五島 一浩
作家にとっての創作行為は、テクノロジーの発展によって変容していきます。AIの隆盛や上映・流通の細分化の影響を「デジタル・アニメーション」を軸に考え、創作の未来を示す本連載。第2回に採り上げるのは、アニメ中間素材の再利用と可能性。映像作家である筆者・五島一浩氏が、新潟大学アジア連携研究センター「アニメ・アーカイブ研究チーム」の協力により制作した《Peel-Apart TV Anime》は、80年代のセルアニメの絵コンテ、原画などの中間素材を使用した実験的なメディアインスタレーションプロジェクトです。その構造と成立プロセス、制作過程で得られたいくつかの知見を紹介します。
連載目次
新潟大学アジア連携研究センターの渡部コレクションには、80年代アニメ作品の多数の中間素材資料が収蔵されている。フィルム時代のアニメ制作現場において生じる中間素材――シナリオ、設定書、絵コンテ、原画、セル画など――は膨大な量であり、当時は作品の完成とともに自動的に破棄されることがほとんどであった。渡部コレクションには、アニメ監督・渡部英雄氏により、制作現場で本来は破棄されるはずであった中間素材から、特に興味深いものとして保管されていた資料が一任され、学術研究のため分類・収蔵されている。
渡部コレクションの成立とそれを事例とする研究調査事業の詳細に関しては、新潟大学アジア連携研究センターウェブサイト内の「「渡部コレクション」を事例とするアニメ中間素材利活用ルール策定に向けての調査と協議」をご覧いただきたい(本研究はJSPS科研費 20H01218の助成を受けたものです)。
2021年から2022年にかけて、アジア連携研究センター「アニメ・アーカイブ研究チーム」と連携し、この豊富な原画資料を使用したメディアアート作品《Peel-Apart TV Anime》を制作。完成した作品は2022年9月の「原画から見る1980年代TVアニメ」展、2023年3月の「新潟国際アニメーション映画祭」、8月の「2023年度日本アニメーション学会設立25周年記念大会 第25回大会 with SAS」において、改良を重ねながら展示、多くの方に見ていただくことができた。
今回は作品の制作者の視点であり、個人的な感想が多く含まれることをご了承願いたい。私、五島一浩は、1990年頃から映像作家として活動している。学生時代は8mmフィルムで主に短編ドラマ映画を制作していたが、映像メディアの変化に合わせて、3Dコンピュータグラフィック、やがてデジタル写真を多用した実験映像へと興味の対象が変わっていった。近年は、可能な限りコンピュータに頼らず、原始的な手法で映画・映像や視覚のメカニズムそのものを表現することを目標に活動している。結果として、フィルムやビデオといった映像メディアからはみ出した、メディアアートの範疇になるインスタレーションが増えることになった。
作品のいくつかは、本連載や私のウェブサイトで紹介しているので、ご興味のある方は参照していただきたいが、特に近年では、視覚あるいはその他の感覚をもたらす「現象」そのものを作品として提示したいと考えて、制作をしている。
80年代アニメの中間素材を使って、何か「作品」をつくる……。新潟大学アジア連携研究センターのアニメ・アーカイブ研究チームの石田美紀先生、キム・ジュニアン先生よりこの申し出をいただいたとき最初に考えたのは、このプロジェクトをどこまで自分の創作活動として捉えるのか、ということだった。自分自身の「作品」としてつくるのか、あるいは「制作業務」として、センターやアーカイブ事業のプロモーション/プレゼンテーション的なものをつくるべきだろうか(念のため、これは優劣の問題ではない)。
今回のように既存のアニメの素材を使うということは、その使用法がどうあれ、「二次創作」という創作ジャンルに位置付けられることになる。私自身は、創作活動としての二次創作を否定しない。私自身も幼年時代から紛れもない「アニメファン」であり、日本のアニメ作品群に対して強いシンパシーを感じ、それらに育てられたと思っている。二次創作の多くはリスペクトによって生じるものであるし、アニメ文化と二次創作の緊密な関係は重要なテーマであろう。
