スプートニク・モンローなる巫子 日向あき子論[前編]

塚田 優

日向あき子『ポップ・マニエリスムの画家たち』(PARCO出版局、1977年)表紙

日向あき子という評論家を知っているだろうか。1930年に生まれ、大阪府立女子大学国文国史学科を卒業後、60年代半ばから美術批評を軸に執筆や翻訳を本格的に開始した日向は、針生一郎、中原佑介、東野芳明らのいわゆる御三家とほぼ同じ時代を生き、2002年に没するまで各種メディアで健筆をふるっていた。しかしその名前は、先にあげた御三家に比べると後続世代の評価を受けておらず、ポップ・アートの日本における紹介者の一人として一定の認知はあるものの、没後も表立って回顧された機会は管見の限り見当たらない1 。しかし、キュレーターとして国際的な活動を展開する長谷川祐子は『美術手帖』2002年9月号に寄せた追悼文のなかで学生時代の数年間、日向に私淑していたことを明かし、その理論にもリスペクトを表明している。

以下でも考察するように、たしかに日向の批評は具体性や価値付けにおいて、踏み込みが足りない側面もあった。だがそうした点も踏まえながら、今再び彼女の文章を読むことで取り出せる価値もあるのではないだろうか。その文章は同時代との距離感においてクレバーな指摘もあり、独自の思想として評価しえるものだと私は考えている。また、フェミニズムを震源とする女性に関連する言説や活動が社会的な盛り上がりを見せている昨今、日本における女性美術評論家のパイオニアである日向の存在を再検討することは、今日的な意義を持つだろう。本論はそんな日向について先行する断片的な言及を頼りに、いくつかの批評や著作を参照し、メディア論、イラストレーション、ポップ・アート、エロティシズム、フェミニズム、ポストヒューマンといったキーワードを踏まえながら、そのテキストの可能性を検討したものである。

マクルーハンの紹介者として

美術評論家という肩書きが記されることの多い日向であるが、その執筆範囲は美術に限定されておらず、文学や神話、デザイン、イラストレーション、ファッション、音楽、カルチャーと多岐にわたっている。相対的にみれば美術批評はたしかに多いものの、著作においては1冊のなかにこうしたさまざまな対象への言及が折衷的にまとめられているケースが多い。

こうした彼女の傾向は、マーシャル・マクルーハンのメディア論の影響が背景に存在している。カナダのメディア思想家であるマクルーハンは、作家の伝記や時代背景を絶対視せず、作品の自律性を前提とする文芸批評理論、ニュー・クリティシズムを学び、その後メディアの構造や意味を問う著作を発表し、60年代当時日本でも注目されていた論客である。そして日向において独特なのは、マクルーハンを理解するにあたって、その下地として同じく60年代の知的流行の一翼を担っていたクロード・レヴィ゠ストロースに代表される文化人類学への関心、理解があったことである2。日向は1967年にマクルーハンの処女作『機械の花嫁 産業社会のフォークロア』の書評を執筆しているのだが、同書は雑多な情報が一覧できる新聞紙面のモザイク性や不連続性に、パブロ・ピカソのキュビスム絵画やジェイムズ・ジョイスの小説との共通性を指摘するなど、さまざまなメディアのイメージを縦横無尽に取り上げた著作だった。そんな『機械の花嫁』におけるマクルーハンを、日向は「文化人類学者の態度に近い3」と評し、その構造的に対象を把握していく姿勢について言及している。そして日向の批評も、こうした文化人類学を経由したメディア論的な視点が特徴となっており、その方針は次のように自ら要約されている。

私が選ぶべきフィールド・ワークの対象は残された原始的社会ではなく、われわれが現に生きている時代こそ本名だろうということ。われわれの生きている現在、現代を文化人類学の眼で見るというのが私の結論だった。4

