MACCビジュアルプロジェクトとは、メディア芸術連携基盤等整備推進事業の一貫で実施しているプロジェクトです。今回はメディア芸術のアーカイブを題材に、その専門領域に止まらないジャンルのコラボレーターとともに別の芸術表現に変化させることを試みました。
コラボレートをしたのは、アーティスト・雪下まゆさんと米澤柊さん。2人は実際にアーカイブ施設を訪問。MACCクリエイティブディレクター小田雄太ディレクションのもと、場所から受けたインスピレーションを「メディアの記憶・記録」をテーマにした作品にしました。訪問したのは、国内有数の「マンガ」のアーカイブ施設のひとつである石ノ森萬画館(宮城県石巻市)です。
本記事では、デジタルアニメーションにおける残像表現技法「オバケ」に注目するなど新たな表現方法を見出し、アニメーションのキャラクターや現実空間の生き物の身体性や感情、生きること、生かすことを主題に据え、絵や空間、アート作品などで表現することにを試みるアーティスト・米澤柊さんに、今回の作品を制作した背景や、メディア、アーカイブの概念について話を伺いました。
米澤 柊(よねざわ・しゅう)
東京生まれ。アーティスト、アニメーター。現在のデジタルアニメーションにおけるキャラクターの身体性と、現実空間の生き物が持っている心の身体性と感情について、またそれらアニメーションが生きるための空間の空気を制作している。
主な作品/個展に「ハッピーバース」(PARCO museum tokyo , 2023)、「うまれたての友達」(BLOCK HOUSE, 2023)、「名無しの肢体」(Tokyo arts and space本郷[OPEN SITE7], 2022)「絶滅のアニマ」(小高製本工業跡地[惑星ザムザ], 2022)、「劇場版:オバケのB′」(NTT ICC, 2022)。また音楽イベント「自然の中で起きている美しい現象すべて」を企画。
PRD/CD/AD: Yuta ODA(COMPOUNDinc.)
取材協力:石ノ森萬画館
——今回の作品が生まれた経緯や背景を教えてください。
米澤 普段から、何かいそうな場所や何かいるなと感じる場所を写真に撮り、そこに絵を描きアニメーションにする表現活動をしています。拠点のある東京以外にも足を運んだ場所の写真を撮り溜めて、作品を制作してきました。石巻には、石巻が舞台の芸術祭「Reborn-Art Festival」を見に来たことがありますが、自由に動ける状態で訪問したのは今回が初めてです。町をめぐりながら印象に残った景色や気になった場所などをiPhoneで撮影しました。
撮影した写真や映像に感じている面白さは、そこでしかない景色があることや、そこでしかないはずなのにこれまでに自分が目にした別の景色を思い出すことです。写真の記録と自分の記憶が重なるように、撮影した写真や映像がデジタル上で重なり合うとき、どのような「オバケ」が現れるのか、濃く、あるいは強く光る「記憶の骨」として浮かび上がるのだろうと思い、今回はその問いをGIFアニメーションで形にしてみようと考えました。
石巻に移動している最中は、石ノ森萬画館がマンガ漫画のアーカイブ施設であることもあり漫画マンガを制作するのもいいかなと考えていましたが、帰り際にはアニメーション形式の作品にしようと思っていました。時間の重なりやそれらが加算・発光するさまを表現するならば、平面上に静止する表現より、絵やアニメが現象として立ち上がるように見えた方がいいなと考えたからです。
アニメーションの背景は、実際に石巻の水や太陽など空気感のあるテクスチャーの映像や、私が過去に見た景色の映像、見ても石巻とはわからないけれどその場所を切り取った映像を薄く重ねています。
「おはよう」と「おやすみ」をモチーフにしようと思ったのは、夕日と朝日のような感覚から。時間が目まぐるしく回転していく時計のようなものを抽象的に表現しようと思い、人の形や人の形ではないものが、毎フレームごとに異なる画像として現れ、繰り返していく作りにしました。この作品には、石巻で1日目に見た夕日や2日目に見た朝と昼の太陽が印象的だったこと、町を歩き回り、いろいろな人と話をして、「はじめまして」がたくさんあったことがつながっていると思います。
——今回の作品は、全体のテーマ「メディアの記憶・記録」から発展していったと思うのですが、米澤さんの作品からは、いわゆる保存のためのデータ総称を指す「メディア」ではなく、有機的な感情の結びつきや残留思念のようなものも「メディア」と捉えられているように感じます。米澤さん自身は、メディアをどのように捉えていますか。
米澤 人と人のあいだをつなぐものもメディアと捉えています。水面下でつながる意識なども。例えばみんなが足元だけ水に浸りつながっていたとして、そこからどのような形を生み出すのか、そこに何を見出すのかは人それぞれです。一方で、そこで見えた形が何人かとは被り、共通言語が生まれていくこともあります。
今回の作品作りにも通じますが、客観的な何かをオバケとしてかたち取る時に、その身体における骨みたいなものは何だろうと考えていて。それはおそらく、共通意識の濃い部分や解剖学的な身体ではない身体の意識が詰まることで、骨や一番光る部分ができるのではと。このように感情や意識、記憶、個人の欲、相手からの見え方などもメディアと捉え、制作につなげていると思います。
——米澤さんの作品は、アニメーションのコマとコマのあいだにある「中割り」のように見えて、さらにその中割りが連続して出てくることにより、端と端にあるものが明確には示されず、曖昧性を帯びていくような不思議さを感じます。米澤さんが現在の表現手法を使うようになった理由や経緯、意識の変遷は?