しかし近年の私の創作テーマが「可能な限りシンプルに『現象』を浮かび上がらせる」というものであり、そこに既存の創作物を利用することは、このときには難しいように思えた。また二次創作である以上、素材となるオリジナル作品に対する最大の敬意と尊重が求められる。個人制作の実験作品であれば、ファウンド・フッテージ作品としてグレーゾーンの境界に挑戦すること自体を作品テーマにすることも考えられるが、今回のプロジェクトは公共事業であり、素材の扱いには最大限の注意が必要になるだろう。そのなかでアート作品をつくるのか、あるいは「アニメの仕組み博物館の展示物」として価値のある学習効果を追求するのか。アーカイブ事業そのものをプロモーションすることをテーマとする方向性もある(そもそも、中間素材の所有権や著作権をどう考えればよいのか、という大問題がある。これに関しても、上記「「渡部コレクション」を事例とするアニメ中間素材利活用ルール策定に向けての調査と協議」に、本作品の成立経緯を含む詳細な考察と調査報告があるので、ぜひご覧いただきたい)。
どのような形のものをつくるかは重大問題であったが、それよりもアーカイブ資料の内容に興味を惹かれた。ともかくはアーカイブの資料を探索しながら、先生方とディスカッションを重ね可能性を探ることになった。
プロジェクトの始まった2021年の春、私はこのような映像作品を完成させた直後だった。
この作品は、違う場所/時間に撮影した数百カットの映像から一コマずつを抜き出して、「歩く」という意味だけが連続している動画をつくろうという試みだった。「行為」あるいは「運動」以外が連続していない一連の静止画像から何らかの意味が浮かび上がってくるとすれば、「映画」あるいは「動画」の本質に近づくことができるのではないか、と考えたのだ。
さて、渡部コレクションの素材を使用したプロジェクトを「作品」とするか、「プロモーション映像」としてつくるかはともかく……、膨大なアニメの中間素材がある、という情報からまず思いついたのは、この手法を既存のアニメに応用することだった。具体的には、さまざまなアニメ作品から一コマずつを抜き出して、違うキャラクターと違うシーンから一つの連続する運動を構築できるかもしれない、というものだ。これはかなり過激な手法で、オリジナル素材を破壊する行為になる可能性も大きいと思ったが、もし上手くいけば『walker(s) on the crossroad』よりも純度の高い実験になる可能性もある。しかし、この段階ではまだ一つのアイデアである。実際に試作してみなければ、オリジナルのあり方にどのような影響をもたらすかわからないが、ひょっとすると、多数の異なるアニメのコマの連続から何か匿名性のようなものが生まれ、特定の作品をイメージさせないでいて「アニメ文化」そのものが浮かび上がるかもしれない。そんなことを考えながら、アーカイブ資料を端から閲覧した。
膨大な資料をどう整理すれば有効に活用できるか、その方法の模索もまた、センターの重要な研究テーマである。資料の多くはデジタル化、データベース化され、さまざまな研究に活用できるよう整理、タグ付けが進行中であった。プロジェクトの進行中にもデータベースの改良は続けられ、快適に閲覧することができた。
さて、アーカイブに保管されている資料は、渡部氏が制作に関わった多くの作品から、氏が特に興味深いと思われ、保管していたものだ。言うまでもなく、フィルム/セルアニメ時代の制作過程で生み出される中間素材は、現代のデジタルアニメのような電子データではなく、莫大な量の紙やセルであって、すべてを保存しておくのは難しい。氏によって破棄を免れた資料は大変な量である。しかし、仮に一本の作品であっても、それに関するあらゆる素材を保存することは困難である(例えば30分番組一本の原画、動画、あるいはセル画がまるごと残っていれば、段ボール箱十数個になってしまう。だから破棄されていたのだ)。一カット分の連続した原画が残されていることもごく稀であり、「多くの作品から一コマずつ持ってくる」作戦はまず不可能であることが早々に判明した。
しかし、アーカイブ資料を閲覧し説明を受けるにつれ、収蔵されている膨大な資料と、対する私自身の関係が何となく見えてきた。アニメの個々の素材から「動き」もしくは「世界」が成立する過程と構造を俯瞰するような視点を持てれば、このプロジェクトが「アニメ」を解説するものでありつつ、同時に私自身の創作テーマに乗った「作品」とできる可能性があるのではないか。
そんなことを考えながらアーカイブを探索していると、一作品だけ、飛び抜けて大量の原画が保管されている作品を見つけた。『夢戦士ウイングマン』(1984~1985年)1 の第12話のものだ。
シナリオと絵コンテも保管されているので比較してみると、バンク(各話で共用される部分。変身シーン、必殺技などが多い)を除くほとんどの原画2が残っているようだ。