このように考える日向は、メディア上のイメージを積極的に引用するポップ・アートの登場以降の美術を論じるにあたっては、美術だけの文脈ではその特徴を捉えられないことを根拠に、メディア論的視点の重要性を主張する。そして、ジャンルにしばられない「アート・フィールド・ワーク」を提唱し、実践したのである。こうした日向のマクルーハン理解を、飯田豊は60年代当時においてビジネスへの応用や情報文明論的な学術考察とは一線を画す、芸術分野における理論的な援用ないしは紹介として位置付けている5。ゆえにそのような文脈において、彼女がマクルーハンを特集した『美術手帖』1967年12月号に寄せた基調論考「電子情報時代の芸術 マクルーハンにおけるユリシーズ性の回復」は重要なテキストだと言える。同論考はまず「電気インフォメーション時代においては、環境そのものがアート・フォルムをとる」というマクルーハンの言葉をエピグラフにかかげ、受け手の参加度の弱いラジオや書物などが「ホット・メディア」、逆に参加度の高いテレビなどを「クール・メディア」とするマクルーハンの理論を、次のように芸術ジャンルにも当てはめていく。

タブローや彫刻はホットであるのにたいし、ハプニングはクールだろう。ハプニングは観衆をその中にまきこみ参加させる。オㇷ゚・アートやLSDアートもみるものに眩暈をおこさせることによって完結するわけで参加度が強いからクールである。6

こうしたマクルーハン理論の援用を日向は同論考において随所で行いながら、上記以外にも雑誌『ライフ』の表紙や『ヴォーグ』誌から引用した当時最新のモード、モントリオール万国博覧会における多元同時映写、山口勝弘の作品にも目配せをし、黎明期のメディアアート論として興味深い議論が展開されている。日向はこうした人工的な表現の時代の到来をポップ・アート以後の芸術の地殻変動と地続きの事態として捉えており、同論考は芸術にとどまらない風俗や社会も含む、巨視的な視点が特徴となっている。

イラストレーション分野への言及

このようなメディア論をベースにした越境的スタイルを得意とする日向の評論は、それぞれのジャンルの展開にあたってどのような役割を演じ、どのような影響を与えたのだろうか。これに関しては個別に検証する必要があることはもちろんであるが、日向が折に触れて書いていたイラストレーションについての言説は、彼女の仕事のなかでも再検討する意義が比較的大きいと思われる。なぜなら日本におけるイラストレーションは伝統的に辞書的な「図版」にとどまらない現象的側面を伴っており7、それは結果的に美術とイラストレーションの境界を曖昧な状態で維持させると同時に、趣味判断に基づいた複数のクラスターの共存を許容し、現在に至るまでこれらおおよその事象が着実なかたちで言説化されていないからである。日向の批評は、このようにいまだ閉鎖的に展開されている日本のイラストレーション言説において、歴史的な状況に説明を与えてくれる証言としての価値を有している。

日向は『ブレーン』や『アイデア』といった雑誌でデザイン批評も執筆していたのだが、それらよりもイラストレーションについての文章は、美術評論家としての知見をより直接的に反映できている。日本宣伝美術会の主催する展覧会、日宣美展が大きな人気を博していたことからもうかがえるように、60年代はデザインの時代だった。イラストレーションもまたデザインと同様に60年代半ばより宇野亞喜良、横尾忠則、和田誠らの活躍によって盛り上がりを見せていたのだが、日向は『アイデア』の1967年3月号に掲載された「『イラストレーション10人展』――視覚芸術のもう一つの窓――」において、そうした「新しい波」に対して論評している。同批評において日向は、イラストレーションの対立概念を四つに整理した。

