坂口 将史
「特撮」ジャンルを代表するヒーローとして、ゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダーと並んで長年親しまれてきたのが、「スーパー戦隊シリーズ」です。「スーパー戦隊シリーズ」は、その元祖とみなされている『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975~1977年)から、第49作『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』(2025~2026年)まで、ほぼ途切れることなく50年間テレビ放送を続けてきました。だからこそ「スーパー戦隊」は、「特撮」ジャンルの代表格とされるシリーズの中でも、最も多い作品数と、主要登場キャラクターを有します。それは2026年2月5日には、日本記録認定協会により「日本で最も多くの変身ヒーローが登場した特撮テレビシリーズ」と認定されるほどです。本稿ではそんな「スーパー戦隊」が、その歴史の中でどのように「チーム」を描いてきたのか、いくつかの作品に注目しながら読み解いていきます。

「“特撮”とは何か」を説明する際、「ゴジラやウルトラマン、仮面ライダー、スーパー戦隊のような~」というフレーズは、ある意味定型句のように使われてきた。何をもって「特撮」とするかという定義については様々な議論があるが、「“特撮”として親しまれている映像作品」として、前述の4シリーズが例として挙げられることに異論はないだろう。これら4シリーズの中で最も通算放送期間が長いのが「スーパー戦隊シリーズ」であった。「スーパー戦隊シリーズ」第1作とみなされている『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975~1977年)から数えれば1、その期間は約半世紀に及ぶ。
「スーパー戦隊シリーズ」はその長い歴史の中で、「“スーパー戦隊”らしさ」とでも呼ぶべき様式美を確立させながら展開してきた。それは同じく東映製作の特撮ヒーロー番組である「仮面ライダー」シリーズが、作品構造の自己解体と総括の繰り返しによってシリーズを展開していることとは好対照と言える2。だがそうした「スーパー戦隊」の様式美も、常に不変というわけではない。「全スーパー戦隊展」(東京ドームシティ プリズムホールほか、2025~2026年)においても、「その時代のカラーを色濃く反映しているのも『スーパー戦隊シリーズ』の特徴の一つです」と紹介されている。
そこで本稿では、第49作『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』(2025~2026年)でシリーズに一度幕が下ろされることを踏まえ、「スーパー戦隊シリーズ」が約半世紀の歴史の中で、どのように視聴者にメッセージを伝えてきたのか、その流れを検討する。それは、氷川竜介が「戦隊は、子どもが最初に出会う社会モデルの一つと言える」3と言うように、制作サイドが「スーパー戦隊シリーズ」を通して、「時代のカラー」を反映した「社会モデル」として何を子どもたちに提示したのかを問うことでもある。そしてまた、『ゴレンジャー』放送開始の前後が、現在イメージされる「昭和の日本」、「日本型工業化社会」が完成したタイミング4であることを踏まえれば、それは昭和、平成、令和を跨いだ、高度経済成長期後の日本の歴史を概観することになるとも言えるだろう。
「スーパー戦隊シリーズ」第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』は様々な革新を特撮ヒーロー番組に与えたが、本稿ではその中でも二つの点に注目する。その一つが、「ヒーローがチームを組んで活躍する」点を全面に出したことである5。それまでは「仮面ライダーシリーズ」のように「一人のヒーローが活躍する」ことが基本の特撮ヒーロー作品において、『ゴレンジャー』は「チームの魅力」を掲げたのである。そのコンセプトを達成するため、『ゴレンジャー』ではチームを構成するメンバー5人が、それぞれの得意分野や個性を生かして活躍する様が描かれた。特に、各メンバーが目的達成に向けて多面作戦を展開する様は、一人のヒーローの活躍を描く従来の特撮ヒーローでは不可能な表現だったと言えるだろう。
そして、そんな個々人でも活躍できる強烈なパーソナリティを持った5人が揃う瞬間にこそ、チームの魅力は最大化する。中でも5人全員が変身して名乗るシーンや、5人の力を集めた必殺技で敵にとどめを刺すシーンは、チームヒーローのカタルシスをもたらすものだ。こうした名乗りや合体必殺技は、第2作『ジャッカー電撃隊』(1977年)でも踏襲されることとなり、その後スーパー戦隊シリーズの様式美として定着することとなる。

第3作『バトルフィーバーJ』(1979~1980年)になると、チームヒーローのカタルシスの新たな表現手段として、巨大ロボが登場する6。バラバラな個人が一つの身体を操作する巨大ロボは、文字通りチームが「一心同体」であることを表現する格好の手段であった。やがて第5作『太陽戦隊サンバルカン』(1981~1982年)で巨大ロボは、単独のロボットから合体ロボとなる。それにより、戦隊メンバーたちが乗り込むビークルが一つの巨人へと姿を変える合体シークエンスが、チームヒーローのカタルシスを表現する新たな方法として確立する。この表現方法は、一つのビークルに複数のヒーローが相乗りしていた時期においては完全な効果を発揮できていなかったが、第11作『光戦隊マスクマン』(1987~1988年)においてヒーロー各自が個別ビークルに搭乗する5体合体ロボになったことで、一つの完成を見ることとなる。このようにアクション、必殺技、ロボと、「スーパー戦隊シリーズ」は「仲間の力を一つに」を軸とした様々な魅せ方を、視聴者に提供してきたのである。

