東南アジアの歴史から時間へ 「ホー・ツーニェン エージェントのA」レポート

渡部 宏樹

《時間(タイム)のT》2023年、映像スチル
Image courtesy of the artist and Kiang Malingue

「日本三部作」:東南アジアとアジア太平洋戦争期の日本

「ホー・ツーニェン エージェントのA」が置かれている文脈を明らかにするために、まずはホーの「日本三部作」を簡単に説明しよう。

《旅館アポリア》(2019年、あいちトリエンナーレ)は、第二次世界大戦末期に特攻隊員が利用した料亭を使ったインスタレーションである。2階建ての料亭の部屋ごとにスクリーンを設置し、第二次世界大戦当時の日本軍の宣伝部隊に属しシンガポールに滞在していた映画監督・小津安二郎の映画や陸軍報道班としてインドネシアに派遣されていたマンガ家・横山隆一のアニメーションがこの空間で上映される。この料亭の一室には戦闘機のエンジンを模した巨大な送風機が据えられ、その轟音が帝国主義を思想的に支えたとされる京都学派にまつわるテクストを読み上げる音声をかき消すことになる。

《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》(2021年、山口情報芸術センター[YCAM])は映像作品とVR映像からなるインスタレーションであり、「ホー・ツーニェン エージェントのA」でも展示された。会場にセットされた畳の上でVRヘッドセットを被ると、アジア太平洋戦争期の日本を抽象的に表現した仮想の空間に没入することができる。畳の上に座った状態では京都学派四天王の座談会の様子を見ることができる。畳の上に寝転がるとVR空間内で視点が移動し、観客は蛆がわく独房の一室に移動する。そこでは監獄の中に囚われた京都学派左派の三木清や戸坂潤の論考が音声として聞こえてくる。一方、観客が立ち上がると視点は上方に移動し、真っ青な空のなかでアニメ「機動戦士ガンダム」シリーズに登場するザクを模した緑色のロボットの編隊に紛れ込み、京都学派を代表する思想家・田辺元の「死生」という公開講座の朗読が聞こえる。この公開講座が学徒動員される若者たちを鼓舞する機能を果たしたことを考えると、壊れゆく緑色のロボットたちは、第二次世界大戦中に死んでいった兵士たちを思い起こさせるものである。

《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》2021年、展示風景
撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

《百鬼夜行》(2021年、豊田市美術館)は、日本の民話や伝承に登場するさまざまな妖怪が練り歩く様子を描いたアニメーションを中心とするインスタレーションである。個々の妖怪はモーフィング・アニメーションで描かれ、ごく普通の一般人の姿から異形の妖怪に変身し、そのなかには「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文大将や1960年代のテレビ番組『怪傑ハリマオ』のモデルとなった日本軍の諜報員・谷豊などの軍人やスパイが紛れ込んでいる。

このように、「日本三部作」のいずれも作品も明示的に日本のアジア侵攻をテーマとして取り扱っているものである。シンガポールの現代美術作家がなぜこの問題に取り組むのかと疑問に思われる方もいるかもしれない。そのような疑問には、短い期間とはいえシンガポールを含む東南アジアを支配した当時の日本がこの地域の人々の人生を大きな影響を与えたからと答えることも可能であろう。この回答は間違ってはいないだろうが、「ホー・ツーニェン エージェントのA」で展示されている「日本三部作」以前のホーの作品を見ると、この作家が東南アジアという地域の不明瞭性へと継続的な関心を持ってきており、その関心が必然的にアジア太平洋戦争期の日本の問題へと発展していった過程が明らかになる。

「日本三部作」以前:東南アジアの曖昧さ

「ホー・ツーニェン エージェントのA」展に展示された「日本三部作」以前の作品を簡単に紹介しながら、このことを確認していこう。 ホーの最初期の作品《ウタマ歴史に現れたる名はすべて我なり》(2003年)は、彼の拠点であるシンガポールという町の起源に関わる作品である。シンガポールはイギリスの植民地行政官トーマス・スタンフォード・ラッフルズによって19世紀初頭に建設された。しかし、シンガポールという名前自体は、パレンバンの王子サン・ニラ・ウタマによる「ライオンの町」を意味する「シンガプーラ」にさかのぼる。とはいえ、ホーはこのエピソードを描くことによってシンガポールの土着の歴史や神話を掲げようというのではない。ウタマの姿がアレクサンダー大王、鄭和、コロンブスやクックといった東西のさまざまな人物に変形していくなかで、ある単一の起源というものを求めることの危険性へと観客の注意を促している。