第一に自律性の乏しい従来の挿絵、第二にイラストレーション的な情念とは異なるバウハウス的レイアウト派、第三にグラフジャーナリズムのなかで大勢をしめている写真、そして第四にタブロー、つまり絵画である。日向はこのように状況を整理したのであるが、こうした俯瞰的な視点は、当時デザイナー、イラストレーターたちが声高にイラストレーションの価値を主張していたことに対する冷静な分析として読める。たしかにイラストレーションはまず岩田専太郎らに代表される挿絵という過去からの伝統と対峙しなければならなかったし、同時代的には理知的なモダンデザイン、印刷技術の向上著しい写真とも異なる価値を提示しなければならなかった。しかしその主張は、結果的にイラストレーションの自立を促し、絵画では限定として担保されている「鑑賞」をいかに「雑多な日常性の中」で達成するのかというアポリアへとイラストレーションを漂着させる。日向は通時的、共時的観点を絡ませながら、的確にそのことを指摘している。

また、70年代のイラストレーションは、山口はるみらを筆頭にリアルなイラストレーションが流行した。もちろんその潮流は60年代末から辰巳四郎らによってその下地がつくられていたのであるが、日向は1972年に行われたイラストレーションにまつわる座談会においても予言的な発言を残している。彼女は宇野や横尾の次にブレイクするイラストレーターについて問われ、「私は案外リアリズムが出てくると思いますね。勿論かつての写真とは違うものですが…ポップな感覚の洗練をうけたリアリズムが…8」と応答している。この発言は、チャック・クロースなど60年代末から台頭するアメリカのフォト・リアリズム、ハイパー・リアリズムの台頭を言外にほのめかしており興味深く、かつ山口がエアブラシを用いたリアルなイラストレーションを発表し始めるのとほぼ同じタイミングであることを踏まえると、その直観力は評価されて然るべきだろう。時代はややくだり、1978年に日向はそんなアメリカのリアリズムと日本のイラストレーションを並列し検討しており、前者のニュートラルな写実性と後者の表現主義的情感を対比している9。岡田隆彦にも同様の主題を扱った文章があるが、岡田はなぜ日本で説明図的なイラストでなく、リアルなイラストが隆盛するのかというドメスティックな分析に分量が割かれており10、日向のその差別化は、日本のイラストレーションの独自性を客観的に位置付けた歴史的価値のある論考となっている。

山口はるみ「PARCOポスター」1972
(『美術手帖』2010年1月号、美術出版社、2010年、29ページより)

また、日向はルネ・マグリットを通じて、美術のイラストレーションへの影響に対しても言及している。マグリットは50年代末から60年代にかけて、ポップ・アートのかくれた先駆者として欧米で評価されており、それを受け日向は、それまでシュルレアリストとして断片的にしか紹介されてこなかったマグリットについての論考を雑誌『みづゑ』に執筆しており、日本における先駆的な紹介者の役割を演じた。マグリットの作風は日本ではイラストレーションにも流れ込んでいると見られ、『アイデア』は1967年7月号に日向は「ルネ・マグリット そのイラストレーションへの影響」を掲載している。この文章において日向はマグリットを、日常のイメージを描くことや、オリジナリティという神話から解放されていることを理由にポップ・アートへと接続している。そして日向はマグリットの芸術を、そのオリジナリティ(独創性)批判とコモンセンス(大衆感覚)への信頼において、「イラストレーションの思想」として解釈し、美術とイラストレーションのジャンルを超えた共通性を見出している。

マグリットのイラストレーションや広告への影響は西洋でも同様であり、多くの模倣が生み出されてきた。1983年にはマグリット自身が制作した広告およびマグリットを参照したであろう広告について詳細に論じたジョルジュ・ロックの『マグリットと広告 これはマグリットではない』が出版されており、日向も1991年に出版された日本語版の監修として参加している。海外で同様の言説があった可能性は捨てきれないものの、彼女が日本において早くも60年代にマグリットとイラストレーションの親和性について一定の理路を示していたことは、改めて指摘しておきたい事実である。