米澤 アニメーションにおいて一連の動きを表現するために重要なポーズとなるコマである「キーフレーム」がない描き方は、2022年にミュージックビデオ《Nitekcore-Heartbeat》を制作したときに初めて意識的になりました。始めにキーフレーム付きでアニメーションを描き、後からキーフレームを抜く方法で制作してみたんです。
またアニメーションの残像表現技法「オバケ」について考え始めた頃、オバケとは一体何かを調べたり見たりして、面白いなと思ったことも今の表現に影響していると思います。
そもそもアニメーションとして生きているのに、もしくは生き生きさせるために、「オバケ」という名称のものが挟まっていることが興味深いですよね。
また、オバケはアニメーターが本来持っている身体感覚とは異なる感覚をデジタルの線で囲むことによって形が生まれます。この点も面白いです。例えば、ボールを投げる動作を描くとき、そこにはアニメーター自身の身体感覚や感情移入が投影されますが、投げる動きの途中でオバケが発生する時、アニメーター自身の身体感覚は自身の見た目である肉体から変形します。
そしてオバケの発生は、次の時間が予測できない不確かさと、次の時間が存在する希望を同時に示します。これはオバケをスクリーンショットして展示する《オバケの》という作品を制作をしていた時に気がついたのですが、オバケという残像があることで次のフレームが待っていることに確信が得られるのです。
オバケについて考えてきたことと並行し、アニメーションにおける自由な形状変化である原形質性や、何にでもなれるメタモルフォーゼするアニメーションについても考えていました。原形質性を持ちながら、生物学的な身体とは異なる身体や感情を生かすにはどうすればいいのか、デジタル上に残すにはどうしたらいいのかを考えるなかで、今の表現につながってきたように思います。
——現行のアニメーションも好きでマンガ漫画も読まれるそうですが、それらとご自身の表現の違いはどこにあると思いますか?
米澤 全く異なるものではないと思いますが、質を取り出して育てるようなイメージを持っていますね。オバケの作品を作るにあたって、まずオバケの生態を知りたかったので色々なアニメを見て、スクリーンショットを撮って集めていました。興味を持った頃は『らき⭐︎すた』や『ポケモン』など、デジタルのリミテッドアニメーションのオバケを主に探していました。
また、実在する人間とアニメのキャラクターの違いは、身体が現実空間に肉として存在するか、デジタル上の線として描かれているかだけなのではと思っています。身体を取り払ったときに残るのは、アニメの語源でもあるアニマ(魂)だと思います。私は、イメージや物語の世界でアニマを表現するというよりも、現実世界の延長線上にアニマを存在させたいと考えています。その点は違いと言えるかもしれません。
——これらの表現の先に米澤さんはどのようなメッセージを伝えていきたいと考えていますか?
米澤 メッセージは展示の機会ごとに変わっていくと思いますが、毎回言えることは、作品を見て、気持ちや思っていることを感じられる、目には見えないけれど確かにあるものをちゃんと生かしていこうと思える、そういうものが作れたらと思っています。
——気持ちや感情など生きている証を記すように表現をしていらっしゃるように感じました。生かすという視点から捉えると、アーカイブや記録は生きていると思いますか、死んでいると思いますか?
米澤 生きていると思います。生きた化石のようなイメージがあります。奥深くにしまってあっても、フリーズドライになっている。見るために引っ張り出されると、じゅわ〜と解凍されて、過去の感動を今また読むことができるような。これまでの軌跡がなかったら今の文化に至らなかったと思うと、私たち自身もその延長線上で生きているように思います。
——石巻に足を運んだことで感じたことを教えてください。
米澤 石巻の街の電気屋さんにレコードを聞くための設備が整っているお店があり、その店長さんがレコード会を開いてくれて。近所の方々が集合し、お酒を飲みながらレコードを聞いて過ごしました。お店の棚に詰まっているレコードは、震災後にレコードは捨てられないからあなたに持っていてほしいと集まってきたものとおっしゃっていました。各々が好きだった音楽や音を流していた記憶、思い出が、ぎゅっと凝縮してその場に集まっているのはとてもいいことだなと思いました。今回の作品の記憶の重なり合いのイメージにもつながっていると思います。
そのレコード会で椎名林檎さんのレコード「無罪モラトリアム」に収録されている「同じ夜」 という曲を聞きました。その音楽をみんなで聞いたときに流れていた空気がとても良かったんです。水に浸ったまま寝そべっているように音楽というメディアを通して何かをみんなで共有していたような。その時間をずっと覚えていたいなと思っています。
——米澤さんご自身の身体感覚は作品に反映されているのでしょうか。
米澤 作品に生きていますね。自分の心はうまく人型にならないなと思う時があります。すごく怒っていたり、悲しかったりしたとき、それを表現しようとするとうまく人の身体にならない感覚があるんです。形にならなかったとき、オバケとなって、オバケが生きはじめる。形にならないような強い感情を、描き記しているような感覚もありますね。デジタル上に描き残してもう一度生きるような。
人間も少しずつ進化していると思うのですが、私たちが感じている「嬉しい」や「悲しい」という感情が、身体の進化にどのように反映されるのかに興味があります。
——雪下まゆさんの作品を見た感想を教えてください。
米澤 絵がとにかくかっこいいです! 白い木が鉱物みたいで印象的でした。マテリアルのメッシュ感やジャギーが混ざっている感じが好きです。そこに実際に霜が張っているわけではないと思うんですが、透過することによって侵食し合っている感じがあって。雪下さんの身体と見たものが浸透し合っているのを見て、それらは身体に蓄積される記憶となっているのではないかと思いました。実際に形になった物を現実の光を通して見てみたくなる作品です。