本稿が注目する『ゴレンジャー』の革新としてもう一つ取り上げておきたいのが、「強化服による変身」という設定である。先行する「仮面ライダーシリーズ」は「改造人間」という設定がヒーローの力の源となっているため、変身前の人間と変身後のヒーローは不可分である。しかし『ゴレンジャー』の「強化服による変身」という設定の場合、極論すれば強化服を着たものは誰でもそのヒーローになれる。すなわち変身前の人間と変身後のヒーローは、一対一の対応関係ではないのだ。
この強化服設定が根底にあるため、「スーパー戦隊シリーズ」においては変身者の交代が可能となる。例えば『ゴレンジャー』では、キレンジャー・大岩大太が秘密戦隊の上部組織・イーグルの九州支部教官へと就任したため、第55話よりゴレンジャー予備隊員の熊野大五郎が2代目キレンジャーとして変身することとなる。そして熊野もまた第67話で敵組織・黒十字軍の攻撃によって殉職し、変身者は再び大岩へと交代するのだ。こうした交代劇は、「スーパー戦隊シリーズ」と同じくチームが物語を動かす「刑事ドラマ」のフォーマットを応用したものであるが7、ヒーローの交換可能性は、その後の「スーパー戦隊シリーズ」におけるチーム観を検討する上で重要なキーワードとなる8。
ではここで一度、スーパー戦隊で描かれる「チーム」がどのような「共同体」として描かれていたのか考えてみたい。社会学において共同体は、血縁や地縁、情によってつながっている自然発生的な集団である基礎集団と、特定の目的を達成するため人為的につくられた集団である機能集団の2種類に分類される。スーパー戦隊は、人々の平和を乱す悪の組織を倒すという目的を達成するために結成された、機能集団である。だからこそ、スーパー戦隊のドラマは基本的に、最終回で「世界が平和になった」ことで終了する。
もちろん、スーパー戦隊におけるヒーローたちの関係性は、単に目的達成のために協力するだけのドライなものではない。そこには和気あいあいとした仲間意識や、チームへの帰属意識といった情による結びつきも確かに存在する。すなわち戦隊は機能集団的な側面だけでなく、基礎集団的な側面も持っているのだ。こうした基礎集団と機能集団双方の特徴を色濃く持った集団の典型的な例が、終身雇用・年功序列が機能していたかつての日本企業である。組織論研究者の太田肇は、こうしたかつての日本企業が持つ独特なありようを「共同体型組織」と呼び、それが「日本型組織」を産んだという9。前述の通り、高度経済成長期を経た1975年前後が、現在イメージされる「昭和の日本」、「日本型工業化社会」が完成したタイミングであることを踏まえれば、「日本型組織」が「スーパー戦隊」のチーム観とオーバーラップするのは偶然ではないだろう。
『ゴレンジャー』をはじめとする初期のスーパー戦隊では、その母体組織が軍隊として設定されることが多く、その場合メンバーはすべからく軍人となる。もちろん、スーパー戦隊すべてが軍人によって組織されるわけではない。例えば第4作『電子戦隊デンジマン』(1980~1981年)では民間人によってスーパー戦隊が結成されるが、デンジマンとして戦う使命を背負ったメンバーたちは、アスレチッククラブのコーチとして同じ職場で働くようになる。すなわち、軍人であろうが民間人であろうが、スーパー戦隊として同じチームに所属したからには、軍や職場といった同じ組織に所属しなければならないのである。
そして軍隊であるか否かに関わらず、メンバーを戦士として任命し、指令を下す「上司」の存在もまた、多くのスーパー戦隊で描かれてきた。こうしたトップダウン方式のピラミッド構造の組織もまた、「日本型組織」の典型と言えるだろう。それを踏まえれば、スーパー戦隊におけるヒーローの交換可能性は、出世や異動、殉職に伴う後任配置という企業的な振る舞いとして捉え直すことができる。初期のスーパー戦隊は、ヒーローチームである前に、何より組織人であったのだ。
スーパー戦隊は「戦隊」という共同体と、そのチームワークを描く物語である。だからこそ、初期においては、チームの中での個々人の活躍と、それらが一体となることによるカタルシスを、作品の魅力として描いていた。逆にチームワークの欠損は、悪の組織が内包する問題として描かれる。『ゴレンジャー』における敵組織・黒十字軍幹部のテムジン将軍とマグマン将軍のいがみ合いなどで先駆的に描かれていた敵組織の内紛は、作戦失敗から、時にその組織壊滅まで繋がることもある。

