畠中 実
現代美術の一大ジャンルで、メディア芸術の一つである「メディアアート」について考えていく本連載。第1回ではメディアアートの成り立ちをたどり、第2回ではコロナ禍で試行錯誤されたアート作品のオンライン展示と新たな展示形態について示しました。今回は、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]にて過去に開催された展覧会を振り返り、実空間とオンラインの展示、またその二つの関わりを考察していきます。
連載目次
新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大から3年が経過し、2023年4月現在、第8波までを数え、一方では、マスク着用の判断基準が緩和されるなど、その対応にも変化が起きています。そのような状況のなか、美術館、博物館での展覧会は、感染防止に配慮しながらも、入場制限を緩和し、コロナ禍以前のような運営を再開する動きが主流になりました。2020年当時、いくつかの美術館では展覧会のオンライン化などの素早い対応が見られましたが、その一方で、従来どおりの鑑賞体験を損なわないようにするための方法を模索する動きもありました。当時は、今後は実空間での展覧会とともに、いつ中断を余儀なくされるかもしれない事態に備え、バックアップとしてのドキュメンテーションと、それに基づくオンラインでの展覧会公開が必須とされるだろうという話も出ていたくらい切迫した状況があったことを覚えています。それだけ前例のない事態に直面し、みな対策を検討しなければならなかったのです。現在では、そうした切迫感は収まってはいるものの、いまだ事態の完全な収束には至っていない状況では、依然として美術館とオンラインでの公開という、二つの方向性のどちらもが、万が一のために必要とされている状況であると思います。
筆者が所属するNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]でも、この3年間、「多層世界」をキーワードに、実空間での展覧会を、入場制限を行って実施しながら、オンラインからの体験と双方で展開される展覧会を企画、実施するなど、ヴァーチュアル・ミュージアム、オンライン・エキシビションの可能性を試行してきました1。そのなかで、「電子情報時代の科学技術と芸術文化のインターフェイスとなるべきソフトウェア重視のネットワーク型ミュージアム」2を標榜した、発足当初のICCにおける「見えないミュージアム」というコンセプトを引き継ぎながら、どのように現在の状況のなかで、時代の要請というだけではない、これからのミュージアムのあり方を提案、実践できるのか、という問題を考えてきました。後編は、1991年の「電話網の中の見えないミュージアム」から、1995年の「on the Web――ネットワークの中のミュージアム」をへて、ICCの開館にいたる「見えないミュージアム」というコンセプトの変遷をたどります。
情報通信技術を活用した、仮想空間で展開される、ネットワークのなかのミュージアムという構想を、電話回線を使って実現した、1991年の「電話網の中の見えないミュージアム」は、コロナ禍をへた現在から見るなら、ヴァーチュアル・ミュージアム、オンライン・エキシビションの台頭に先立つ、先駆的かつ実験的な試みと見えるでしょう。当時の企画者が、その数年後に到来するインターネット時代を知っていたのかどうか、定かではありません。しかし、1991年というインターネットが商用化される以前の、情報通信メディアの過渡期ともいえる時期に行われたこの催しは、今にして思えば、来るべきインターネット時代を予告するかのような企画内容を持っていたとも言えます。
電話網という通信ネットワーク内で展開される、ヴァーチュアルなイヴェントを、「ミュージアム」や「展覧会」といった現実空間で展開される施設や催事のメタファーとして捉えることは、いささかの飛躍があるようにも思えます。当時は、現在のようなインターネットが日常的なインフラとなり、ヴァーチュアル展覧会の可能性が議論される時代とはことなる状況であったことを思えば、単純に比較することがむずかしい部分もあることは否めません。実際、この「電話網の中の見えないミュージアム」での主なコンテンツとなっている、アーティストや哲学者、批評家といった、有識者による声を聞くことができるレクチャーなどは、現在では、さまざまなウェブ上のアーカイヴでも同様のことが、しかも動画で可能になっています。それは、電話という日常的には遠隔地との会話のために使用される通信メディアから、一方向ではあるにせよ、そうした音声が聞こえてくることで、メディアの異化作用が生じ、それゆえの体験のおもしろさがあったと言えるかもしれません。現在のスマートフォンの時代から見れば、主に電話というメディアを使用するということが、過去のメディアを使用した未来的な試みという印象を与えます。それは、どこかスチーム・パンク的な、レトロ・フューチャー的な趣を持つものにも感じられるでしょう。その翌年の1992年には、日本でもインターネットサービスプロバイダが創業し、インターネットの商用化が促進されるようになり、いよいよインターネット時代の幕開け、といった状況がやってきます。「電話網の中の見えないミュージアム」は、数年後にはインターネットに取って代わられる、電話という通信メディアを使用しながら、この「見えないミュージアム」というコンセプトによって、確実に、来るべき時代を捉えていたのです。
当時は、記録も十分になされておらず、企画自体も(センターとしてのICCの設立も予定されていたとはいえ)一過性のイヴェントとして捉えられていたところもあり、すぐにその実態は知る人ぞ知る伝説のイヴェントといった類のものとなっていきました。後年になって、当時の参加者や体験者がこの企画に言及することで、また、その錚々たる参加者の豪華さによって、それを実際に体験していない世代からの関心を集めながらも、企画自体の実態は公に残された記録がほぼないため、その伝説度はさらに高まっていきました。当時、実際に観客として体験した私にとっても、それは目指すべき挑戦的な試みの事例となっていました。なにしろファックスで指定された番号をプッシュすると、ウィリアム・バロウズのドローイングが送られてくるという、それだけで何か新しいことの始まりのように心が躍ったものでした(私もまだ23歳でしたし)。
