べる。
それ(エイズウイルス)は身体機能を破壊したのみではない。身体概念までくつがえしつつあるわけで、この病原体は医学、病理学をこえて他者のメタファーともなる。要するに、他者の受け入れ、他者との異種交配、ハイブリッドなしに自己同一のなりたたない同時代文化の象徴になるのだ。24[( )内は引用者による補足]
ここで日向は、「ハイブリッド」というハラウェイ的な語彙を使いながら、身体の状況を一変させてしまうエイズウイルスを他者の象徴として捉えている。ほかの箇所では「測りがたいエイズウイルスの動きが、われわれのエレクトロニクス環境――目に見えない電子の世界――のシンボルのように思えてきたのである」とも述べ、情報時代の他者を語るための暗喩としてふさわしいことを主張している。つまり日向の判断においては、90年代後半の情報時代を語るためには、サイボーグのような機械ではなく、ウイルスという肉眼では不可視な存在のほうがふさわしく、『サイボーグ・フェミニズム』に部分的に残る前時代性との積極的な差別化を図りたかったのではないだろうか。
ポストヒューマンをめぐる議論においては、日向のように生物と情報というモチーフを重ね合わせている論者として、ほかにキャサリン・ヘイルズがあげられる。彼女の1999年の著作『わたしたちはいかにしてポストヒューマンになったか』は、コンピューター技術に関する思想を精査しつつ、神経系モデルや生態系モデルといった生物学の知見を参照枠とし、サイバネティックスや人工知能、人工生命について論じた書物である25。日向のエイズウイルスへの関心はあくまでも比喩として使用されており、ヘイルズのアカデミックなアプローチと比較はできないものの、着想や興味には共通性があり、ハラウェイへの言及も踏まえると、日向の関心としてポストヒューマンへの志向が存在していたことは明らかだ。しかもこうした興味は、1885年に発表されたハラウェイの「サイボーグ宣言」よりも早く、ポップ・アートを通じて60年代から日向のなかで持続していたことを鑑みると、その仕事はメディア論とポストヒューマンをめぐる議論の過渡期のものとして位置付けることができるだろう。ロージ・ブライドッティは著書『ポストヒューマン』(門林岳史監訳、フィルムアート社、2019年)において、ポストヒューマンも含むさまざまな人間観についての議論を整理しているが、このような日向のヒューマンについての言説は、ブライドッティが言うところの従来の人間性を批判し新しい主体を提言する「批判的ポストヒューマニズム」に分類されるものであり26、こうした近年の言説も参照しながら、より理論的な水準で検討を加えるべきテーマであるだろう。
また『ウイルスと他者の世紀』は、日向にとって『ニュー・エロティシズム宣言』などで提示したポップ・アート以後における文明の汎芸術化や、ジェンダーの乗り越えが実現しないなかで、自身の主張を系譜学的に再構築する意図もあっただろう。日向は1979年に書かれた文章のなかで、60年代のポップ・アート、ロック、性解放、ファッションの高揚によって「女性的なものがあふれるように咲き出たにせよ、それはやはり、パトリズム(父系的なもの)の枠組みの中のできごとであった27」と反省的に回顧している。70年代に入ってから女性がクリエイティブな分野で目立った活躍をし始めていることには触れられているものの、自身による60年代当時の見立てが、70年代末の時点において達成されていないことを間接的に認めている。
『ウイルスと他者の世紀』ではエイズで死去したロバート・メイプルソープについて、彼が「『あらゆるものが芸術の主題になる』と語ったウォーホルのコンセプトに影響を受けた28」ことを引き合いに出し、ポップ・アートの系譜がゲイ・ポルノ美術へと流れ込んでいることを論じている。結果的に同書は最後の単著となってしまったが、日向はここにポップアートからセクシャル・マイノリティの表現へという新たな系譜を見出したのである。
マクルーハンのメディア論を武器に、イラストレーションやポップ・アートについて独自の批評を執筆し、エロティシズムについて語りながらもフェミニズムとは距離を置き、結果的にメディア論がポストヒューマン論へと展開する過渡期的言説を残した日向あき子。その仕事の価値についてはこのようにまとめられるのであるが、冒頭でも触れたようにその存在がこれまで積極的に振り返られることはなかった。