また、CM前後のアイキャッチの原画も、ほぼ全数保存されている。これだけの素材があれば、完成アニメと同等の情報量を伴って、中間素材を再構築できる可能性がある。
ここまで来たら、とりあえず実践である。まず実験したのは、アイキャッチの原画と完成アニメを一コマずつ切り替えて、原画の線画と完成アニメが同時に(チカチカしながら)見える映像の試作だった。これは大変おもしろく、これだけで鑑賞できる作品として成立しそうにも思えた。
しかし、一コマごとにかなりの輝度差があるフリッカー的な映像であり、一般公開は危険である。また完成アニメのアイキャッチは作品中でも特別扱いであり、ほとんどすべてのコマを原画マンが描いていて、それが残存している。しかし、本編中の「普通のカット」では、原画は動きの要となる重要なポイントだけであり、それを補完する「中割」の動画(あるいはセル画)は残されていない。原画と完成アニメを一つのムービー内に共存させて比較するには、空白ができてしまい、それぞれの量にアンバランスが生じ、連続したイメージをつくることが難しそうだ。
それならば、ということで次に思いついたのは、2台のプロジェクターで原画と完成アニメを同時に投影する方式だ。原画と完成アニメを横に並べるだけでも、それぞれの差が見えておもしろい。それならばいっそ、重ねて投影して、アニメの「原画を描く様子」をシミュレートしてみたらどうだろうか。
原画マンの作業机を模したテーブルの中央、一見、白紙の原画用紙が置かれているように見えるが、実際はテーブル天板に原画サイズの穴がくり抜かれていて、磨りガラスがはまっている。テーブルの下から磨りガラスに原画が投影され、同時に上からは完成アニメを投影する。通常は上からの完成アニメのほうが明るいので原画はあまり見えないが、鑑賞者が自分の手をかざして上からの投影を遮ると、影になった部分だけにくっきりと原画が見える。アニメの下に原画が隠れている……、という展示方法だ。
これはおもしろそうだ。原画と完成アニメを同時に鑑賞できるだけでなく、シンプルな仕組みで鑑賞者のインタラクションに応えることができる。アニメの制作プロセス自体を、そのまま展示していると考えることもできる。欠点としては、スクリーン=磨りガラスは、実際の原画のサイズであるべきなのだが、原画に合わせるとサイズが小さく、複数人での鑑賞がしづらいことが予想される。「手をかざす」インタラクションも、自然に気づいてもらうのが難しそうだ。
しかし、原画と完成アニメの同時投影のバリエーションを探っていけば、それ自体がコンセプトを体現する作品形態を見つけられそうな確信は深まってきた。
「同時投影」手法の探求と並行して、ほかにもさまざまなアイデアを考察した。
・原画のキャラクターを切り抜いて積層する金太郎飴的な「時間彫刻」
・原画のコピーを並べ、鑑賞者が歩くとアニメが動く「実物大ゾートロープ」
・マルチプレーンのブック素材を大きく引き伸ばし、鑑賞者が間に入って楽しめる「撮影セット」
・メタバース内に、ある作品すべての中間素材をリニアに展示する「ハイパー博物館」
これら以外にも、単純なインスタレーションからAR、VRに至るまで、多くのアイデアが発想された。どれも基本的には、オリジナル素材を使用しつつ、しかし直接そこに別の意味を付加せず、一歩引いて構造を俯瞰することでアニメの成立を感じられる、というものだったと思う。多くは実現しなかったが、アニメ中間素材を生かす有望なアイデアをいくつも発見することができたのではないかと考えている。
そのなかで、最初に思いついた「原画と完成アニメを同時に鑑賞する」ことをメインコンセプトとして、最終的な作品プランが完成した。
《Peel-Apart TV Anime》3は、アニメの原画と完成フィルム(以下、完成アニメ)を透過的に重ね、同時に鑑賞することで、アニメの制作過程のパースペクティブを再構築して提示しようという企みである。
複数台のディスプレイを統合した上映システムと、そこで再生されるアニメ中間素材を再構成した映像コンテンツのセットで、インスタレーションを構成する。まずは、2022年夏に新潟大学旭町学術資料展示館にて行われた「原画から見る1980年代TVアニメ」展における展示記録をご覧いただきたい。本作の初披露である。
https://www.arc.niigata-u.ac.jp/anime-materials/3775/
映像は上記ページ内の「同展示の記録映像はこちらから閲覧できます。」リンクより。