日向と同時期にイラストレーションについて執筆していた書き手には、代表的なところで言うとほかに草森紳一がいるが、草森は比較的描き手に寄り添った評論が多い。日向もまた「作家論」としてそのようなアプローチを取ることはあるが、さまざまなメディアのなかで流通する表現として、イラストレーションが必然的にはらんでしまうデザインや美術といった他ジャンルとの緊張関係を言語化しようという試みは、歴史的に重要なものだと言えるだろう11

未来学としてのポップ・アート

そして、こうしたイラストレーションに対する日向のメディア論的視点を前提に踏まえてこそ、彼女が生涯にわたって幾度となく論じてきたポップ・アートについても理解がしやすくなるはずだ。まず彼女にとってポップ・アートとは、情報化時代以降の動向であるのだが、それと同時に性の解放の表象化でもあった。それが日向のポップ・アート論の特徴であり、それはその後ポップ・マニエリスム論へと展開していくのだが、彼女は日本におけるポップ・アートの先駆的な紹介者の一人でもあったことはまず前提として共有しておきたい。50年代にイギリスで産声をあげ、1961年にはアメリカでもロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホルがポップな作風で展覧会を開催したことにより注目を集めていたポップ・アートであるが、日向は1964年に『美術手帖』誌上においてポップ・アートに関する小論を掲載し12、キャリアを通じて繰り返し言及を重ねてきた。

そんな彼女のポップ・アート論としてまとまりがあり、かつその後の展開にとっても重要なテキストとして、1967年の『美術手帖』10月号に掲載された「ポップ・アート=エロティシズム=未来学」をここでは取り上げよう。同号はポップ・アートを特集しており、宮川淳、藤枝晃雄の論考も掲載されている。その点では日本におけるポップ・アート受容においても重要な資料であるのだが、同論考の導入において日向は、ジョルジュ・バタイユの言う淫靡なエロティシズムと、トム・ウェッセルマンなどを引き合いに人工的なポップ・アートのエロティシズムを区別し、その現代性を指摘している。このようなエロティシズムについてはジェンダー的な観点、あるいはその先にポストヒューマンへの志向も含んでおり、それについてはのちに改めて検討するが、そこに日向は大阪万博を控え盛んになっていた未来学13を接続し、「科学とテクノロジーが人間にとってどういう意味をもち、人間の思想や感性にいかに作用するかが、芸術における未来学、つまりポップ以後のテーマ14」と述べている。

つまり日向にとってポップ・アートは、イメージ中心の電子メディアのポップ的な現実を取り入れることで、従来の活字メディア中心の文化を組み替える「未来学」的側面を持つものだったのである。このような見立てのもと、日向は「私は機械でありたい」という発言もあるアンディ・ウォーホルや、ジャスパー・ジョーンズに代表されるネオ・ダダ、ジェイムズ・ジョイスなどを縦横に論じ、ポップ・アートはそのクールなエロティシズムによって新しい身体を提示し、ヨーロッパ的な明快な論理体系に「不能と修正を宣言するまた別の精神と思想がありうる15」ことを告げるのであると述べている。こうしたフィジカルを前面に押し出した理解は、同じくポップ・アートの先駆的紹介者として知られる、東野芳明のメディア社会における虚構性や記号性の作用に着目する視点とはニュアンスを異にしたものだと言えるだろう。

「ポップ・アート=エロティシズム=未来学」のなかではジョン・ウェスリーやプライマリー・ストラクチャー、エンバイラメンタル・アート(環境芸術、メディアアート)を引き合いにポップ・アート以後の多様な展開がすでにマニエリスムの段階に入っていることが述べられていたが、そうした見立ては『ポップ・マニエリスムの画家たち』(PARCO出版局、1977年)、そして同書のコンセプトをベースに大幅に増補した『ポップ・マニエリスム エロス、恐怖、残酷、死、楽園、甘美、神秘……ポップ・スタイルで描いた現代の物語的迷宮美術』(沖積社、1993年、以下『ポップ・マニエリスム』)へと引き継がれていく。ポップ・マニエリスムとは「インダストリアリズムの生産品で囲まれた人工的、都市的な環境」を作品化したリキテンスタインやウォーホルの次なる動向として、「作家の主観性や内面誇張、幻想性を強く表現する傾向」を持っている作家たちの作風に対して用いられたものだが、『ポップ・マニエリスム』にはシンディ・シャーマンや金子國義、アレキサンダー・カルダーなど多様な作家が取り上げられており、そのスタイルは多様なものとして想定されていることがうかがえる。