《ウタマ―歴史に現れたる名はすべて我なり》2003年、映像スチル

《名のない人》(2015年)と《名前》(2015年)は同時期に制作された映像作品で、方法やテーマの点で共通点が多い。《名のない人》はライ・テクと呼ばれるいくつもの偽名を持つ多重スパイを描いている。インドシナ共産党、フランス、イギリス、マラヤ共産党、日本軍等のために働いたライ・テクを、主にウォン・カーワイの映画から撮られたトニー・レオンのイメージをサンプリングすることで描き出している。一方、《名前》は『マラヤにおける共産主義闘争(The Communist Struggle in Malaya)』(1954年)をはじめとする多数の書物を執筆した正体不明の著者ジーン・Z・ハンラハンを、英米の映画のなかで白人男性がタイプライターで執筆するシーンをサンプリングし表現している。両作品とも、正体が不明瞭な人物を商業映画のフッテージを利用することで描き出している。

《名のない人》2015年、映像スチル

《一頭あるいは数頭のトラ》(2017年)は、ハインリッヒ・ロイテマンの木版画《シンガポールで中断された道路測量(Interrupted Road Surveying in Singapore)》(1865年頃)に描かれた、英国植民地政府の公共事業監督官ジョージ・D・コールマンが、ジャングルの中でトラと遭遇した様子を再現したものである。ロイテマンの木版画の構図に従って、コールマンと8人のインド系の従者たちがジャングルの中でトラと出会った瞬間を3Dやモーション・キャプチャー技術を駆使して写実的に描き出し、その3Dイメージの周囲をカメラが浮遊して長回しで捉えたものである。会場に設置された2枚のスクリーンの中でコールマンとトラは相互に変形し、人間とトラの境界が曖昧になる。しかし、ホーはこのコールマンという白人植民者とトラというマラヤにおける神話的な形象の対比を描き出したいわけではない。作品の後半ではインド系の従者たちを演じる8人の俳優たちがロイテマンの木版画を鑑賞する様子が描き出され、歴史の構築性が再帰的に言及される。

《一頭あるいは数頭のトラ》2017年、映像スチル

こうした「日本三部作」以前の作品群は、シンガポール、マレー半島、東南アジアという地域の複雑さを描き出している。東南アジアは言語も文化も宗教も多様な地域であり、にもかかわらずこの地域が東南アジアと統一的に呼ばれるのは戦後の冷戦構造下での政治的な事情によるものである。それに先立って、東南アジアが一つの政治勢力によって支配下に置かれた例外的な時期が、第二次世界大戦中の日本軍による占領である。したがって、シンガポールという町の起源の曖昧さや東南アジアにおいて曖昧なアイデンティティを抱えて活動してきた人々に関心を寄せてきたホーが、「日本三部作」を通して日本という問題に手を伸ばすのは必然的な展開であるといえよう。

《時間(タイム)のT》

一方で、最新の《時間(タイム)のT》(2023年)は具体的な土地や政治体制の問題を後景におしやり、時間の問題を主題としたものである。このちょうど60分の映像インスタレーションは、「タイムピース」と呼ばれる複数のアニメーションを組み合わせた映像作品である。短いものであれば数秒、長いものであれば数分の映像を、アルゴリズムに従って毎回異なるタイムピースを組み合わせ、ちょうど60分の上映時間となるようにプログラミングされている。これは構造的には会場の冒頭で展示されている《CDOSEA》(2017年~)と類似したものである。同作はホーが2012年から制作している《東南アジアの批評辞典(The Critical Dictionary of Southeast Asia)》を基にしたもので、東南アジアに関する用語とそれに関連するインターネット上の動画を見るたびごとにアルゴリズムに従って上映するという作品である。《時間(タイム)のT》の場合は、インスタレーションとしての工夫も凝らしてあり、前後におかれた2枚のスクリーンを同時に鑑賞するように配置されている。前側のスクリーンにアニメーションが、後側のスクリーンにはそのアニメーションの基となった実写映像が投影されている。

《時間(タイム)のT:タイムピース》2023年、映像スチル
Image courtesy of the artist and Kiang Malingue
《CDOSEA》2017年~、スクリーンキャプチャ
Image courtesy of the artist and Eduard Malingue Gallery

個々のタイムピースは、さまざまな形で時間に言及したものである。例えば、銅鑼、中国の太陰暦とグレゴリオ太陽暦を併記したシンガポールのカレンダーといった暦に関わるもの。老時計守が管理するシンガポールの時計台、懐中時計、映画のなかに描かれる時計塔、北宋時代の水時計といったさまざまな時計。ゴンザレス゠トレスの《パーフェクト・ラヴァーズ》と題する二つのアナログ時計が徐々に時間のズレを生じ始める現代美術作品を、デジタル的につくり直すことで、トレスの作品の完璧な恋人同士であってもズレが生じるという批評性を脱臼させた映像もある。共同製作者の家族の映像記録、小津安二郎の映画のなかでりんごの皮をナイフで剥くシーン、コーヒーの中に溶けていくミルク、小麦の生地をこねる動作といった、具体的な時間の持続もタイムピースのなかには存在する。振り子、光子や原子、放射線、太陽系の自転や赤方偏移といった時間に関わる自然科学的現象も取り上げられている。