もちろん戦隊内でも、個人での間の衝突が起こることはある。だがそれは、衝突を経たのちの和解を描くための物語上のスパイスでしかない。理想のチームの体現者である戦隊において、こうした衝突は各話のサブプロットとして配置されるに過ぎなかったが、第6作『大戦隊ゴーグルファイブ』(1982~1983年)で初めて戦隊メンバー同士の「友情」が、各話のサブタイトルの言葉として取り上げられることとなる10。『ゴーグルファイブ』では、戦隊メンバーそれぞれに対応する少年少女オペレーターが割り当てられており、チームヒーローものでありながらバディものとしての側面も持つ。これは、個人対個人のドラマを強化する取り組みの一つと言えるだろう。
戦隊メンバー同士の「友情」のようなパーソナルな物語への注目と時を同じくして、当時流行していたアニメ作品の大河ドラマ的構成を参考にする形で11、スーパー戦隊の縦軸のドラマが強化されてゆく。その最初期の事例が第7作『科学戦隊ダイナマン』(1983~1984年)である。『ダイナマン』では5人のメンバーがそれぞれ戦隊としての悪を倒す使命のほかに、個人的な夢を持っており、その夢を叶えるために日々努力する。これは組織人としての側面ではない、個人としての人間的魅力をヒーローに与えるための設定と言えるだろう。また、敵組織・ジャシンカ帝国の幹部・メギド王子とダイナレッドのライバル関係も描かれるが、これもまた個人の因縁により物語の縦軸を駆動させる試みと言えるだろう。

パーソナルな物語に力点を置くストーリー構成は、その後第8作『超電子バイオマン』(1984~1985年)における敵首領・ドクターマンとレッドワンの父の因縁、第10作『超新星フラッシュマン』(1986~1987年)における戦隊メンバーの望郷の念、第12作『超獣戦隊ライブマン』(1988~1989年)における敵味方に引き裂かれた友情物語などでも展開されていく。こうして「スーパー戦隊シリーズ」は、ヒーローと悪者が織りなす明確な善悪の物語をベースにしつつ、個々人のドラマでストーリーを引っ張って行く方向へと展開していったのだ。
こうした「個人」への注目は、当時の社会情勢ともシンクロする。教育学者の貝塚茂樹は、高度経済成長期において経済的な「豊かさ」を手に入れた国民が、日常の「私的な欲求」に多くの関心を注ぐようになり、社会から公共性が失われていったことが問題視されるようになったと述べている12。そして、そんな高度経済成長を経た結果、1980年代から1990年代の日本社会で〝個人の解放〞が加速したと、コンテンツディレクターの米田智彦は述べている13。そしてまた1980年代の後半は、「個性」という言葉が教育業界に表れた時代でもある。1984年に設置され、1987年まで活動した臨時教育審議会が自らの議論を総括して「個性重視」を打ち出したのである14。まさに1980年代は「個」の時代であり、スーパー戦隊もまた「個性あふれるヒーローが集まったチーム」という組織の魅力を打ち出すものから、「チームを構成する個性あふれるヒーロー」という個人の魅力を打ち出すものへと徐々にシフトしていったのである。
第15作『鳥人戦隊ジェットマン』(1991~1992年)は、1980年代に進んだ「チーム」から「個」へのフォーカスのシフトが、一つの集大成となった作品である。ジェットマンは本来、選ばれた軍人が特殊なエネルギーを浴びた上で、強化スーツを着ることで変身する特殊部隊であった。しかし、敵組織・バイラムの急襲により部隊は壊滅してしまったため、偶然エネルギーを浴びた4人の一般人と、部隊唯一の生き残りとなったレッドホークが、地球の平和を守るために急造の部隊を組織することになる。急造部隊であるがゆえに、一般人4人にとって平和を守る使命は、それまでの自分の生き方と相容れるものではない。だからこそ彼ら4人は、使命の押し付けやジェットマンという組織への連帯に対してためらい、時に拒否する。それに対してジェットマンの司令やレッドからは、呪いのように「あなたはすでに、ジェットマン」、「だから仲間」、「バイラムと戦うためには、個人的な感情は捨てなければならない」という言葉が繰り返される。帰属と服従を強制してくる組織と、それに反発する個人という構図が、スーパー戦隊を舞台に展開されるのだ。その結果、戦隊メンバー間の心はすれ違い、そこにドラマが生まれる。『ジェットマン』では戦隊と敵組織を股にかけた複雑な恋愛模様も描かれるが、これもまた「個人」の物語にフォーカスしたがゆえのものと言える15。
そして『ジェットマン』は、そうした使命と個人のジレンマに苦悩する中で、各々が自発的に「チーム」と「使命」を選び、平和のために戦う決意を決める様子が描かれる。ただしこれは、あくまで「個人」にフォーカスされたものである点が重要である。だからこそ、仲たがいによる「チームの脱退」や、ジェットマンとは異なる正義の戦力の登場、変身能力の喪失といった「戦士を辞めてもいい」タイミングが、本作では何度も訪れる。そしてそのたびごとに、ジェットマンたちは誰に強制されるでもなく、自発的に悪に立ち向かうのだ。それは時に、ジェットマンの上部組織からの命令違反を伴うものでさえあった。軍隊や会社といったピラミッド構造の組織のアナロジーであったスーパー戦隊において、個人の思いがそのピラミッド構造を打破し、個人同士の連帯による真の「正義のために戦う部隊」が結成される。その意味で『ジェットマン』は、アンチスーパー戦隊なのである。