同書ではポップな、日常的な生活空間を情念的に歪めるアンソニー・グリーンや、マイルス・デイヴィス「ビッチェズ・ブリュー」のジャケットでも知られるマティ・クラーウェンなどポップ・アート以降の感性や状況において活躍する表現者たちが取り上げられている。紹介される人物は日向の美術とイラストレーション双方への目配せがなされており、そのチョイス自体が一つのクライテリアとなっていると言えるだろう。日向にとってポップ・マニエリスムは日常的なポップ、つまり地方性も重要な要素として考えられており、横尾忠則についてはその土俗性が踏まえられながら紹介されている。

しかしここで注意しておきたいのは、それはキッチュではないということだ。日向ははっきりと、ポップ・アートとキッチュに一線を引く。例えば1973年の著作である『ポップ文化論』(ダイヤモンド社)では横尾について「ポップの表(おもて)性と、キッチュの裏(うら)性が彼においてはぴったり一つになることで、きわめて日本的なポップ16」と述べ、前近代的な俗悪さをさらけだすことの批評性が、横尾のイラストレーションをポップ・アートの水準へと引き上げていると論じている。続く箇所で日向はキッチュについて、クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」と鶴見俊輔「限界芸術論」を経由しながら、キッチュを「何かがはじまろうとするときにあたって、そのエネルギーが示すトリックスター的俗悪な姿である。と同時に、キッチュはまたそのエネルギーが頂点のあとで疲れをみせるときにも表れる17」とし、キッチュを文化の新陳代謝における「幕間の現象」であると述べる。

こうした姿勢は、日向と同じく美術と大衆文化の双方をその視野におさめ執筆活動をしていた石子順造との違いを際立たせるだろう。とりわけキッチュに関しては、石子にとっても重要なキーワードだ。しかし石子にとってのキッチュはより民衆的かつ流動的な、生活に密着したものであり、キッチュがポップ・アートへと昇華されるという日向のビジョンとは異なるものだ。石子のキッチュ論と比較すると、日向のキッチュ、そしてポップ・アート論は文化的なヒエラルキーを温存しているという点において批判されるべきかもしれない。しかし彼女のポップ・アート論は未来学的な、つまり進歩的な思想とともに語られてきたことを踏まえると、その理論的な建付けが要請した必然とも言える。奇しくも『ポップ文化論』は石子による書評が存在するが、そこで石子は日向の未来志向に触れながら、自らを「『未来学』よりも過去学のほうを好むたちなのである18」と述べ積極的な差別化を図っていることからも、両者のスタンスの違いは明らかだ。

このようにポップ・アートは日向にとって、新しい人間の姿を示唆するものであり、キッチュから発展的に登場したものだった。同時代人である東野や石子の差異から明らかになるのは、こうした未来学的かつ身体的な独自のポップ・アート理解であったと言えるのだが、00年代初頭、最晩年の日向は日本におけるポップの系譜を「にっぽん・ポッピズム」と題し、より地域性に根差ざした展覧会を構想していたと言う。その内容は鳥獣戯画から始まり、英一蝶や絵金、岡本太郎、片岡球子、合田佐和子、森村泰昌、村上隆、奈良美智、篠原有司男といった作家たちによるグループ展だった19。1999年から2000年にかけて、椹木野衣はサブカルチャーの影響を昇華した、村上隆らのネオ・ポップ世代の作家を中心としたグループ展「日本ゼロ年」展を開催したが、日向の企画がもし実現したら、椹木の展覧会とはまた異なる日本における「ポップ」が浮かび上がってきたかもしれない20