そして、インターネット元年とも称される1995年に、「電話網の中の見えないミュージアム」を、インターネットを中心とするコンピュータ通信の世界にヴァージョン・アップしたのが、「インターコミュニケーション’95 on the Web――ネットワークの中のミュージアム」3でした。インターネットが商用化され、インターネット接続機能を標準搭載したOSであるMicrosoft Windows 95が販売され、インターネットが急速に一般に広まった1995年に、この企画が実施されたのは象徴的な出来事だったと言えるでしょう。また、こうした時期に、その後の社会を大きく変えることになる通信技術を最大限活用した催しを、通信事業会社が文化事業として継続的に、多角的に展開していくことを視野に入れていたことも含め4、それは、意欲的かつ先見性のある企画でもありました。
それまでは電話網を使ったモデルとして提示された「見えないミュージアム」というコンセプトがインターネットの登場により、より現実のものとなりました。電話回線とコンピュータ・ネットワークのつくり出すサイバー・スペースは、物理空間の制約にとらわれない、新しい創造の場としての可能性を示唆するものとして注目され、インターネット上のブラウザ・アプリケーションを使用した、インターネット・オリエンテッドなアートの可能性が、国内外の多くのアーティストによって模索されたのです。さらには、世界を対象にしたグローバルなネットワークを介して、当時のマルチメディア環境における新しい表現の可能性の模索と、未来のミュージアム像が目指されることになりました。それは、従来の「もの」の展示を主体とした近代的な美術館モデルに替わる、情報を主体にしたネットワークのなかの美術館という構想を実現しようとしたものでした。そこで展開された作品も、当時は従来的な意味での美術作品とはとらえられないようなプレゼンテーションと見えたことでしょう。また、インターネットという仕組みに着目した作品が多いのも、新しいメディアに触発された表現の特徴と言えます。インゴ・ギュンター《REFUGEE PUBLIC》、江渡浩一郎《リアル・パノプティコン》、砂原良徳+矢坂健司《DOT COM》、ダムタイプ《S/N Internet Version》、八谷和彦《メガ日記》、原田大三郎+坂本龍一《NET PLANET》、Bulbous Plants (岡﨑乾二郎+津田佳紀)《アトピック・サイト・ジェネレーティッド》、藤幡ラボ《メタ・モニュメント[富士山/月]》、三上晴子《DDSmol》など、ウェブ・ブラウザで展開されたこれらの作品は、現在ではそのほとんどが見ることができませんが、企画に付随した書籍『ネットワークの中のミュージアム』(NTT出版、1996年)も刊行され、ドキュメントとして残されています。また、実会場でも、当時南麻布にあったNTT/ICCギャラリーと青山のスパイラルの二地点をISDN(デジタル通信回線)でつないだ、ポール・サーマンによるテレマティック・パフォーマンスも開催され、離れた場所の体験者がリアルタイムに出会う、同時代の通信技術によって実現したネットワーク作品も展示されました。
もう一つ時代的な状況としては、当時は、まだメディアが普及しきっていない状況でのプレゼンテーションであるため、観客はかならずしも自宅からインターネットにアクセスしていたわけではありませんでした。インターネット元年と言っても、その普及率は現在のそれには到底およびません。それゆえ、同展覧会にアクセスするためのコンピュータ端末が設置されたサテライト会場が用意され、個人でインターネットにアクセスできる環境がない人たちは、そこに赴いて体験をすることになりました。それは、多くの人がスマートフォンのような自分自身の携帯端末を持ち歩いている現在から見れば、やや奇異なことに感じるかもしれません。
そして、1997年にICCは、磯崎新の企画による展覧会、「『海市』――もうひとつのユートピア」5によってオープンします。マカオ沖、南シナ海の浅瀬に計画された人工島をモチーフに、観客がインターネットを介して都市計画に参加したり、建築家やアーティスト、研究者などがゲストとして参加したり、都市のモデルをつねに更新していく、中心になる建築家のいない、変化していく制作のプロセスが提示される展覧会が繰り広げられました。完成された作品を展示する従来のような展覧会ではなく、結果の予測できない、完成のない展覧会だったと言えるでしょう。ICCでは、1997年当時にも、コレクション作品として遺伝的アルゴリズムを用いたカール・シムズのジェネラティヴなシステムの先駆的な作品《ガラパゴス》を展示していました。作品が完成され、固定化されたものではなく、インタラクティヴに生成変化するというアイデアは、現在に至るまでアップデートされ、メディアアートにおける中心的なコンセプトであり続けています。それと同じように、会場とオンラインからの操作によって、その状態を変化させ続ける都市を、展覧会のなかで出来事(時には事件)として提示していくという方法は、インターネット環境以後の展覧会の方法として、当時はまだ未消化な部分もあったにせよ、非常に予見的なものだったように思います。また、ここにも、現実空間での展覧会とインターネットからの参加がハイブリッドになった展覧会のアイデアの萌芽がみとめられます。
こうした「見えないミュージアム」を起点とした、リアルとヴァーチュアルが併存する展覧会のあり方は、これまで技術的、社会的な要請として現れてきました。その一方で、2010年以降の動向には、ある意味では非常時における緊急の要請という側面がありました。次回以降は、そこで、そのつど「見えないミュージアム」の実践が、どのようにアップデートされてきたのかに着目してみたいと思います。
脚注
※URLは2023年4月26日にリンクを確認済み