その理由についてはすでにいくつか言及しているが、改めて整理すると、芸術の定義が大きく揺れるなかで起こっていた論争の斜め上を行く、汎芸術的ユートピアがポップ・アートの登場によって到来するであろうという文明史観を打ち出したことと、女性の美術評論家でありながら、フェミニズムとは距離を保っていたことがあげられる。これらの振る舞いが、結果的に、具体性を欠いていると思われたり、フェミニストの期待に応えられていないように見えてしまったのではないだろうか。つまり日向の存在を後世の研究や批評が等閑視してしまったのは、メディアアートやイラストレーション、ポストヒューマンなど、個別のトピックにおいて価値ある仕事をしていたものの、女性美術評論家として先駆的立場にありながら、仕事の内容が美術批評ともフェミニズムとも異なるベクトルを有していたたことにその理由が求められるのである。生前日向と交流のあった柘植響は、70年代の「観念的な日本の現代美術界に、『ポップ』を紹介した」ことによって、「ずいぶんと苛められた」ともの派を念頭に置いていたであろう日向の回想を追悼文に書いており、さらに付け加えるならばこうした同時代性とのズレ、そして女性美術評論家という二重のマイノリティ性も、日向の存在が歴史に埋もれてしまった要因だと考えられるだろう29。
ではこうしたパーソナリティを、積極的なものとして捉え返す方途はあるのだろうか。最後に第三者による日向に対する評価を確認しながら、私なりに見解を提示することで結論へと向かいたい。針生一郎は1963年に発表された美術出版社主催の第四回芸術評論募集において、佳作を受賞した日向の藤松博論に対して次のような寸評を寄せている。
何でもこなせるだけの筆力をもった人だが、ここでは語り口のなめらかさと思索の芯のつよさのあいだに、いくらか噛みあわぬものがあるのが惜しい。30
このように針生は文体に芯の強さを感じつつも、語り口がなめらかであることに違和感を表明している。このなめらかさは、その後の日向のユートピア的ポップ・アート論や、その他の批評とも共通する彼女のスタイルでもある。日向の文章は個別の事象を軽やかな手つきで再配置し、あらゆる文化を一連のものとして提示することに長けているのだが、ここではそのなめらかさが、「芯のつよさ」と嚙みあっていないのではないかと分析されている。また、荏開津広は日向の『原始の心 共有とBe感覚』(社会思想社、1972年)における50年代から60年代のカルチャーの要約に対し、音楽に対するフォーマルなアプローチや黒人というマイノリティへの目配せにおいて「優れて過不足がない」と述べているのだが、その一方で、次のようにその文体を批評している。
ルイ・アームストロングでもピンク・フロイドの音楽でも、その内容ないしは形式を裁断しようとせずに彼女の筆致は周囲を迂回しがちである。『原始の心』を読む限り、意図的に、日向は“鋭敏にすべての部分が振動し、からまってくる”魅力を囁きながらも“微妙な網の目”を解きほぐそうとしない。“サブ”に触れて愛撫が許される手前で距離を測る。31
荏開津は針生よりも踏み込んで、日向の「なめらかさ」について言葉を費やしながら、「愛撫が許される手前で距離を測る」と表現する。翻って本論で言及してきた日向のポップ・アート論やフェミニズムに対する評価も、その「愛撫が許される手前」においてなされていた振る舞いとして理解し直すことができるだろう。日向の批評は「魅力を囁きながらも“微妙な網の目”を解きほぐそうとしない」そのもどかしさゆえに、結果的に説得力を欠き、積極的に振り返られる機会を失ってしまったのではないだろうか。
このことについてより理論的な説明を与えてくれるのが、ノエル・キャロルの分析美学である。キャロルは『批評について 芸術批評の哲学』(森功次訳、勁草書房、2017年)において、批評の主たる作業を芸術のカテゴリーにもとづいた「価値づけ」にあるとし、批評を構成する記述などはそれを支えるための「証拠や理由を提出する手続き」であるとする。そして「価値づけは、記述、解明、文脈づけなどについて、どのようなものが妥当で、また、どのようなものが脱線的で無関係なのかを決定する32」と言われているように、その証拠や理由の選択によっては、価値としてみなされない可能性をキャロルはここで示唆している。これを踏まえると、日向の美術批評が価値として受け取られなかったのは、その超ジャンル的なスタイルに起因すると考えられるだろう33。