第16作『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992~1993年)もまた、スーパー戦隊の大きな転換点となる作品である。本作では、ファンタジー設定の大胆な導入により、ビークルやロボのキャラクター化が行われた16。『ジュウレンジャー』において、戦隊各メンバーに対応するビークルは「守護獣」、合体したロボは「大獣神」という、一種の神様なのである。これにより、人間が操作する機械に過ぎなかったビークルやロボが、会話によるコミュニケーションが可能な存在として描かれることとなる。そして大獣神は、ジュウレンジャーたちに使命を与え、導く存在でもある。これはかつての司令官の役割を、ロボが担っているということである。このように、ファンタジーという力を借りることで、スーパー戦隊はビークルやロボをもチームや組織の内側に組み込んだのだ。
ジュウレンジャーたちは大獣神からの使命を帯びて悪の魔女バンドーラと戦い、力を得るための試練に挑む。だが、彼らは単に大獣神の指示に従うだけの存在ではない。彼らは時に個人の思いゆえ、大獣神の思惑に真っ向から立ち向かうこともあるのだ。バンドーラの策略によって敵対することとなった6人目の戦士・ドラゴンレンジャーへ死の裁きを迫る大獣神に対し、弟であるティラノレンジャーが兄弟の情からそれを拒むドラマは、その最たる例だろう。そして、ティラノレンジャーの優しさに救われたドラゴンレンジャーの力が、その後バンドーラを倒すカギとなる。このように『ジュウレンジャー』では、使命や天命を越えて下した戦隊メンバーたちの個人的な決断が、その命令者の思惑を超えるというかたちで、組織に対する個人の思いの優越の物語が描かれるのだ。この構図は、第17作『五星戦隊ダイレンジャー』(1993~1994年)や第18作『忍者戦隊カクレンジャー』(1994~1995年)などにおいても、他者から押し付けられた使命を退け、自分の意思で使命をつかみ取る物語として描かれることになる。こうしてスーパー戦隊は、命令によって動く部隊から、個々人の思いや考えをもって有機的に動くチームへと姿を変えたのである。

『ジェットマン』や『ジュウレンジャー』が確立した個人が掴み取るチームの物語は、新たな様式美をつくり出すこととなる。それが、「個人こそがヒーローである」というロジックだ。個人の思いこそがヒーロー性を担保するのであれば、強化服の有無は本質的なものではない。だからこそ『ジェットマン』や『ジュウレンジャー』では、変身能力を失っても果敢に敵に立ち向かうヒーローたちが描かれた。その極めつけが、『ダイレンジャー』で行われた「素面名乗り」である。これは変身前の人間が、変身後と同じポーズで名乗りを行うものであり、変身前と変身後の同一性をこれ以上なく視覚化するものだ。スーパー戦隊は、組織における立場の交換可能性を表していた「強化服」設定を逆手に取り、「強化服」をあえて手放すことによる「個人」の重要性の表現をつくり上げたのだ17。そしてこの素面名乗りもまた、変身できないヒーローたちの戦闘と同様に、最終局面における様式美の一つとなっていく。

1990年代のスーパー戦隊が果たした革新としてもう一つ忘れてはならないのが、追加戦士という様式美の確立である。追加戦士とは、5人や3人といったチームの初期メンバーに、後から追加メンバーが加わる事態を指す。戦隊が「強化服」によるパワーアップを経た集団を指す以上、その「強化服」に準ずる手段を得ることができれば、戦隊と同等の力を持つことができる。こうした戦隊の交換可能性が、メンバーの交代劇とは異なる形で発展したのが、追加戦士である。追加戦士そのものは、『ジャッカー電撃隊』後半から登場した行動隊長ビッグワン、『超獣戦隊ライブマン』のグリーンサイ、ブラックバイソンで既に実験的に試みられていたが、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のドラゴンレンジャーから本格的に取り入れられていくこととなる。