もちろん、東アジアや東南アジアにおける歴史が捨象されているわけではない。《時間(タイム)のT》のなかではこれらの地域での政治的デモの様子がたびたび挿入される。しかし、これらのデモの具体的な文脈は明示されず、特に2枚のスクリーンの前側のアニメーション部分では人物の姿がアニメ的にデフォルメされており、現実の具体的な土地の歴史とは結びつけにくくなっている。したがって、ある特定の地域の歴史というよりは、時間の表れとしての歴史が主題化されているといえる。

このように、「ホー・ツーニェン エージェントのA」展は、アジア太平洋戦争期の日本と東南アジアの関係という狭いテーマにとどまらず、ホー自身の固有の問題関心に沿って彼の作品の展開を追うことができる展示となっている。ホーの作品群は、欧米を中心とする現代美術の世界にシンガポールあるいは東南アジアの土着性を持ち込むというような単純なものではなかった。最初期の作品である《ウタマ—歴史に現れたる名はすべて我なり》からして、白人入植者ラッフルズに対してパレンバンの王子サン・ニラ・ウタマを取り上げているように見えて、その実、この神話的命名者をシンガポールの起源として措定することの不可能性にも注意を向けている。ホーが歴史の再演(reenactment)というものに最初期から一貫して関心を示してきたことが、《時間(タイム)のT》に結実していることがよくわかる構成となっている。

アニメーションの利用

本サイトの読者の関心からすると、ホーがアニメーションを利用していることが注目に値するだろう。ホーがアニメーションを積極的に使い始めたのは「日本三部作」からで、《旅館アポリア》のなかで小津安二郎の映画をアニメーションで描きなおし、その顔をのっぺらぼうにするという形で利用されている。本展を見てみると、ホーのアニメーションの利用の仕方が多岐にわたり、そのさまざまな利用の仕方が「日本三部作」以前以後の作品群と共通点を持っていることがわかる。

例えば、《旅館アポリア》で使われた登場人物をのっぺらぼうに表現する手法は「日本三部作」に一貫してみられるものであるが、この手法をアイデンティティの不明瞭性の表現として見るならば、《ウタマ—歴史に現れたる名はすべて我なり》から商業映画のフッテージをリミックスした《名のない人》や《名前》にも共通するものである。このように考えると、《百鬼夜行》のなかでのアニメで表現される妖怪たちのモーフィング的な変形は、《一頭あるいは数頭のトラ》において人間とトラの相互変形に先取られているといえるし、より根源的には《ウタマ—歴史に現れたる名はすべて我なり》のなかで一人の役者がウタマだけでなく、他の歴史上の人物たちさえも演じていることと通底していると考えるべきであろう。だとすると、「日本三部作」や《時間(タイム)のT》ではアニメーションの使用が目立つが、ホーにとってはアニメーションがそれ自体として特権的に重要な手法というわけではないのだろう。あくまで、曖昧さや匿名性、変形といった主題に適したメディウムとしてアニメーションが選ばれている。

加えて、複数のスクリーンを積極的に利用するホーにとっては、アニメーションは現実を抽象化する手段として使っているようにも思われる。ホーが複数のスクリーンを効果的に使い始めたのは向き合った一対のスクリーンを利用した《一頭あるいは数頭のトラ》からだが、《旅館アポリア》では半透明のスクリーンを会場となった料亭の中に設置し、具体的な歴史の現場となっていた空間にスクリーンに投影されるアニメーションを使って別のリアリティを導入した。《時間(タイム)のT》では実写の後景に対してアニメの前景を配置するという構造を明確に打ち出すようになった。特に、東アジアや東南アジアのデモの実写映像に対して重ね合わされるアニメーションは、現実の世界では存在しないようなアニメ的な衣装のキャラクターが描かれ、《旅館アポリア》とは異なる形での、現実とフィクションの融合が図られている。

「ホー・ツーニェン エージェントのA」キービジュアル

information
ホー・ツーニェン エージェントのA
会期:2024年4月6日(土)~7月7日(日)10:00~18:00
会場:東京都現代美術館 企画展示室 B2F
入場料:一般1,500円、大学生・専門学校生・65歳以上1,100円、中高生600円
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/HoTzuNyen/

※URLは2024年8月2日にリンクを確認済み

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