同時代の批評家との比較 反芸術論争を手がかりに

マクルーハンのメディア論を足掛かりにさまざまな対象を論じてきた日向であるが、その特徴は、ほかの美術評論家とどのような差異として見出すことができるのだろうか。すでに何人かの批評家を引き合いに出しながらその違いについて説明してきたが、ここでは彼女が活動を本格的に活動を開始した時期にフォーカスをあて、その相対的なポジションについて確認したい。

日向が活動を始めた60年代は、芸術の定義が大きく拡張する時期だった。メディアの発達、普及によって社会も変容し、そのなかで生まれてきたネオ・ダダ、アンフォルメル、ポップ・アートといった前衛的な動向は、日常と芸術の境界を攪拌した。そんななかで当時の美術批評界ではこれらの潮流に対する反応として、東野芳明と宮川淳による反芸術論争が起こっていた。この論争は1964年の『美術手帖』4月号から7月号にかけて誌上で展開されたもので、日向は直接介入しなかったものの、ここでの議論を整理することで、ある程度彼女の立ち位置を整理することができるだろう。

反芸術論争において、東野は反芸術を「日常的な物体やイメージを通して『事実』の世界の骨格を回復しようとした動き21」とし、その例として工藤哲巳の作品を挙げている。反芸術は当時の前衛芸術に対応するゆるやかな同時代的傾向と見なし、ウィレム・デ・クーニングからロバート・ラウシェンバーグにいたる系譜を、当時の環境下における抽象表現主義からの弁証法的発展と解釈している。しかし宮川はそうした二項対立に基づいた弁証法を認めず、ポップ・アート以降より顕著になった日常的な事物の氾濫を、芸術における「リアリテ」が崩壊し、だからこそその逆説において芸術の可能性が賭けられるべきであると述べている。

このように、東野はシンギュラルな特異点として反芸術という区分を設けようとするのに対し、宮川はそれを「日常性への下降」という言葉によって、芸術と日常を大きなグラデーションとして示し、良くも悪くも芸術の底が抜けてしまった状況のなかで、ジャスパー・ジョーンズの作品について触れながら「レアリテという古典的な認識観念を空無化させる22」その仕事について言及している。こうした両者の対比を踏まえると、日向の場合は、こうした芸術と日常の審級が無化される地平を見つめていたと言える。すでに考察を行った「ポップ・アート=エロティシズム=未来学」や『ニューエロティシズム宣言』で展開されているのは、マスメディアや工業製品に囲まれる現代人の生活が、芸術と日常の境界やジェンダーを乗り越えたものになるのではないかという予見だった。日向の美術批評におけるこうした汎芸術志向は、当時の反芸術論争を参照することによって、美術よりも広範な文明史へと向けられていたことがここで明らかになる。実際、日向は『ポップ・マニエリスムの画家たち』においても「ポップ・アートが重要だと言うのではなく、むしろポップ・アートが捉えたインダストリアリズムの都市感覚のほうにより大きい重点がおかれている」と書いていることからも、そうしたポジショニングが、はっきりと自覚的なものであったことがうかがえるのである。