追加戦士は1年間のドラマに起伏をもたらすカンフル剤として、様々な作品で効果的に活用された。なぜなら、関係性が固定化されたチームの中に追加戦士という異質な存在が入ることで、チーム内の関係性の攪乱が起こるからである。その結果、追加戦士だけでなく、既存メンバーのパーソナリティにもまた、さらなるフォーカスが当たる。こうしてスーパー戦隊のドラマは、追加戦士という様式美が加わることによって、メンバー個々人の内面をより深く掘り下げていく方向へと発展していく。
そして追加戦士は時に、既存メンバーと敵対関係を演じることもある。追加戦士のこうした異物性は、1990年代後半から2000年代前半で特にクロースアップされた。例えば、第22作『星獣戦隊ギンガマン』(1998~1999年)の黒騎士ブルブラックや第24作『未来戦隊タイムレンジャー』(2000~2001年)のタイムファイヤーは、スーパー戦隊とも悪の組織とも対立する第三勢力として描かれた。そして第25作『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001~2002年)、第26作『忍風戦隊ハリケンジャー』(2002~2003年)、第27作『爆竜戦隊アバレンジャー』(2003~2004年)では、追加戦士が悪の組織に一時期所属するといったことさえ起こるようになる。こうしたヒーロー同士の対立と融和は、既存メンバーたちがもともと持っていた価値観や使命を大きく揺るがすものとなり、新たにヒーローたちが掴み取るチームや使命の価値を強調するドラマにもなる。そしてスーパー戦隊であるがゆえに、彼らの対立の融和は、共に「名乗る」ことによって、明快な形で視覚化されるのである。

こうした追加戦士の導入による共同体拡張のドラマは、人間の役者が演じるキャラクターを対象とするものに留まらない。前述のように、『ジュウレンジャー』を経てビークルやロボをもチームや組織の内側に組み込まれることとなった。その結果、『ギンガマン』などで戦隊メンバーとビークルやロボとの絆が描かれるようになり、『ガオレンジャー』ではその絆を通じて追加ビークルやロボが戦隊の仲間になるドラマが描かれるようになるのだ。追加ビークルやロボが仲間になるということは、巨大戦力がパワーアップするということであり、端的に言ってしまえば武装強化である。しかしスーパー戦隊ではそれを絆を媒介とするドラマとして描くことにより、武装強化が共同体の拡張として読み替えられるのだ。そして第32作『炎神戦隊ゴーオンジャー』(2008~2009年)のように、ビークルやロボたちでさえも時にヒーローたちと共に「名乗る」ことで、その共同体意識はより強固に演出されることとなる。

こうした追加戦士との絆、ビークル、ロボとの絆は、スーパー戦隊であるがゆえに、合体ロボとしても視覚化される。チームの心を一つにしたことの象徴がスーパー戦隊のロボットだったとすれば、追加戦士や追加ロボットを巻き込んだ強化合体ロボは、彼らとさえも心を一つにできたという、共同体刷新の象徴なのである。このように、1990年代以降のスーパー戦隊においては、無限とも言える共同体の拡張と、それによる価値観の更新がドラマの大きな軸として据えられたのである。

これらは1980年代から見られた“個人の解放”、そして1990年代前半における“あえて個人の意思をもって戦隊という共同体を選択する”というドラマを、さらに発展させたものと言えるだろう。つまり、もはや軍や企業といった、お仕着せの枠組みである共同体ではなく、個々人の行動により拡張・刷新される有機的な共同体へと、理想の共同体観がシフトしていったのである。そしてこれは、1990年代以降の日本の教育観とも響き合うものである。本田由紀によれば、オウム真理教が引き起こした一連の事件や神戸連続児童殺傷事件がもたらした1990年代の大きな社会不安が、子どもや若者の「心の闇」への注目を引き起こしたという。その結果、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくための「生きる力」の必要性が強調されることとなった18。他者と協調する力、すなわちコミュニケーション能力の重要性が高まった時代だからこそ、追加戦士や追加ビークル、ロボといった異質な存在とどう向き合うかが、物語の大きな関心事となった。それゆえにスーパー戦隊は、共同体の拡張をドラマの軸に据え、それをこの時代にフィットした「平和を守るための力」として描いてきたのである。
2000年代になると、ヒーローたちがスーパー戦隊を「居場所」として捉えるドラマが描かれ始める。これはまさに、スーパー戦隊という共同体の自己目的化である。その萌芽は『タイムレンジャー』ですでに見られたが、『ガオレンジャー』で大々的に取り上げられることとなる。
『ガオレンジャー』では敵組織・オルグの幹部を倒した後や、最後のオルグを倒す前などの節目のタイミングで、ヒーロー達が自分たちの使命を終え、解散してしまうことを寂しがる場面が描かれる。「悪を倒し、平和を守る」ために結成された戦隊が解散することは、「平和の達成」を意味するものであるため、本来は望ましいものであるはずだ。それゆえに初期のスーパー戦隊においては、最終回での戦いが終われば「ありがとう(さらば)、〇〇」と視聴者の立場からの感謝のナレーションと共に「おわり」の文字がクレジットされることが様式美となっていた19。しかしガオレンジャーたちは、自分の意思でかけがえのないチームを築いていったがゆえに、それを失うことにためらいを見せる。だからこそ『ガオレンジャー』では、「使命」が終わった後も、「使命」とは無関係な形で共同体が継続することを、ヒーローたちは夢見る。それは単なる旅行であったり、共同での飲食店の起業であったりと、平和を守るための戦いとは全く無関係だ。ヒーローたちは戦隊で得た縁を、その後の人生にも繋いでいくのである。すなわち、「戦うための部隊」から、「戦いを通してつながった人間関係」へと、スーパー戦隊の本質が変わっていったのだ。