上映システムは、ビデオプロジェクターと透過スクリーンのペアを2セットと、液晶モニター2台、そこに映像を送出するPC(Mac miniを使用)で構成される。
使用しているデバイスは、透過スクリーンを除けばどれもごく普通のものである。その透過スクリーンも、農業用シートを利用した安価なものであるが、透明な面に驚くほど鮮明な映像を表示することができる(透過スクリーンの製作には、この分野で著名な「ポリッドスクリーン」のサイトも参考にさせていただいた)。
透過スクリーンにはそれぞれ、アニメの原画と、完成したアニメ本編(完成アニメ)が投影される。スクリーンは透明なので、ある方向から見れば「原画を透かして完成アニメ」を観察でき、逆側からは「完成アニメを透かして原画」を観察することができる。スクリーンのあいだには数十cmの間隔があるので、どちらかを至近距離から選択的に観察することもできるし、少し離れて両方を同時に観察することもできる。上記の記録映像では、映像が混じり合って知覚されてしまうようにも思えるが、実際の展示空間では二つのスクリーン間の距離が認識されるため、特に意識しなくとも原画と完成アニメのどちら一方に注目、鑑賞することができる。
「完成アニメ」は、『夢戦士ウイングマン』12話本編からいくつかのパート、合計約4分30秒を引用し、ほぼ無加工で使用させていただいた。「原画」は、元は白い紙に描かれた鉛筆画、つまり黒いラインである。透明スクリーンには「黒」は映らず、光(=投影像の白い部分)のみが表示されるので、本作では原画をネガポジ反転して白い線画に加工している。また「原画」は最終的なアニメーションのコマの「キー・フレーム」であって、キャラクターの動作の肝となる瞬間しか描かれていない。ご存知のようにアニメの制作工程では「原画」を基に清書し、そのあいだを埋める「動画」が描かれる。それがさらにトレース、彩色の工程を経て「セル画」になるわけだが、今回使用している作品の動画、セル画はアーカイブには収蔵されていない(散逸している)ので、本作では原画のみ4を素材として使用している。一連の原画を完成アニメの時間軸に沿って並べると、フィルムのコマ数の数分の一程度の枚数しかないので、多くのショットで飛び飛びになってしまう。しかし、同時に完成アニメを鑑賞することで、原画と原画のあいだに想定されていた動きは自然に想像することができ、違和感なく見ることができる。
さらに、2台の液晶モニターには、完成アニメに対応する絵コンテを同期して表示する。2台の液晶モニターはどちらも同内容の絵コンテが表示されている(1台でも構わないが、鑑賞者が移動しながら見やすいよう、2枚の透明スクリーンと直行する形で2台配置している)。これは付帯的なものだが、絵コンテと原画、完成アニメを比較することで、2枚の透過スクリーン間にとどまらない、原画に至る「以前」、あるいは完成アニメが鑑賞された「以後」も想像させる呼び水としての効果も期待している。
アニメの構造として「原画」はいわば骨格のようなものだから、完成アニメを透かして原画を見る行為は、レントゲン的に「過去を透視」することだ。またその逆に原画を透かして完成アニメを見ることは、建築図面や骨組みを通して未来の完成した建築物を眺める行為とも言えるだろう。
ある程度アニメ/アニメーション、あるいは映像メディアに興味を持つ人なら、フィルム時代であれ近年のデジタル化された環境であれ、アニメーターが線画を描き、誰かがそれに色を塗り……。多くの熟練者によるさまざまな工程を経て、テレビなどで公開される「アニメ」がつくられていることは知っている。本作の鑑賞は、そのプロセスの存在を非常にざっくりとではあるが、物理的な距離として表現することにある程度成功していると思う。1枚目のスクリーンの原画から情報が発信され、受け取った誰かの意思がそれを解釈し何らかの行為を行う……。この場合は、中割の「動画」を描き、誰かが彩色し、撮影し、その結果として、2枚目のスクリーンの「アニメ」が出来上がる。通常は「原画そのものが動く」映像を見ることはないし、完成アニメと同時に見ることも少ない。アニメの制作プロセスを詳細に知っている人や、スタッフとして参加した経験を持つ人にとっても、新鮮な感触ではないかと思う。