キャロルは、芸術が外部から切り離された営みではないとしており、彼の整理によると日向のように「異なるカテゴリーの文化的重要性を比較衛量する34」批評は、文化批評であるしている。それは価値付け作業が重要とされる芸術批評と区別されつつも、その境界線は堅固なものでないとしていることから、日向の批評に芸術批評としての可能性が全くないということではないはずだ。たしかに日向の議論は、ことごとく狭義の美術批評から「はみ出している」のかもしれない。しかし本稿はむしろそこに着目し、再評価を試みてきた。この日本において批評は、キャロルの定義より広い「奇妙に思弁的な散文の伝統35」があり、かつ近年は文芸批評においても、これまで排除されてきた女性や社会的マイノリティの言葉や、エッセイの再評価の気運が高まっている36。こうした今日の状況に掉さすようなかたちで、本論があまり取り上げることのできなかった文化人類学やファッション、文学について書かれたもの含めて、日向のテキストは今改めて、その価値が再検証されるべきなのではないだろうか。
荏開津は日向の批評を、「微妙な網の目」を愛撫するものと形容した。こうした愛撫としての批評は、結果的に後続世代への影響力を失わせてしまったのかもしれないが、荏開津の「網の目」という比喩は、ハラウェイの言うところの「あやとり」を連想させる。ハラウェイは、「自身の執筆実践をさまざまな領域が絡みあった状況を所与として行われる『あやとり(cat’s cradle/string figure)』に擬えている37」。翻って日向の批評も、それはさまざまな事象や学知が「微妙な網の目」を形成するものだった。それはその都度、多様なかたちを生み出していく。そしてさらにユニークなのは、ハラウェイにとってあやとりは、一人で行われるものではないということである。
あやとりは、集合的な仕事をしているという感覚、すなわち一個人にはすべてのパターンをひとりきりでつくるほどの力はないという感覚を呼び起こす。あやとりに「勝利」はない。むしろそのゴールは勝利よりおもしろく、あてどない。38
日向はもしかしたら、そのテキストによって提示した「網の目」を通じたあやとりを読者と求めていたのではないだろうか。男性原理が支配する言説空間における「勝利」ではなく、その糸を組む行為とその結果をその都度提示し、あらたなアクターの参入を期待すること。日向はある記事において、スーザン・ソンタグやロラン・バルトのような文明批評に共感を示しつつ、自らに対して「〈スプートニク・モンロー〉なる巫子39」という二つ名を冗談交じりに考案している。ここでも「巫女」をあえて「巫子」と表記するジェンダーに対する機微は徹底されているのだが、スプートニク・モンローとは50年代から60年代にかけて活躍したアメリカのプロレスラーで40、衛星を意味するスプートニクと、マリリン・モンローを組み合わせたこのリングネームに、日向はポップ・アートと同じような科学と芸術の結合を見出した。彼女はスプートニクとなって人類の文明を衛星的に観測し、モンローのような笑みを浮かべながら、さまざまな模様をテキストとして残していった。あやとりを続けよう。スプートニク・モンローなる巫子として、今もなお日向は、私たちの文明のはるか上空を周回しているのだから。
脚注
参考資料
加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学 近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ』せりか書房、2018年
草森紳一『「イラストレーション」 地球を刺青する』すばる書房、1977年
熊谷伊佐子、林道郎、藤井亜紀、松井勝正、光田由里編著『美術批評集成 一九五五―一九六四』藝華書院、2021年
東野芳明『虚像の時代 東野芳明美術批評選』松井茂、伊村靖子編、河出書房新社、2013年
東野芳明編著『現代の美術 第4巻 ポップ人間登場』講談社、1971年
『石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行』美術出版社、2011年
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