そしてスーパー戦隊の本質の変化と並行して、ヒーローとしての戦いは彼らにとって、使命として「やらねばならない」と強制されるものではなく、個人として「やりたいこと」へと変わっていく。例えば第30作『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006~2007年)は、「冒険が好き」であることをヒーローとして活動するモチベーションとしている。そしてヒーローが「やりたいこと」になったがゆえに、『ゴーオンジャー』のゴーオンゴールドのように、ヒーローとして戦うことが自分だけの「オンリーワン」だと位置付ける者もあらわれる。第35作『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011~2012年)では、スーパー戦隊がそれぞれ固有の「大いなる力」を持つと設定されているが、ゴーカイジャーの「大いなる力」は「夢を掴む力」だ。もはやこの時代において、スーパー戦隊における使命と個人のジレンマは、完全に無化されているのである。
そして2000年代の戦隊に見られるもう一つの特徴が、時代や世代を超えた継承の物語である。追加戦士、追加ビークル、ロボのドラマを通して共同体の拡張とピラミッド構造の組織体制の否定を描いてきたスーパー戦隊は、単なる組織的な上下関係だけでなく、歴史的な系譜さえもチームに取り込んでいく。その先鞭をつけたのが第31作『獣拳戦隊ゲキレンジャー』(2007~2008年)だ。『ゲキレンジャー』では、ヒーローたちが先人たる師匠の教えを受けて成長し、やがて師の教えを越えた高みに至るまでの物語が描かれる。そしてゲキレンジャーたちは、師の教えをマスターした象徴として、師の力に関連する追加ビークルを扱えるようになるのだ。これは追加戦士、追加ロボで取り入れられていた共同体拡張の物語を、時間軸における歴史的ダイナミズムに置き換えたものである。

こうした継承と革新の物語は、『ゴーカイジャー』において、先行する34のスーパー戦隊をヒーローの先達として設定することにより、「スーパー戦隊シリーズ」の歴史そのものをゴーカイジャーという共同体に組み込むことに成功する。さらにその後、第37作『獣電戦隊キョウリュウジャー』(2013〜2014年)では、数千年前、数百年前の戦士と現代の戦士が一つのチームを組むという形で、チームそのものが歴史的ダイナミズムを持つものとして打ち出される。もはや「スーパー戦隊」は、同時代を生きる者たちで結成されたチームではない。一つの歴史を織り込んだ共同体として描かれるようになったのである。

2010年代後半以降のスーパー戦隊においては、コミュニケーションの場としての共同体を描く試みにより力点が置かれてゆく。第40作『動物戦隊ジュウオウジャー』(2016~2017年)は、一人の人間と、異世界で暮らしていた4人の獣人(ジューマン)がチームを組み、悪の組織・デスガリアンと戦う物語である。スーパー戦隊は個性あふれる戦士たちが一つのチームを組むというコンセプトであるが、本作では「異世界」というメタファーを用いることで、「異国」との文化交流の物語が描かれている。すなわち、スーパー戦隊というチームのありようが、異文化コミュニケーションの理想形として表現されているのだ。本作では「1人の人間と4人のジューマンが出会い、一つの群れが生まれた。地球を守るために!」というナレーションがオープニングで毎回流れるが、「スーパー戦隊」を「群れ」という生存のための共同体ととらえていることが興味深い。これはスーパー戦隊が「地球を守るため」という目的を共有した機能集団ではあるものの、もはや基礎集団となっていることを高らかに宣言した文言である。ここにはもはやピラミッド的な社会構造は存在しない。軍から群へと、共同体はシフトしたのである。

こうしてスーパー戦隊は、異なる社会、異なる価値観を持つ者同士が築く共同体を描くことが可能となった。スペースオペラ的設定の第41作『宇宙戦隊キュウレンジャー』(2017~2018年)では、人種どころか生まれた星さえ違うという、多種多様なバックグラウンドを持つ13人の戦士たちがチームを組む。そしてバックグラウンドの多様性を表現するために、彼らの「強化服」はシルエットからして異なるものとなった。それまでのスーパー戦隊の「強化服」がおおむね共通したシルエットであったことを踏まえれば、大きな変化と言えるだろう。そして第45作『機界戦隊ゼンカイジャー』(2021~2022年)では、1人の人間と、4人の異世界の機械生命体・キカイノイドがチームを組むが、その変身後デザインには共通の意匠がほとんど見られない。多様な個性だけでなく、文化や社会を包摂するチームとなったスーパー戦隊は、ユニフォームによる帰属意識の視覚化を必ずしも必要としなくなったのである。