この感覚は制作した私たちにとっても予想外で、大変に興味深いものであった。もとより映画、映像は、二次元の視覚情報が時間軸に沿って変化するさまを味わう、三次元のメディアであると言える。本作ではここに、二つのスクリーンの間に圧縮された見えない情報として、「創作プロセスの次元」を想像させるギミックを追加できたのではないか。映画におけるモンタージュのように、単に「風景を見る」という疑似体験の先にある「疑似記憶」的な感触をもたらしているのではないかと思う。
結果として、鑑賞者に単にアニメの仕組みを解説する展示資料としてだけでなく、アニメ作品が発想され、制作され、放映され、鑑賞されるという「多くのクリエイターや観客のあいだのメッセージの伝播」を想像させ得るメディアインスタレーションを、あるバランスで両立できたのではないかと考えている。
インスタレーションの制作過程においては、さまざまな発見があった。
これは実際に投影に使用した映像の一部である。左が原画、右が完成アニメであるが、原画の周辺部分は完成アニメではかなりカットされているのがわかるだろう(原画の上の青い矩形は、完成アニメのフレームに合わせて私が追加したもの)。描かれている原画にもよるが、基本的には原画用紙の面積の4割から5割は、視聴者には伝わらない6。
知っていたはずの知識だが、改めて実感すると衝撃的である。フィルム時代のセルアニメは、「セル」(と背景画)という「現実」をカメラで撮影する「実写映画」であるとも言える。アニメも、カメラアイで切り取られた外側にも、世界が広がっているのだという気がしてくる。この「原画のカットされた部分」には大変興味深い情報が含まれているので、これを提示するため、スクリーンに投影する映像は一周ごとにズームインした「完成アニメのフレーム」と、ズームアウトした「原画のフルサイズ」を繰り返すように構成している7。
また、本作品の投影用の「原画の映像」を再構築するには、完成アニメに合わせてビデオ編集アプリ上で原画を一コマずつ並べていく作業をするのだが、その際に完成アニメと絵コンテを比較すると、そこにかなりの差異が見られることがあった。これは、原画の作画時や、セル画が撮影された後のフィルムの編集過程で、カットしたり順番を入れ替えたり、さまざまな調整がされているためだ。設計図である絵コンテが、そのまま完成アニメになるわけではないというのは、建築家はスケッチや図面を描くが、施工や内装をするのは別の専門家である、という構図に比較できるかもしれない。
ほかにも、フィルムの編集過程で、カットとカットをスムーズかつスピーディーにつなぐために、一部のアクションシーンで「カットの最初のコマ」が切り捨てられている場合があることを発見した。原画マンが描いた「カットの最初の絵」は、おそらくそのカットで一番丁寧に描かれているのではないかと思われるのに、それはトレースした形ですら完成アニメには現れないことがあるのだ。
これらはいずれも、制作現場の方たちには自明のことだろう。しかし、制作スタジオの外にいる私たちにとっては、今回のような中間素材を再構築する作業をしなければ、見落としてしまいがちな事象であり、それを実感できたことは大変興味深い経験であった。中間素材の調査、制作工程の詳細なシミュレーションをすることで、今までフォーカスされていないが語るべきポイントは、まだまだ隠れているのではないかと思う。
プロジェクトの開始時は、どのような成果物が得られるかわからない状態でのスタートだった。長い期間、共に模索を続けていただいた石田美紀先生、キム・ジュニアン先生、そして展示にご協力いただいた多くの方々に改めてお礼申し上げたい。渡部コレクションを探索し、そのプレゼンテーション方法を考えること、アニメの制作工程を再確認することを大いに楽しませていただいた。そしてもちろん、こうした創作活動をご理解いただき、貴重な資料の使用を許可してくださった原作者の桂正和先生、集英社様、東映アニメーション様に最大限の感謝を捧げたいと思う。
今回の私の制作テーマは、情報のやりとりを俯瞰し可視化するというメディアアート的なものと言える。最初は、二次創作であることと自分のテーマの両立に不安も感じたが、アーカイブの探索によって感じられたアニメ制作の歴史とそこに蓄積された情報量は想像を超える巨大なものであり、まるで自然現象に対するような素直な気持ちで向き合うことができた。むしろ、私の創作活動は自然現象を題材とした二次創作なのかもしれない。
今後、さらに多様な創作アプローチを持つ多くの作家たちがアーカイブ資料に接することで、また違った視点の作品が生まれ、アニメに隠された豊かな情報を驚きとともに味わえることを楽しみにしている。
脚注
※URLは2024年3月15日にリンクを確認済み