脚注

1 唯一の例外が、現在はリンク切れで閲覧できない状態となっている「日向あき子アーカイブ」である。現在はFacebook上で「日向あき子追悼ページ」にコンテンツ内容とその一部が公開されている。
2 日向あき子「たった一人の、マクルーハン追悼」『早稲田文学』[第8次60号]、早稲田文学会、1981年、34~37ページ
3 日向あき子「機械の花嫁——工業生産時代の人間のフォークロア」『美術手帖』1967年12月号、美術出版社、1967年、85ページ
4 日向あき子『ポップ・マニエリスム エロス、恐怖、残酷、死、楽園、甘美、神秘……ポップ・スタイルで描いた現代の物語的迷宮美術』沖積社、1993年、327ページ
5 飯田豊『メディア論の地層 1970大阪万博から2020東京五輪まで』勁草書房、2020年、2~41ページ
6 日向あき子「電子情報時代の芸術 マクルーハンにおけるユリシーズ性の回復」、前掲(註3)、74ページ
7 塚田優「日本デザイン史におけるイラストレーションの定着とその意味の拡大について——1960年代の言説を中心に」『多摩美術大学研究紀要』34号、多摩美術大学、2020年、63~80ページ
8 早川良雄、日向あき子、永田力、安野光雄、長新太「イラストレイション合評 ’71.9→72.1」、日本イラストレイター会議編『イラストレイション』No.1、講談社、1972年、111ページ
9 日向あき子「ポップ・マニエラの季節」、第一出版センター編『年鑑日本のイラストレーション’78』講談社、ページ番号なし
10 岡田隆彦「ふと見る者をみつめる眼なざし」、第一出版センター編『年鑑日本のイラストレーション’76』講談社、ページ番号なし
11 しかしその後80年代以降のイラストレーションについては積極的な言説化に加わらなかったようで、管見の限り日向による言説はほぼ見当たらない。この積極性のなさは、それ以前に比べて不自然ではあるが、日比野克彦らの登場がそのイメージの具象性において新表現主義と同一視されたその偶然の類似に慎重な姿勢を貫いたという点では冷静な判断だったと言える。こうした態度は、日本のイラストレーション史のなかでより積極的な意味を見出せる可能性があり、今後より調査・言及がなされるべきだろう。
12 日向あき子「複数表現による伝達 アメリカのポップ・アート」『美術手帖』1964年9月号、美術出版社、1964年、10~18ページ
13 当時の「未来学ブーム」については、次の資料が参考になる。竹内孝治『真鍋博の未来都市観に関する研究 都市住居の新たなビジョン構築に向けて』都市のしくみとくらし研究所、2012年
14 「ポップ・アート=エロティシズム=未来学」『美術手帖』1967年10月号、美術出版社、1967年、104ページ
15 同前、107ページ
16 日向あき子『ポップ文化論』ダイヤモンド社、1973年、145ページ
17 同前、151ページ
18 石子順造「日常性へのオマージュ 日向あき子「ポップ文化論」」『美術手帖』1973年11月号、美術出版社、1973年、231ページ
19 門田秀雄「日本のひとたちに役だちたい:にっぽん・ポッピズム ――日向さんの最晩年の世界――」日向あき子追悼ページ、https://www.facebook.com/profile.php?id=100064932337482&locale=ja_JP
20 さまざまなジャンルについて論じる日向の著作における折衷性は、椹木の著作におけるスタイルとの共通性を感じさせる。ただ彼は日本の第二次世界大戦における敗戦や被爆国としての戦後史を前提とした批評活動を行っているのに対し、日向にそうした意識はほとんど見られない。
21 宮川淳「反芸術 その日常性への下降」『美術手帖』1964年4月号、美術出版社、1973年、53ページ
22 同前、54ページ

参考資料

加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学 近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ』せりか書房、2018年
草森紳一『「イラストレーション」 地球を刺青する』すばる書房、1977年
熊谷伊佐子、林道郎、藤井亜紀、松井勝正、光田由里編著『美術批評集成 一九五五―一九六四』藝華書院、2021年
東野芳明『虚像の時代 東野芳明美術批評選』松井茂、伊村靖子編、河出書房新社、2013年
東野芳明編著『現代の美術 第4巻 ポップ人間登場』講談社、1971年
『石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行』美術出版社、2011年

※URLは2025年5月15日にリンクを確認済み

スプートニク・モンローなる巫子 日向あき子論[後編]

関連人物

このテーマに関連した記事

Media Arts Current Contentsのロゴ