しかし、多様な価値観を包摂するチームであり、また各メンバーが自分の「やりたいこと」を重視する以上、ヒーローたちの「やりたいこと」は対立することもある。それゆえに『キュウレンジャー』では、戦隊メンバーが各自で行動したり、チーム内に別のグループを作って行動したりする場面が度々描かれた。チームの魅力をドラマで表現する手段として『ゴレンジャー』の時点で多面作戦は描かれてきたが、この時代にはそうした多面作戦を「個人のやりたいことの違い」を表す手段として用いていたのである。
そしてまたそうした価値観の違いを効果的に表現するため、『ジュウオウジャー』や『キュウレンジャー』では「レッド」の複数化が試みられた。「やりたいこと」の集まりが「戦隊」だとすれば、そのリーダーとしての象徴でもある「レッド」の複数化は、異なる価値観の象徴と言えよう20。そしてそうした価値観の対立を作品のコンセプトとして昇華したのが、1年を通して二つの戦隊が対立と融和の狭間で関係性を築く第42作『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』(2018~2019年)である。こうしてスーパー戦隊は、チームの中のチームや、チーム同士の関係性など、個人と共同体の間に入れ子構造的に発生する中間的な関係性をもドラマとして描き出し、容易に一つにまとまらない価値観の併存を表現していったのである。

こうした対立と融和を物語の核として展開してきたスーパー戦隊は、やがてマクロとミクロ双方における共同体の極北へとたどり着くこととなる。
第47作『王様戦隊キングオージャー』(2023~2024年)は、5つの王国それぞれを治める5人の王たちが、「五王国異様事案対策用戦略救命部隊」として外敵の脅威に対抗するために結成した組織としてスーパー戦隊が描かれる。すなわち本作においては、スーパー戦隊とは国家間同盟なのだ。それゆえに、5人の王は本来同一の共同体に所属しているわけではない。そんな彼らが、非常時において一時的にチームをつくる、離合集散する弾力的なチームとして、スーパー戦隊が捉えられるのだ。そしてそのチームの射程範囲は、国家間同盟であるがゆえにワールドワイドであり、巨大ロボ・キングオージャーは同盟自体の強固さの象徴となる。そして本作のクライマックスでは、王たちだけでなく全国民の命がロボと結びつき、無限の力を得た超絶怒涛究極完全体キングオージャーが誕生する。国王と国民が文字通り一体となり、平和の危機を打倒する巨大ロボ。これこそまさに国家の象徴そのものである。スーパー戦隊という共同体は、そしてその団結の象徴である巨大ロボは、まさにここで政治学者ベネディクト・アンダーソンの言う国民国家の本質「想像の共同体」そのものとなったのである。『キングオージャー』を経て、スーパー戦隊は共同体のマクロな側面における極北へと至ったのである。

『キングオージャー』に先駆ける形で離合集散するスーパー戦隊を描いたのが、第46作『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022~2023年)である。本作では、平和な日常を壊す敵が現れた瞬間、ヒーローたちが変身後の姿で現場に召喚され、敵と戦う。しかし、ヒーローたちは、自分がなぜ敵と戦わなければならないのかは知らないままだ。また、変身後の姿で集まり、戦いが終わると元の場所に戻るため、自分以外の変身者が誰なのかも分からない。だからこそ、お互いを知る瞬間にドラマが生まれ、チームとしての連帯意識を醸成していく過程がドラマとなるのである。彼らは急に戦いの場に駆り出されるだけであり、戦いの使命を自覚することもなければ、戦いを通して自己実現を図ることもない。ただ目の前で傷つけられている人を見て、放っておけないからこそ、戦うのだ。本作ではそんな素朴な善性を持った人々がたまたま出会い、その「縁」を育むことで、だんだんと知り合いになっていく物語である。だからこそ、ほとんど「名乗り」は登場しない。チームの一体感を視覚化する「名乗り」は、1年間のドラマの中で共同体が完成するクライマックスにこそふさわしいものであるからである。
このような「使命」でもなく「やりたいこと」でもない、「縁」によって出来たチームという流れを受け継いだのが、現在のところスーパー戦隊最終作となった『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』である。『ゴジュウジャー』の世界では、巨神テガソードから指輪を与えられた者たちが、指輪の戦士(=スーパー戦隊)の姿に変身する事ができる。指輪の戦士たちは最後の1人になるまで指輪争奪戦を行い、その争奪戦を勝ち抜いたものは、願いをかなえることができる。個人の思い「やりたいこと」が戦う理由となっていたスーパー戦隊において、様々な姿のレッドが所狭しと現れる『ゴジュウジャー』の姿は、まさに人の数だけ欲望があることの象徴だ。そんな中で、たまたま縁あって休戦協定を結んだ5人というのが、ゴジュウジャーたちである。ここで重要なのは「ゴジュウジャー」という枠組みを意識することなく、縁ゆえに集まった結果できたチームのような寄り合いが、結果としてスーパー戦隊となった事である。もちろん、5人が共に行動していく中で、他の指輪の戦士や敵組織・ブライダンの怪人たちと出会い、チームで協力してそれらを撃退することもあるが、それはたまたまそうなっているに過ぎないのである。

そしてゴジュウジャーを含めた指輪の戦士たちは、各々の望みをかなえる上で競い合わなければならないライバルである。あくまで「同盟」である以上、最後には戦わなければならない。多様な価値観を内包した共同体としてのスーパー戦隊、それは『ジュウオウジャー』などで示されたスーパー戦隊の方向性だが、本作ではそれを、願いを巡るバトルロイヤルの中に位置づけたのだ。
一方、『ゴジュウジャー』の主人公・ゴジュウウルフは、幼少期のトラウマによって生きる意義や望みを持つことができなくなった、指輪の戦士唯一の「願いのない」者である。『ゴジュウジャー』はそんなゴジュウウルフが、戦いを通して縁を見つけ、仲間を見つけ、自分の人生に意味を見出す物語だ。物語の終盤、敵の横槍のせいで仲間を失い、最後のひとりとしてゴジュウウルフは生き残ってしまうこととなるが、そんな彼がテガソードに願ったのは「指輪争奪戦のやり直し」だ。戦いが縁で他者と知り合い、縁が繋がり、共同体が構築される本作に置いて、「指輪争奪戦のやり直し」は他者との出会いをこれからも続けていくという、人間賛歌、人生賛歌に他ならない。そして、新たに始まった指輪争奪戦を再び勝ち抜いたゴジュウウルフは、「この世界は、生きるに値するか?」という問いかけに対して「悪くねえ所だよ」と答えるまで精神的な成長を遂げる。世界の平和を守るというわけではない、「戦い」という人と人との出会いによって、人は成長するということが、ここではメッセージとして語られている。ここにおいてもはやスーパー戦隊の「戦い」は人生のメタファーとなった。スーパー戦隊は「居場所」であることを超えて、「人生」となったのである。人生を通した人との出会いによって人は生活し、成長し、その出会いを縁として共同体がつくられる。これぞまさに、アリストテレスが言うところの社会的動物そのものである。『ゴジュウジャー』を経て、スーパー戦隊は個人と共同体の関係という、共同体のミクロな側面における極北へと至ったのである。

現在イメージされる「昭和の日本」、「日本型工業化社会」が完成したタイミングと共に誕生したスーパー戦隊は、当初は基礎集団と機能集団の特徴を併せ持つ、かつての「日本型組織」と非常に親和性の高いものとして描かれた。それを子どもに向けて「理想的なチーム」として提示していたところに、大きな時代性を感じることができるだろう。
だがそうした「悪を倒す」ために結成された「日本型組織」は、やがて組織の物語から個人の物語へと軸足を移していき、お仕着せのチームから個人で選び取るチームへと、その共同体の本質を変えていった。やがて自分が選び取ったチームにヒーローたちは愛着を持ってゆき、いつしか「悪を倒す」ためのチームだったスーパー戦隊は自分の「居場所」となる。そんな居場所で活躍することは、ヒーローたちにとって自己実現そのものであり、もはや使命と個人的思いの間でジレンマを感じることはない。
こうした理想的なチームには、やがて多様な価値観が調和することなく共存する、多文化共生の共同体として描かれることとなる。こうした共同体のドラマは、その究極形として「想像の共同体」という国家そのものを描くことにも繋がり、また一方で「社会的動物」という共同体と個人の関係そのものを描くことにも繋がった。こうしてスーパー戦隊は、共同体におけるマクロとミクロ双方の極点までを、1年間の大河ドラマとして描くまでに至ったのである。
こうしてスーパー戦隊の50年がいかにチームを描いてきたのかを振り返ると、共同体概念そのものに肉薄するまでそのコンセプトを先鋭化してきたことが見て取れる。『ゴジュウジャー』をもってスーパー戦隊は一旦幕引きとなるが、チームや共同体へ真摯に向き合ってきた歴史を踏まえれば、まさに大団円というほかない。東映は現在、スーパー戦隊に代わる新たなヒーローシリーズとして「PROJECT R.E.D.」を展開している。スーパー戦隊が描き切ったチーム、共同体に代わる物語として、「PROJECT R.E.D.」は何を我々に見せてくれるのだろうか。今後も目が離せない。
脚注
※URLは2026年10月12日にリンクを確認済み